シュプナル・法純(僧侶)


第5回    社会と仏教


■仏教は社会に対して何ができるのか?

──仏教の教えに基づいて社会の様々な問題を解決するエンゲージド・ブッディズム(※1)という動きが世界的にありますが、そのことに関してどうお考えでしょうか?


    仏教は元々エンゲージド・ブッディズムではありません。むしろ、ディスエンゲージだったと思います。おそらく「ィズム」になってから、エンゲージドされたかと思います。
    ゴータマ・ブッダのブッディズムは出家を前提とした道でした。出家は文字どおり家を出るということですが、「家」というのは、私たちが大事にする家族だけではなく、まず社会の中では大切にされている人情のことでしょう。「よく思われたい」とか、「よく言われたい」というようなマインドセットだと思います。それを全部捨てていく。それが出家なんです。この世に背くことです。だから仏教はエンゲージド・ブッディズムではありません。それを私たち現代人は「役に立たない」「冷たい」とすぐ思うかもしれませんが方向が違うし、目的も違います。
    もちろん、ボランティアなどは社会のレベルでは素晴らしいことだと思いますし、社会を向上することもいいことです。しかし、そもそも、これが仏教の課題ではないし、仏教の心理学では、善いことをするのは一番危ないと言われています。なぜかといえば、そこには「私が善いことをしています」という意識が働いているからです。そのような「私」は、同時に、社会の場の上では、さまざまな役割が出ていることは当然ですが、そこに仏教を入れてみようとすれば、ズレが起こりかねません。