構成:井本由紀(慶應義塾大学専任講師。オックスフォード大学博士課程修了, 文化人類学博士)


    演劇や舞踊など舞台表現のメソッドをベースに、身心にアプローチするグループワーク「シアターワーク」。早稲田大学や慶應義塾大学、海外ではスタンフォード大学などで実践され、いま注目を集めています。このワークショップの魅力を、体験者の寄稿や創始者の小木戸さんへのインタビューを通して伝えていく連載。第3回はワークショップ参加者、経験者の声を4回にわたって紹介していきます。その第3回。構成は文化人類学博士の井本由紀さんです。


第3回    松原正樹さん

     
    次にご紹介する寄稿文は、芸術と身体知をテーマに研究を展開されている認知科学者の松原正樹さんによるものだ。松原さんは、シアターワークを一年半ほど前に初めて体験し、その後、プラクティショナー・コース(脚注挿入:シアターワークを実践し、現場で伝えていくためのファシリテーターを養成するための1年間コースが、2022年から始動した。)を1年間受講している。今はシアターワークの実践と研究の統合を試みてきている同志でもある。シアターワークを通じての自己内省と受容のプロセスから、日常の感覚の変化や、他者や自然との響き合い・映し合いへの洞察まで、読み手を水脈の源流へと導いてくれるような文章に身を委ねてみたい。


シアターワークのこころ~自(おの)ずから動かされる体験がもたらす命の源流との邂逅~
松原正樹
(筑波大学准教授。博士(工学))     

    この連載自体がシアターワークであるかのように、バトンを回しながら共創の場に身を委ねられることを有り難く感じます。わたしから見たシアターワークの世界がどこかに共鳴し新たな気づきとなることを願います。

●シアターワークとの出会い

    はじめてシアターワークに参加したのは2021年4月のことだった。現在、芸術表現を通じた身体知の学びを研究しているように、当時から無意識にその分野に惹かれていたのだろう。それまで妻がシアターワークに何度か参加して心身が変容していく様子を身近に感じ、そこではどんなプロセスが起こっているのかに興味を持っていた。
    桜の木が緑づくその日のシアターワークは葉山・森戸海岸から始まった。葉山という土地は実にシアターワーク的だ。電車では逗子までしか行けず、そこからガタゴトとバスに揺られて海や山の景色に見入られながらたどり着くには、マインドフルな身体の移動が伴う。これが、地下鉄出口から歩いてすぐのオフィスビルやオンラインのヴァーチャル空間で行う場合では舞台会場へ誘う工夫が必要だろう。門のはるか先、山の頂、森の奥深くなど、非日常性を感じるにはマインドフルな身体の移動が伴うように思う。
    集合場所では、ほとんどの人が初参加であるからか、期待や不安、緊張などが織り混ざっているのを感じた。本連載執筆者の井本由紀さんが以前「シアターワークは一期一会、縁であり、円である。」と言っていたように、シアターワークは輪になって参加者それぞれの声を聴くところから始まる。「きく」(聞く・聴く)の語源は一説によれば、やまとことばの「きくる(氣来る)」と言われており、心が動くことで生じた目に見えない気(音・声・言葉)に心を向けて引き寄せることを表しているそうだ。その意味に立ち返れば、人は注意深く聴くとき、言葉だけでなく、声色、表情、身振りなどから今日の心身状態、その人の生い立ちや暮らしを無意識的に感じ取る。すなわち、相手のプレゼンスを感じる――今ここにある一人一人のありようを身体全体で受けとめる――、このことはシアターワークが大事にしている点の一つである。
    極端に言えば、各自のありようを出せて、互いのプレゼンスを感じられれば、舞台の上で円陣を組んであいさつを交わすだけ、あるいは言葉すら交わさずにその場でたたずむだけでその日のワークを終わりにしても十分である。しかし、私たちは社会に適応するためにいくつもの仮面を身につけ、仮面とともに過ごす中で自身の内なる声を聴く力が衰えている。この時も例外ではなく、ほとんどの参加者が本来の自分の声ではないことに気づかずにいつもの調子で自己紹介したのを感じた。
    そんな訳でシアターワークでは身体を緩め地に足をつけるところから始めることが多い。エナジーワーク、ハートビートマインドフルネス、自然散策。形は様々だが、自身のありのままの身体に気づき、その源にいのちの灯があって私は確かにここに生きているのだという実感が湧くのを導いてくれる。以前、本連載の初回で藤野正寛さんが小木戸さんと再会した時に赤面した話があった通り、その意味で小木戸さんは実に上手い。その日も舞台となった森戸海岸に横たわる私たちは慈愛に満ちた温かい大きな手のひらの中に包まれ、ゆっくりと丁寧に心のヨロイを一枚一枚剥がされていった。とても気持ちがいい。ゆるんだ身体は地面に溶けていってどこまでも沈み込んでいく感覚を得る。ある意味いったん死を迎えたと言ってもいい。その後、太陽から降り注ぐエネルギーを感じながら植物のようにじっくりと根や枝を生やす。いのちの灯がゆらゆらと揺れながら大きくなる。本来の姿を取り戻した生命体となって一つ一つが歩み始めて他の存在と出会ってゆく──。
    その後もいくつかのワークを経て、からだとこころが合う感覚が得られ、自身の内側で動くものに従って身体を動かしていくことで本来のわたしを取り戻していった。生きづらさを感じてからは長らく現れていなかった身体の動き。幼い頃そうしていたんだろうなぁというフィット感が身体の感覚として残る。純粋に好奇心の赴くまま動いていると、過去の自分や生まれる前に見ていた風景が自然と見え、時空を超えて見守ってくれた存在の思いやりや慈しみを感じるようになった。

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プラクティショナーコース(後述)のメンバーたちと
太陽の光を浴び地球に身体を委ねて心臓の鼓動を感じることから始まる


●シアターワークでの変化

    シアターワークで動きを取り戻した感情の回路は舞台を降りた後の「あわひ」の時間でも残る。光を失っていた世界に色が差し込んでくるように、同じ空間でも異なる意味世界となり、一度見えたらもう見えている、その変化は戻りようがない。まさにそこで生じているのは学習ではなく学びだ。何か決められたゴールがあるわけではない。評価も比較もされずにありのままを受け入れてもらえる。場の力や他者とのやりとりによって、本人の意思で動くのではなく自ずから動かされる体験による源への気づきこそが身体知の学びをもたらす。
    しかし、自分が忘れていた影や身体との統合には痛みを伴うこともある。切り離す時に生じたエッジを超えるのは簡単ではない。いや、本当は丁寧にゆるしていけばやさしくできるのだが、経験がないと心理的に困難に感じてしまう。私の場合は、初めてのシアターワークの1日目の最後に突然具合が悪くなり、ただ横になるしかなくなった。そしてその夜は心の奥底で眠っていたさまざまな記憶と感情がよみがえり、たくさんの夢を見た。あれは通過儀礼であったのだろう。翌朝目覚めると身体が軽やかになり、細胞にスイッチが入ったかのように内側の感覚がひらかれているのがわかる。目に見えないもの、耳に聞こえないものをたくさん感じるようになる。そのことを伝えた時に小木戸さんが「まさきさん、お慶びでございます。」と見せた笑顔は今でも忘れない。
    日常生活に戻った後も内側の五感に耳を傾けながら暮らしていくことで、わたしがゆきたい方向に身を委ねていける。その道のりはとてもゆっくりではあるが、鉱物が結晶化していくプロセスのように、すこしずつ個性化が進んでいるのを感じる。そして4回目のシアターワーク参加時に30年以上前から少しずつ生き別れてしまっていた自分のカケラたちとの邂逅を果たすことができた。黄昏時に再会できた嬉しさと儚さからか私の涙が止まらなかった。やっと会えた、でももう二度と会えないかもしれない、この時間を終わりにしたくない――と切に願った。十分に会話を交わした後、ようやく現実に戻る決心がつく。しかし、「あわひ」の時間にたち現れたのは「世界はもともと一つで私たちはかけらに過ぎない」というカケラたちがそばにいる感覚であった。わたしたちはそこにいるメンバーとつながりがあるんだよ、カケラたちの声が聞こえ、他者の中に自分を見いだすのだった。
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自分のカケラたちと再会をした日の夕暮
シアターワークでは現実世界に戻るまでの「あわひ」の時間も大切にする


●わたしにとってのシアターワークとは

    人生が川の流れとすると、川にある石は一期一会で生じた営みである。私たちの命が始まる前から終わった後まで道が続く。当然、人によってうねる、とどまる、わかれるなど流れ方は違う。大小様々な石が川の流れを支え、せきとめ、分けて、時には覆い隠し後からしみ出させることもある。流れに勢いがあれば生まれてから辿った道がわかり自分自身の向かう先がわかる。しかし、途中でせきとめられていると流れの勢いが弱まり方向感覚を失ってしまう。
    シアターワークがもたらす世界は、本当はどう在りたいかという感覚を失ってしまった人が源流とのつながりをとり戻す旅そのものである。
    迷子になるきっかけは人によって違う。友人、親子、夫婦といった対人関係だけでなく、いのちあるモノとの関わりも含めて、心に深く刻まれるコトが生じて大きな石に突然道を塞がれることもあるし、善意の手引きによって保護者が置いた石が流れに逆らっていることもある。
    これまで私が受けた小木戸さんのシアターワークでは、参加者に大きな石を直接触れさせようとしたことは見たことがない。むしろ流れが多少見えている場所に対して、流れをなぞらせているうちに小石が流れていくような、とても安心で安全な方法によって川の流れを整えていく。流れが通ると水の勢いは増し、自然と前後の石をも動かしてゆく。これが「自ずから」の正体だろう。どのワークをするかによって、幼年期、少年期、青年期などの異なる時期の感覚や記憶が蘇る。それは他者の動きに「ノる」ことで生じる、つまり客体によって即興的に動かされる動きで、一人の主体的な動きだけでは思い出す事ができないものだ。特に自身の弱くて繊細な部分は、それを備えた他者の動きに共鳴することでようやく気づく。感覚が蘇ると前後の記憶を含めてゆるしや癒しのプロセスが自然と起きる。
    そして大切なのはみんなの注意を共同で芸術領域に移すことだ。舞台に上がることで現実的な思考を置き去りにできる。「なにぼーっとしているの?」「それってなんの意味があるの?」という他者からの目を気にして、動きや感覚を表出するのをためらうことが避けられる。そうして足りないところを埋めようとするのではなく、本人のありようを深く発揮できる。ひいては一人一人が個性化し、それが伝播していってそれが全体として調和されている世界が現れる。
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人生は川の流れのようである。流れを整えると勢いが増し、
源流の在りかや流れの向かう方向が見えてくる


●プラクティショナーコースから見えてきたもの

    2022年2月から参加しているプラクティショナーコースも終盤を迎え、自身の現場でいつでもどこでも誰とでもシアターワークのこころを活かせるための指導を受けている。ファシリテーターが求められるのは、参加者一人一人の声を聞き、その存在から発せられるいのちの灯に向き合い、それぞれがその輝きを取り戻すための旅を、みまもり、よりそい、いざなうことだ。いのちを預かっていることを自覚し、安心安全な場を作れるようにいかに一瞬一瞬に注力するか。自身の心身を整えた先にどんな世界を参加者に見せるのか。指導で提示されるのはもはや技術論を超えて、実践家としての生き方の教えである。それは技術的に同じような手続きでワークを展開したとしても、ファシリテーターのあり方が伴っていなければ、舞台上に現れるのはただのフリだけで、それでは人生の川の流れに影響を及ぼさないことを意味する。
    私の場合、小木戸さんから受けた学びはシアターワークを超えて生活や仕事でも活きていることを有り難く思う。例えば日常生活においては宇宙や大地からのエネルギー循環の中、草木にも命があり、他者との一期一会的なつながりによって自身も生きているのを感じられるようになった。また、職場においても、学生との一期一会の面談の場で、全身で相手の存在を受け止め、本人がどう在りたいか、どう歩んで行きたいかを一緒に見つけていくという、みのりある時間をつくれている。
    プラクティショナーコースでは連載執筆者の望月恵子さんや小木戸さんを含め8人それぞれがファシリテーターとしてシアターワーク実践を繰り返し行っている。同じようなワークだとしても、そのファシリテーターらしさが場に現れ、参加者に異なる感覚や変容が起こる。興味深いのは、ファシリテーター本人の人生が受け手側の参加者たちの反応として色濃く出ることだ。てっきりシアターワークを受けて出てくる反応は自分の問題意識に関するものだと思っていたので、はじめは他の方のシアターワークで得られた感覚が小木戸さんの時のものと違ったことに戸惑いを感じたが、何度か繰り返しているうちに、そういうことなのだと腹落ちした。
    これを踏まえて今、私が関心を持っているのは、今回のコースメンバーに共通する問題意識として現れている「対立する価値観の統合」である。例えば、男性性と女性性、社会性と個人性、生きる力と死にゆく力など。人はみな、もともと対立する概念の両方を兼ね備えていて、それは源流からのつながりから来ているはずだ。しかし、肉体的には特性上どちらか一方に偏っている。したがって、肉体と共通する性質は光が当たっていて良く見えているが、もう片方の性質は影に隠れていて身体の内側にあることに気づかない。そのため、通常は自分の影の性質を持っている相手を探して、補完しようとその相手と関わり合おうとする。一方、シアターワークでは、芸術領域の身体的コミュニケーションによって、他者が鏡のような働きをする。つまり、相手の中に自分の影を見いだし、自身の内側にある部分と共鳴することで実は相手が持っているその性質は自分自身の内側にあることに気づく。そうして本人の中で統合が起きるのだろう。そのためファシリテーターとしては、どんな人に対しても影を映し出す透明な鏡のような統合した状態、すなわち源流とつながった存在であることが求められているのだろう。
    きっと遥か昔の人たちは唄、舞、祈りなどの儀式を通じて、形は違えどシアターワークと同じように万物の存在を感じながらいのちの源流とつながっていたのではないか。これからも私はシアターワークが織りなす身体知の学びの現象を少しでも解き明かして、現代においてもその叡智を必要としている人に少しでも届けられるようにしていきたい。
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相手の中に自分の影を見る。自身の内側と共鳴することで、影との統合を果たす


第2回    水田真綾さん
第4回    望月恵子さん