アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「忍耐・堪忍の努力をどこまで努力すればよいのか」という悩みにスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    忍耐・堪忍っていうのをどこまで努力して精進して行けばいいのかが、いつも自分との戦いです。身体の痛みとか、攻撃してくる人に対して「怒りを抑える」と頑張って、仏教を学んでいる立場なので精進してみるのですけど、ある一点に達すると負けてしまうんです。
    例えば、身体の痛みとかだと、どうしても、最初は痛みの観察をしながら瞑想したりしているんですが、余りにも激痛だともう、痛みに飲み込まれてしまって、瞑想自体が出来なくなってしまって、結局、薬を飲んで痛みを抑えてしまいます。
    対人関係でも、ちょっと攻撃的な性格の方に、最初は抑えて普通に対応しているんですけど、気がつくと巻き込まれてしまって、こっちもイライラしてしまったりする時があります。堪忍と忍耐は非常に大切な事だとはわかっているんですけど。「慈悲は無量の慈悲を育ててください」と『慈経』にもあるので、制限なく際限なく育てて行くべき物だとハッキリわかってはいるんですが、忍耐と堪忍というのは一体どこまで頑張って精進すればいいのかっていうのは、まぁ、負けてしまったところでこれがまだ自分の甘さなのかな……という落ち込みが始まったりする事もあって、どこまで頑張ればいいのかを伺えればと思います。
 
 
[A]

■期待は自我の錯覚から生まれる

    あなたの話を聞くと、もう負けているっていう波長しか出ていませんね。
    〝期待〟があったんです。だったらヒドイ目に遭わなくちゃいけません。期待とは全く違うことが起きているんですね。期待が無かったら 忍耐・堪忍は問題じゃないでしょう?    怒る必要は無い、もう完全だから何で期待を作ったか、自我でしょう?
    ヴィパッサナー瞑想では、自我の錯覚をなくす事は結果なんですね。だからその程度で、私にはそれ以上答える事は無いんです。忍耐の問題が出てくるのも期待がある時なんですね。絶えず次から次へと期待ばかりを作って作っている。この心の観察が必要なんですね。止めろと言ったとしても〝期待〟をいっぱい作るんです。
    心っていうのは、例えば一分で〝期待〟を百個ぐらい作ってしまう。心に期待するのを止めなさいと言ったら、「じゃあもう一分ね、わかりました」と、さらに一分で四百個ぐらい作ってしまいます。そうなるんですね、もうどうしょうもないんです。だって「期待を止めるという新たな期待」が加わったんだから。
    だからその場合は、「忍耐は修行」という事になるんです。期待を作ることが消えたら、自我の錯覚も消えなくちゃいけない。忍耐、堪忍というのは関係が無くなっちゃう。観察外になっちゃうんです。別に忍耐するべきものは何も無いんだから。そういう事でシンプルでは無いと理解してください。
    全てのブッダの修行は、Khantī(カンティー)、paramaṃ(パラマン)、tapo(タポー)、titikkhā(ティティッカー)でしょう。paramaṃ最高な究極の修行なのであると、これは冗談で仰っているんじゃないんです。修行の究極のトップの修行は忍耐、堪忍であると、その裏には期待があるから、人間の忍耐ができなくなっちゃうんです。〝期待〟を作ったのは「俺がいるんだ」という錯覚があるからです。何でそうなるのかというと、因果のカラクリがわからないからなんです。だから全て語っていますよ、一行で。

■Khantī paramaṃ tapo titikkhā

    お釈迦様は over emphasize余計に言葉を強調することはしないし。軽々しく強調しないんです。フラットに全て語ります。だからKhantī paramaṃ tapo titikkhāと一行で、フラットに全てを語っているんです。
    そういう事で、修行する人は自分の宿題で引っ掛かって大変なことになるかもしれません。まぁ、宿題だからこちらで手を出すわけにはいきませんね。ですから、どこまで忍耐するのかっていうのは正しい質問じゃないんですね。自我から出てきた弱音です。
    ただ、修行する人々にアドバイスしたいのは、忍耐は「どこまで」っていう事は無いんです。極限までなのです。極限も無いんです。忍耐は仏道である、ハイ終わり!    極限まで忍耐しますと言ったら、それから忍耐しなくていいっていう事になるでしょう?    それは無いんです。仏道は即ち忍耐である、終わり!
    私たちは宿題で引っ掛かって、迷路にハマっちゃって、色々なトラブルが起こるかも。これだけは理解してください。お釈迦様が説法する時に初めて言ったのは、「苦行はやめなさい。それから享楽の道もやめなさい」。 どちらも結局は肉体の事です。肉体は物体だからvulnerability(脆弱性)、sustainability(持続可能性)と、限界があるんですよ。どこまで耐えられるのか?    とかね。
    「寝る事は怪しからん」とお釈迦様はおっしゃっています。でも肉体には限度があります。一晩ぐらいなら良いけど一週間も寝ないでいると、vulnerabilityはもうとっくに超えているんですね。それは仏道ではありません。馬鹿なことをやる事は仏道では無いのです。享楽と苦行は止めるよう気をつけてください。肉体を可愛がっているか/いじめるか極端なんです。肉体を可愛がっても得るものは何もありません、肉体はいずれ腐って捨てる。肉体をいじめたからといってどうって事も無いのです。いじめられることには許容量があって、それを超えると死んでしまいます。
    だから精神の安らぎも、精神の成長には達しません。座って瞑想しているとやっぱり痛みが出る。出なかったら困りますよ。プログラムだからね。そこは「痛み、痛み」と冷静に観るだけじゃなく、「自分は苦行をやっているんじゃないか」というところが多かったら、ちょっと変えた方が良いんですね。それ以上はやる必要はありません。
    一日中ふざけて遊ぶのは享楽行でしょう。そういうのは止めた方が良いとは思いますが、その反動で苦行に陥るならばそれも止めてください。苦行、忍耐はそういうところではないんですね。私たちにとって痛みっていうのは、dukkha(ドゥッカ)、vedanā(ヴェーダナー)(苦受)。painは研究材料で、しっかり調べるための物なんです。量を超えちゃいそうになったら逃げた方が良いんですね。
    類人猿の研究をしている学者は、アフリカに行ってチンパンジーやゴリラが住んでいる森の中に滞在します。ゴリラの生態を観察して、データを取って、写真も撮って研究を進めていく。そうしていたらチンパンジーの大群がザザーッと集まってきた。あぁ、いいチャンスだ!    ……いいチャンスですかね?    逃げた方が良いでしょう。チャンスどころか下手すると殺されて研究が全てパーになってしまいます。だから、適当な距離を見ながら色々なデータを取る。そんな感じで肉体にはpainというdukkha vedanāですね、「苦しみ」が入れてあります。それを発見しなくちゃいけないのです。意識が無くなる位の痛みまで行ってしまうと、もう研究の世界ではありません。はい、そういうところをちょっと判断した方がよろしいと思います。


■出典       『それならブッダにきいてみよう:さとり編2」  

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