【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「親はどういう態度で子供に接するのが良いのか」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
親はどういう態度で子供に接するのが良いのでしょうか?
[A]
■慈悲喜捨の気持ちで接すること
仏教では、母の子供に対する気持ちを「慈悲(じひ)喜捨(きしゃ)」という言葉で表すことがあります。
「慈」……友情です。子供にとってこの上ない友人になることです。
「悲」……抜苦とも言います。相手の悩み苦しみを無くしてあげたいという気持ちです。子供が困っていたり悩んでいたりしたら、助けてあげることです。
「喜」……相手の幸福を素直に喜ぶことです。子供の幸福・成功・努力などを、親が素直に喜んで、お祝いしてあげるのです。
「捨」……冷静でいることです。子供が独立して自分なりに生きるようになったら、何も言わずに見守ってあげるのです。
子供に必要なのは、小さい時には自分のことをそのまま理解してくれる人。それから自分が成長すべく努力している姿を応援して、それなりに協力してくれる人です。この二つの役割を果たすことが親の仕事です。
■子供は「分身」ではありません
仏教には「わが子は我の分身」という考え方はありません。全ての生命はそれぞれ個別のものです。「私の子だ」と愛着すると、その生命の自由を侵害したことになってしまうのです。自由や権利を侵害することは罪ですし、罪は悪い結果を出します。激しい愛着や執着で、子供を自分の分身や所有物だと勘違いして子育てをするせいでたくさんの問題が起きるのです。
慈悲喜捨の心で育てれば、子供はずっと親を尊敬し大事にします。おもしろいですよ。執着すればするほど互いに憎み合い、結果的に敵同士になってしまいますし、執着を捨てれば捨てるほど互いに親しくなり、信頼し、相手を大事にするようになるのですから。しかし親に「自分の子供に執着してはいけない」と言っても良くわからないでしょう。無執着=無関心だと勘違いして反発するのです。この二つは同義語ではありません。
■無執着のアプローチを学びましょう
私はこのように話したことがあります。「『この子は自分のところにやってきた宇宙人だ。誰もこの子のことがわからない。だから私が育てあげなくてはいけない。異星人だから理解に苦しむこともたくさんあるだろうけど、時間が経つにつれお互い理解できるようになるだろうから、とにかくみんなに認められるような地球人に育てよう』と考えたらいかがでしょうか? 子育てほど簡単なことは無いと言えるようになりますよ」と。
おもしろおかしく言いましたが、冗談ではありませんよ。生命の真理と、相手に対して取るべき正しい態度を説明したのです。これが無執着のアプローチです。
幸福は他人のおかげではないのです。全ては自分の見方次第です。例えばすごくうるさくて嫌なことばかり言う迷惑な人がいたとします。その人に腹を立てると自分が不幸です。「この人うるさいなあ、どこか壊れてるみたい。だから止まらないんだな」と受け流す人は楽な状態でいられます。そういう人の幸福は誰にも奪うことはできないんです。
とにかく、エゴはすべての幸福を壊します。エゴというのは、自らプログラムを組んで「世界がこうなって欲しい」と期待・希望することです。エゴを無くす最も早い方法は慈悲の瞑想(巻末の『慈悲の瞑想の言葉』参照)です。瞑想は自分を組み立て直す訓練なので、がんばってみてください。
■出典 それならブッダにきいてみよう: 教育編1 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon