藤田一照(曹洞宗僧侶)
中野民夫(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)


    長年アメリカで活動された後、曹洞宗国際センター所長などを経て、現在は葉山にて独自の坐禅会を主宰されている曹洞宗の僧侶、藤田一照師と、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、中野民夫氏による対談「新たな地球をひらくリベラルアーツZen2.0」をお届けします。藤田一照師は身体系僧侶としてもたいへん人気があり、中野民夫氏は大学卒業後、大手広告代理店を経て現職に至るという、異色の経歴をお持ちの方で、アカデミアに偏らない多角的な視点が魅力です。
    1995年のティク・ナット・ハン来日の際にお知り合いになられて以来、長い長いお付き合いのお二人が、前半で「リベラルアーツとは何か」について、後半で「リベラルアーツの学び方、教え方」について語られます。    
    お二人がこれまでにやってこられてきた活動とリベラルアーツはどのようにつながっているのでしょうか。また、これからの世界を生きる上で、私たちはリベラルアーツをどのように活かしていけばよいのでしょうか。
    お話をうかがっているうちに、「楽しさ」「愉快さ」がこれからの時代の新しいリーダーシップに欠かせない要素であることにも気付かされます。どうぞ、自由にあふれるお二人の対談をお楽しみください。
    第1回は「リベラルアーツとは何か」について、藤田一照師のご発表の採録です。

第1回    藤田一照    新たな地球をひらくリベラルアーツとしてのZen2.0

■腐れ縁の二人

中野    皆さん、こんにちは。東京工業大学の中野民夫です。本日対談させていただきます藤田一照さんは、Zen2.0が始まった頃からよくご登壇されていらっしゃいます。伝統的な日本の禅を、本当にリベラルに打ち破っている少年のような方で、僧侶でこんなに自由な人がいるのかといつも驚かされています。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

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藤田一照師(左)と中野民夫氏(右)
藤田    中野さんとは腐れ縁というんですかね、1995年に日本にティク・ナット・ハンさんがいらした時に初めて出会って以来、いろいろなところでご一緒してきました。何年か前には屋久島にある中野さんの本然庵(ほんねんあん)という素敵な家で共同生活もさせていただきまして、ますますご縁が深まりました。
    本日は鎌倉の建長寺で、今まで話したことのない「リベラルアーツ」というテーマでお話できるのを楽しみにしております。どんな話が飛び出すかわかかりませんが、よろしくお願いします。

中野    今日は前半で、一照さんと私から「リベラルアーツ観」についてお話し、後半で、その学び方、教え方についてお話していこうと思っております。

■リベラルアーツ2.0を考える

藤田    今回、主催者のほうから、「Zen2.0とリベラルアーツ」というお題をいただきました。それで打ち合わせをいたしまして、そのときに、Zen2.0そのものがリベラルアーツではないか、あるいはリベラルアーツでなければいけないのではないか、というような話になりましたので、私からは「新たな地球を開くリベラルアーツとしてのZen2.0」という題でお話をしたいと思っております。英語で言うと、「Zen2.0 as Liberal Arts to open the New Earth」という感じでしょうか。リベラルアーツとZen2.0がクロスする領域についてお話できればと思っております。
    先が予測ができない時代を生きざるを得ない我々にとって、リベラルアーツの問題はすごく大事ではないかと思います。それも、昔からの伝統的なリベラルアーツではなく、アップデートされた、New Earthのためのリベラルアーツ2.0というものを新たに構想する必要があるのではないかと思います。
    伝統的なリベラルアーツというのは──リベラルアーツ1.0と言ってもいいのではないかと思いますが──自由七科からなる西洋起源のコンセプトです。
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    自由七科の伝統というのは、文法学・修辞学・論理学の3学と、算術(数論)・幾何(幾何学)・天文学・音楽の4科をいいます。
    こういった古代ギリシャやローマのリベラルアーツを基本として参考にしながらも、我々にとって、「今、意味のあるリベラルアーツ」、あるいは「今、生きるのに役に立つリベラルアーツ」とはどういうものか、ということを考えていきたいと思います。

■人間を自由にする技
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    現代におけるリベラルアーツ2.0を、まずは「人間を自由にする技(わざ)」であると理解してはどうかと思います。その意義として私が考えているのは、高度な専門的知識を持つことや、狭い領域でスペシャリストになること、専門家になることに、過度に重心を置くことによる弊害へのカウンター・バランスになるのではないかということです。
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    この問題を考える上で参考になる言葉として、『禅マインド    ビギナーズ・マインド』という講話集を出されている鈴木俊隆老師の言葉をご紹介したいと思います。この本は読まれている方も多いのではないかと思います。
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『禅マインドビギナーズ・マインド』原書と日本語翻訳版
    鈴木俊隆老師の有名な言葉に、「初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。」というものがあります。
    この意味での「初心」を磨くということとリベラルアーツが結びつくのではないか、というふうに思っています。リベラルであるためには、常に初心に帰ることが要求されるからで、禅はそれを修行することなんだというのが鈴木老師の言葉の意味なんです。
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サンフランシスコ禅センターの鈴木俊隆老師の肖像の前にて(写真提供=藤田一照)
■涅槃=自由の3つの側面

    私が学んでいる禅は、「涅槃を修行する道」であり、涅槃というものを私は「自由」=「リベレイション」ということとつなげて理解しています。
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    自由には3つの側面があります。
    1つは 「freedom from 〜(○○からの解放)」。2つ目は「freedom to do 〜(○○する自由)」。3つ目が「availability(誰かのためにフリーであること)」です。
こういう三つの側面を持つ自由こそが涅槃であると理解しています。ですから、涅槃とは名詞ではなく動詞として理解する必要があります。Nirvanaではなく、nirvan(a)ingということです。
    禅とは涅槃の実践である、つまり、「禅とは、いつでもどこでも自由であろうとする努力を不断に修行していること」であると考えているわけです。
    こういった点で、人間を自由にする技としてのリベラルアーツと禅はつながるところが大いにあるのではないかというふうに理解しています。禅をリベラルアーツの一典型と考えてもそれほど間違いではないのではないか、と思います。
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■修行者は学生(がくしょう)でなければならない

    禅の修行者というのは、何かの専門家――たとえば瞑想のテクニックの専門家であるとか、仏教の経典を唱える専門家――ではありません。もちろんそういう専門家がいてもいいのですけど、そうではなくて、禅の修行者というのは、まず何よりも生きること万般について自由に探究する学生(がくしょう)でなければならないのです。それを、禅の修行者はリベラルアーツの学生でなければならない、と言い直してもよいのではないかと思っています。
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    禅の修行者が行うことは実に様々です。坐禅や作務、日常の衣食住に関わることや、農作業、建物の修繕、事務仕事など、いろいろあります。経典の学習も行いますし、今なら科学や西洋哲学の学習も行う必要があるかもしれません。あるいは武術も含めたソマティックなワーク、ヨーガ、芸術的な表現活動、社会的な活動、など人生万般に関して、専門家としてではなく、リベラルアーティストとして広く、そしてなるべく深く実践的に探究し続ける者が禅の修行者の姿であるというふうに私は今考えています。
    仏教の伝統が伝えてきた八正道や六波羅蜜は仏教的なリベラルアーツであると言い直してもいいのではないか、と思っています。

■リベラルアーツ2.0の3つの意味

    最後に、先程お話しした涅槃=freedomの三つの側面に絡めてリベラルアーツ2.0の3つの意義についてお話しします。
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    1つ目は、既に知っていること(既知)から自由になること。思い込み、先入観や常識からの解放です。それから2つ目が、我々がこれからいろいろな局面で直面することになる未知を、自由にのびのびと探究する自由。3つ目が、それを協働的な形で行うという意味での協働的作業に対して開かれているということです。これからのリベラルアーツはこういう働きをしていくべきではないか。そしてそれはZen2.0の道でもあるだろうということです。
    以上です。

(つづく)

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2021年9月19日    鎌倉・建長寺にて
構成:中田亜希

第2回    中野民夫    東工大のリベラルアーツ