【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「嘘をつくなかれという戒律は、なぜあるのか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
嘘をつくなかれという戒律は、なぜあるのでしょうか?
[A]
人を騙してでも、欺いてでも、インチキ詐欺や偽善をはたらいてでも、生きていかなくてはいけないのでしょうか。他人の命より、自分の命に価値があるのでしょうか。もし騙してでも、欺いてでも、詐欺をはたらいてでも、生きる価値があると証明できるならば、自分の命には他人の命より価値があると証明できるならば、なんとしてでも生きてみたほうがよいのです。
しかし事実は違います。誰の命も同格です。要するにみな平等なのです。そのうえ他人の助け、他人の協力がなければ、自分の命は瞬間ですらもたない。他人に助けられて、やっと命をつないでいる身分である私に、他人を騙す権利はまったくないのです。ですから嘘をついて人を騙すことは存在の根本的な法則に違反する行為です。生命に生きる権利は平等にあるから、生命が互いに協力し合って命をつないでいるから、生命同士で信頼関係があったほうが、幸福に生きられます。だから嘘をついてはならないのです。
私たちはどこかしらの国の国民でしょう。一部の人々は大人になってから自分の好きな国の国籍をもらいますが、ほとんどの人々はそうではありません。自分の生まれた国の国民なのです。国民にはその国の憲法と法律を守る義務があります。法律を犯したらたいへんな結果になるのです。しかし「私は望んで、頼んでこの国の国民になったわけではありません。生まれたときなにも知らなかった私を勝手に国民にしたでしょう。で
すから私は憲法や法律を守るつもりも、その義務もありません」と言えますか? 言えませんね。そのように私たちも、振り返ってみればこの世に生まれているのです。
自分の命は無数のほかの人々の協力によって成り立っています。「頼んだわけではないので私は勝手に生きてみます」と言うことはできないのです。他の生命の尊厳を守る義務があるのです。人を騙すことは相手の尊厳を犯すことになります。ですから嘘をついてはならないのです。
嘘をついてでも、人を欺いてでも、生きていきたいと思うならば、それは生きることにそうとう執着があるという意味です。しかしあまりにも鈍感で、他人の協力により命が支えられているということも知らない、無智な存在なのです。嘘をつくことによって、みなに信頼されなくなって、社会から追い出されて、苦難に陥ることになる、ということにも気づかないのです。
嘘をつけばつくほど、生きることが苦しみになるのです。生きることに対する執着が強くなるのです。嘘とは事実を捻じ曲げることです。真理を発見する能力が自分から離れてしまうのです。これは智慧を発見する道ではなく、無明(むみょう)という暗黒の世界に進むことなのです。
ですから真理を発見したいと思うなら、無智を破りたいと思うなら、執着をなくしたいと思うなら、楽に生きていきたいと思うなら、日常のトラブルに巻き込まれたくないと思うならば、人は嘘をつかないことです。
ブッダに言われたから、聖書に書かれているから、神の命令だから、などなどの理由をつけて嘘をつかないことにするのは悪くないのですが、それほど格好良いこととも思えません。理解する能力が乏しいのです。嘘をついてはいけないという理論を、理解して守る人には智慧が現れるのです。
■出典 『ブッダの質問箱』