村上光照(曹洞宗僧侶)
田口ランディ(作家)

Webサンガジャパンでは今年1月22日に遷化された伝説の禅僧・村上光照老師の追悼特集を4回(全7配信)にわたりお送りしてきました。今回は『サンガジャパンVol.13    無常』(2013年)に掲載した、老師と田口ランディ氏の対談「ブラフマン世界の自然と仏教の解脱」を再録します。老師の仏教世界が明晰に説かれる貴重な対談の後編です。


二    真実はひとつ、宗教はひとつ、では仏教は?


■仏教を生きる

田口
    私、村上さんが出演なさったNHK「心の時代」の録画を持っているんです。

村上    何回目の?    三回出ました。

田口    そうなんですか。何回目のだろう?    対談のお相手の方がちょっと具合が悪そうで咳き込んでいらっしゃる。
村上    ああ、いちばんおしまいの……。それは三回目ですね。前の日が寒くて風邪をひかれて。
田口    知人から「ぜひ見るといいよ」と勧められて。それを何度も見返しましてね、とくに村上さんが「日本人は仏教といういいものを持っているのに、なかなかそれがうまく使えないでほんとにもったいない」とおっしゃっていることは、私も、まさにそう思っていたんです。
    若い頃は宗教というものを考えたこともありませんでした。四十歳で作家になっていろんな方にお会いするようになって、自分の内面を見なければならなくなりました。……人と会えば会うほど自分がわからなくなってきましてね。昨年、ま、変な言い方ですけど、何か自分の心のなかで仏教を生きようという、妙な決意が生まれてしまったんです。勉強するとかそういうことではちょっとないんですが、この世界で自分が帰依するとしたらこれだろう……、いろいろあるけど自分にとってはいちばんしっくりくるから、もっと真剣に仏教を知りたい……と。
    ところが仏教は生きることはできても、外側から知ることができないのです。仏の法を生きるということは、それまで生きてきた世界観や価値観を捨てることですから、これはやっぱりしんどいのですね。捨てなくたっていいだろうとごまかしてもみるのですが、生き方というのは片手で二つをつかむことはできないんです。
    最初のきっかけは、大きな地震があったときでした。まるで、言葉が立ちあがってこない。こんな大変なことが起こっているのに、ぼう然としてしまったんですね。そしたら、ふいにお釈迦様のことが頭に浮かんだんですね。ああ、もしこの状況をご覧になったら、いったいお釈迦様ならどういう言葉をかけられるんだろう、どんなふうに世界を見るんだろう……と。なんかちょっとそれを自分で書いてみようとしたんですよ。傲慢にも。ちょっとだけ書いてみたんですけど、これはもうぜんぜん違うな、と。書いても書いてもやっぱりまったくわからない。いろんな方にお話しをうかがって「お釈迦様っていうのはどういう方だったんですかね」「どういうことをおっしゃいますでしょうね」とかね、もうさまざまな人に取材に行って聞いたりもしたんですが、やっぱり「わからない」「わからない」と言ってるうちに、だんだん、だんだん不安定になって、具合が悪くなってきてしまいまして。どうしたことか、たいへん……なんていうのかな、自分の内的な問題と向き合わなくてはいけなくなってしまって、ものすごくしんどくなって……。「ああ、これが仏教というものか……」と思ったんです。

村上    作家としていろいろ書かれているのでしょう。

田口    小説は二十冊くらいですね。私が小説を書くようになったのは今から十二年前、兄の死がきっかけでした。兄は長いこと心を病んでいましてね、引きこもったまま部屋で餓死したんです。即身成仏になったとでも言いましょうか。父や母は半狂乱になっていたので、私が腐乱した死体の部屋の片付けなどをしたんです。それを経験したら急に小説が書きたくなって、四十歳ではじめて小説を書くんです。なぜ兄は餓死したのかということを、小説を書いて自分で考えてみたわけです。

村上    書いて、答えが出たの?

田口    いや、出ませんでした。結局、私の小説はいつも、「答えが出ない」という小説になってしまう。でも、言葉は考えと同時に生まれることがわかりました。言葉=思い=意味なのです。言葉と意味は世界を同時に創っているのだ……と。それははじめての体験でした。私は言葉を通しなにかと出会い続けている。それはとても、幸せなことだったんです。だから書き続けてきたと思います。ところが震災のときは書けなかった……というか、書くと怖かったのです。私が産み出した言葉は社会的に語られていた言説と大きく食い違いました。なにもかもがズレているように思いました。被災した人たちの思いはどこか別のところにあると感じ、そこに向けて言葉を差し出そうとするのだけれど、考えすぎてしまって、言葉が出なくなりました。

村上    「通弊(つうへい)」という言葉がありますけどね。その時代その時代の特徴が、表の面、裏の面でありますね。その時代時代に「流行」というのがあって、「流れている」その中で、みんなを代表して凝縮すると、みんな安心するのね。多くの人がその時代にいちばん問題にしているテーマに、みんなワッと寄ってくる。波長が合うということですね。そういう務めを果たしておられると思いますね。だから解決はないわけでしょうね。ただ一緒になってあげただけ。それはとっても素晴らしいことですけどね。
ものごとというのは、高いところにいるのじゃなくてその人の立場になりきってね。専門語で「おなじこと」、「同事」と書くんですけど、自分だけ別世界におったってね、はじめから平行線でなんにもはじまらないのね。
高山樗牛さんが言ったね。「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」。あの方早死にしたけれど、あの方がおっしゃるのも結局、解決というのはひとつの超越という世界。仏教でいうと解脱ですよね。
人間というのは人間という生き物ですからね。人間の能力はありますけど、人間以上のものはわからない。人間の能力の範囲だけで世界観をつくるでしょ。科学だって人間の能力の範囲のことだけしかわからないよ。このことに気づく人が昔からいるね。それで解脱の世界がある。浄土があって、またさらにこの世に帰ってくる人もおるしね。私らは坐禅ということしますが、坐禅はやはり別世界ですね。解脱世界です。しかし入りっぱなしではね。

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■真実語を語る

村上
    僧堂の場合はね、やっぱり親身になってくれる先輩はありがたいね。「もう、へこたれる」というところできつく叱ってくれる。そうでなきゃ頑張れん。それに、私が若い頃は戦争帰りも大勢おったから真剣さが違う。怒るのは不瞋恚戒(ふしんいかい)にふれるから私情で、感情的に怒るということはないよ、お坊さんは。公案、仏法の極意を言ってくれてる。その人にいちばん適切、という言葉をぴしっと投げ込んでくれる。「真実語」というの。
    啐啄(そったく)同時って言葉がありますね。啐啄って鶏が出してやろうと卵をつつくのと、なかにいるひながカラの中からつつくのが一致すること。弟子はだんだん出ようとして、師匠がよしよしと。師匠の入れた言葉が弟子に、同時にぴしっと波長が合う、そういうのを公案という。一言一言が公案、公案って永遠の真理なの。日本語なら日本語で、漢語なら漢語で。サンスクリットならサンスクリット語で、真実語。法華経なら法華経、最初から終わりまで真実語だけだわ。

田口    それは考えるのではなくてもうすっと出てくるんですか?

村上    考えると頭脳智、凡夫智、分別知になるね。無分別知でね。

田口    なるほど。私、つい先日、真実語をいただいたような気がします。すごく恥ずかしいことがあって。大先輩の小説家の方にお会いする機会があったので、「ぜひお話をお聞きしたいんですけども、お時間をつくっていただけますか」というようなことを申し上げたんです。そうしたらその方が、私の顔を見て、「それはあなたにとって本当に必要なことですか」とお聞きになったんです。私ね、答えられなかったんです。「本当に必要か」と問われたら、「どうなんだろう?」と、その瞬間、考え込んじゃったんですね。その方は、「私には時間がないんです。もう、私の心臓はいつ止まるかもわからない」ということを本当に切実に、その意味以外のなんにも余分のことがないそのままの言葉でおっしゃったんです。それを聞いたとき、「なんて自分は身勝手に質問しようとしていたんだろう、そこに切実さはなかったな」と恥ずかしくなって。きのうくらいまで落ち込んでました。

村上    それはほんとの人ですねえ。いい人にお会いしてる。だからね、さっきも言ったように、はじめにいちばん根源、問題、本当に大事なことをもってこないとね。求道心、菩提心というけどね。その求道の言葉。ただ渡世の言葉とか技術的なことじゃなくて、そういうのをぜんぶとっぱらったときに、最後に残るもの、真実語かどうかね。そのはたらきを試されるのね。言葉のはたらき。そしてみんなの目にとまる。小説がみんなの心に食いこんでいくんだから。全体に対して責任がある。

田口    それはもはや、言葉を超えたことば……ですね。


■心の世界を生きる

村上
    ものを言わなくても同じことだよ。心って口から出すだけではないからね。その人の姿形ぜんぶが、真(まこと)をつくってる。お花でも木でも、みんな話しかけてるわね、うたごころで。そういう、みんなが別物でなくなるという世界は楽しいね。みんなが兄弟姉妹、親子になっちゃうからね。楽しいといえば楽しい。

田口    村上さんご自身は、人と暮らすことの幸せっていうのは、どう思われますか?    出家されて、遊行と安居の生活で、家族をもつとか共同体に暮らすとかという生き方はされていないですよね。お互いを必要とし合うような関係をどう思われますか。

村上    人というものにも限らない。すべてのもの、星とも一緒に生きている。だからいつでも孤独じゃない。なぜかというとぜんぶ同じ神の子なの。神様のもとに一緒に暮らしてる兄弟。だから、ある特定の人とか、特別に取り出すということはしないね。「無縁の修行」というけど、縁がないという意味じゃない。あらゆるものとつながっているということね。

田口    でもやはり、誰かを特別に好きになったり、つながり合いたいと思う気持ちはあると思うのですが……。

村上    分けるのは人間の特徴だね。分別という。文化と文明の違いがそこにあるね。文化というのは分化すること。分けてあげて科学みたいに言葉を使ってどんどん、どんどん整理していく。バベルの塔はそれを象徴してるね。とりあえず便利だけど、しかし神様の世界って無限だから無限に塔を積むことできんでしょう。壊れたら言葉が通用しなくなってね。
    宗教の「宗」は源。元はひとつでしょ。けっして忘れてはいけないもっとも大事なことはブラフマン。お釈迦様はね、阿含経に「あなたたちはブラフマンのような慈悲の生活をしなさい」と言っておられたでしょ。ブラフマンというのはようするに慈悲のこと。慈しみ。
    人間だけは日(ひ)(霊(ひ))をとどめる。真心、思いやりの心を授かってる。神様があらゆるいっさいの生き物に思いやりがいきわたって、我が子が幸せになってほしいと願う。だから人間は神様に代わってあらゆる生き物や生態系を、もっと豊かな幸せで満たしてやらなあかんわ。
ある意味、世界的模範でやっていたのは江戸時代。戦前の日本も、国全体に神聖な雰囲気があった。とくに田舎へ行くとよくわかった。隅々まで人の道が行われていた。小学校も出てないのにね。

田口    たしかに私の母は、小学校しか出ていない田舎育ちの人だったんですけど、本当に施せる人でした。よく覚えてるんですけど、子どもの頃に物乞いの人が来ると、うち、とっても貧乏なのに、おかずの半分もあげちゃうんですよね。

村上    マザーテレサが、特別に許しをもらって修道院を出ることになったきっかけを書いてるね。子どもに何かをあげるでしょ。すると、ほんとに貧しいなかでその子は食べないですぐうちへ持って帰って分け合って食べるのね。これにはもう教えられた、と。自分一人で食べて他の子はどうでもいいというんじゃない。みんなの悲しみは自分の悲しみだったのね。近代の、「とったもんが儲け得」、「他のやつは勝手に死んでしまえ」という残酷な世界のほうが恥ずかしいかもしれんよ。

田口    ええ、仏教国ってすごいなあと思ったのはスリランカに行ったときでね。やっぱり物乞いの子どもたちがいっぱいいたので、日本から持っていったキャラメルをバスの窓からいちばん年上の男の子にぽんとあげたんですね、「みんなで食べてー」って。そしたらその子は周りにいた小さい子たちに一個ずつぜーんぶそれを分けて、最後の一個を私にくれたんですよ。

村上    ほんとお。

田口    みんな貧しそうでしたから、修羅のように奪い合うかと思いきやぜんぜんそうじゃなくて、私にまで一個返してくれて。「スリランカってすごい国だな」とびっくりしました。ほんとに印象的で忘れられない。

村上    スマナサーラ長老のお国だわなあ、やっぱり。仏教の国。『ビルマの竪琴』もそうだよ。生き方に感銘を受ける。仏さんが喜んでくださるように生きるっていうのはね、学校教育じゃない。文化がどうか、便利がどうか、お金がどうかじゃない。もっと別の、「道に基づく」というかね。今、仏様や神様の御心に基づくということをもう一度、思い出さないかん時代にどうしてもなるね。


■生命の流転輪廻を支える女性

村上
    それから今の時代、やっぱり女性がますます大切ですね。女性がやはり根だから、根を大事にしないと。いのちのもとだし子どもに密着しているのも女性。女性がけがれないように迷わないように、守らないと。りんごでいうと皮が男ね。傷つく、目立つ。表に立つけどそのなかの実が女性で、そのいちばん大切な種が子孫。男は壊れたり疲れたり、腐ったりするけど、いざとなると中を守るでしょ。女性が女性らしい、いわゆる末那識の世界を純粋に保っておくと、子どもがいいのなあ。「ふるさと」。「ふる」ってただ「ふるい」というだけでなく、根源という意味があるわねえ。いのちの育つところ。
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田口    『女性の仏教』というものがね、あるんじゃないかと思っています。自分が女だから……。私にとって日本の仏教、仏教界というのは男っぽすぎるんです、ああ、ちょっとついていけない……というところがあるんですよ。男の方って、わりと思い込みが激しくて、ひとつのことを突破する集中力には秀でているけれど、柔軟性に欠けるでしょう。それは脳の構造が違うからしょうがないのでしょうけれど、ああ、融通がきかないな……、そしてもっと広い視野で仏教を見れないかな……と思うのですよね。

村上    お釈迦様は尼僧というものを、最初、許可されなかった。女性というのは現実的なの。解脱までしないの。とにかくいのちを育て、慈しむ世界に所属しているから、出家の道とは違う。女性はあくまで、仏教・解脱でなく、現実に残って流転・輪廻。子宮は慈悲心の具体的な形、ここにいのちが育つ。子どもが生まれてまた亡くなってまた生まれて亡くなって……四十六億年。単細胞から繰り返して。みんな生まれてくるとき、もう四十六億歳で生まれてくるの。種だの卵だのからね、一緒に兄弟として。お互いよう一緒に生まれてるな、一緒に生きてるなって、地球で。一種のサンガ形態で。

田口    村上さんがおっしゃるその「サンガ」の定義はとても新鮮でわかりやすいです。村上さんのなかには村上さんの仏教があり、それが村上さんの言葉で語られるとき新しいいのちのように立ち上がってくる。そうやって語っても大丈夫なんですよね。仏法僧の三宝があれば……。それが仏教のしなやかな強さだなあ……。

村上    ともに生きるという、それが本来の人(霊止(ひと))としての日という、ブラーフマンの心。「神は愛なり」というけど、愛というのは翻訳が安易で「慈悲」だよね。慈しむ心。ねえ、バクテリア一匹でも神様の子どもたちでしょう。どれもなくちゃいけないのよ。どれ欠いても地球のバランス崩れるの。人間だけは自分の都合でそれを崩してるでしょ。
    たとえばギリシャの文化財なんかも黄金で飾ったりして人工的・作為的でしょう。王の権力を示すために何倍もの奴隷をつかって。イギリスやフランスのために多くの植民地が必要だったのと同様だね。今なら一人がお金持ちになるために、人間以下の修羅とか畜生とか、多くの大衆を刺激する商品を売ってお金を集めて。アメリカにも中国にも、ひでえお金持ちがいる。いつでもそういう二層構造になってしまう。

田口    それは男の方たちが論理と合理でつくり上げてきた世界ですね(笑)。融通がきかないから二極化しがちなんです。

村上    そうそう。男って付加物なのよ。もともとの種でなかったの。多様な変化に対応するためにメスからイボみたいに出てきた、あくまでサブ。生命そのものに密着しているのが女性。男性はそれを一回離れて、もっと自分の都合のいいようにやる。こうやったほうが儲かるとか、こうやったほうが得するとか。男の子は子どものときから機械が好きだね。ここの部品を分解して、また自分(自我)の思うように作り替えたりね。で、相手と対立するわな。ちゃんばらごっこも好き。
    大切なのは女性。女性によって子どもが授かる。生命界でいうといちばん大事なのは、その種族がずっと続くこと。その責任をもっている核心は女性なの。宗教というのは、それを超える。男の人は悪い面でも対立文化もつくって、りんごの皮だから目立つ。しかし、本当のものは内蔵されているの。そういう、ぜんぶをひっくるめて「おかしいよ」と気づくのも男性なの。女性を守らなければいけないというのもね。

田口    男性と女性を対立させて考えるのは仏教的ではないので……、これ以上の発言は慎みます(笑)。長い抑圧を経て男性も女性も自分たちのなかの女性性、男性性に気づいている時代だと思うのです。私は今、五十二歳でちょうど娘は高校に入って手もかからなくなり、自分の両親と夫の両親も看取ってあちらの世界に行っていただいた。嫁としての役目もある程度終わったけれど、でもまだ寿命があるんですね。それでいまからやっと仏教ですから……。これからそういう人がどーんと増えてくるわけです。日本人女性は長生きですからね。余生をどう生きるか、それは女性のほうが積極的に考えていますね。仕事への依存が少なかった分だけ、古い自分を手放せるんです。

村上    仏教学という学問がある。西洋人独特の神学という学問もある。学問が、言葉が神様になったから、なんでも人間の分別知でわかるという傲慢な西洋的な文化形態ね。それを一回ぜんぶご破算せにゃいかん。それ、女性のつとめかもしれん。


■宗教的真実を読み取る力

田口
    私、このあいだ松田さんという、若手の古事記の研究者の方とお話ししたんです。彼独自の古事記の読解をなさっていて、「アマテラスの降臨によって人間は山川草木の声が聞けなくなった。そのかわりに論理的な言葉を使えるようになった。スサノオというのは山川草木の言葉を聞くことができる神様だった。天孫降臨まで人は草木の声を聞けていたんだけども、新しい神の出現とともに言葉の世界が人間を支配していった。理知には明るくなったんだけれども、草木の話す言葉以前のことばが聞こえづらくなった」。そういうことが、古事記を読解するとわかるということをおっしゃっていたんです。

村上    ん、すごい人だな。物部(もののべ)文字、神代(しんだい)文字ってご存じ?

田口    神代文字とは、中国から漢字が入る以前に使われていた文字ということでしょうか。一度、研究者の方に見せてもらったことがあります。ただ、それは「あいうえお」と対応していて、五十音の発生は平安ですから、ちょっと矛盾があるな……と思いましたが……。

村上    「八雲立つ    出雲八重垣    妻籠みに    八重垣作る    その八重垣を」ってあるでしょ、スサノオノミコトが詠んだ、あれが和歌のいちばん元祖といわれてる。実はあの歌はね、現代語で読むから漢字で八つの雲なんて書くけど、神代文字で読むと、「やくも」っていうのは悪いことした人、犯罪者。「やえがき」というのは掟のこと。掟をやぶる。そういうことをふたたびやる人がなくなるために、「やえがき」という掟を作った。そういう解釈もある歌なの。国を治めるために。そういう古事記の読み方もある。

田口    古事記は万葉仮名、つまり漢字を音で当て字にして表現していますから、漢字のもつ意味にどうしても引きづられてしまいます。ですから、漢字から一度離れて「やぐもたつ    いづもやえがき……」とは古代の人にとってどんな意味をもつことばだったのか、を想像することは、古代の世界を新しく発見することかもしれませんね。松田さんによれば、稗田阿礼は漢文として書かれた日本語を、大昔の大和言葉に同時通訳、翻訳できるトランスレーターだったそうなんです。つまり稗田阿礼は、大和言葉がもっている宗教的真実を読み取る力があったということですよね。村上さんの、言葉(社会に流通している解釈)を超えてことば(神話的意味)を読み取る力は、かつて学ばれていた物理学とつながるところがあるのでしょうか?
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村上    科学的なものの世界観。すべての元というと、生物現象でいえば高分子でしょ。分子は原子でしょ、原子は素粒子でしょ。理論物理学にいくと、かんたんにあらゆる科学的見方の本質がすぐつかめるの。
世界中、まだ白人だ黒人だ、国のなかったころの、一万年、二万年前の宗教というのはなんか共通性があるの。宇宙というものをひとつの木にたとえる。宇宙樹。必ず両方にお陽さまとお月さまがあって。千手観音さんとかそれを象徴しているね。

田口    そういうものが、時を経て融合し、ハイブリッドに洗練されながら今に至るということでしょうか。
村上    宗教というのはね、世界にひとつしかないの。神様っていうのはただブラフマン(梵、梵天)ひとつ。
    ブラフマンを手伝うエンジェル、八百万(やおよろず)の神様。これは世界中共通しているけど、その風土におうじて表現の仕方が変わる。その国によって、その国独特の欲望、願望が混じってくる。
    真実はひとつやろ。宗教だってひとつ。神様世界中にいろいろおったら困るわ。あらゆる天地宇宙を創造なさった産みの親。あらゆる生きもんの親というのはただひとつ。我の汚れがない普遍の愛。全世界、全人類の宗教はただこの神(梵)を仰ぎ、慕い、それに違(たが)うことなくいそしむことで、ただひとつ。あとは人間がいっぱい都合よくかえたんだ。
    神聖な尊さひとすじで、ひれ伏すのがほんとの宗教。欲も得もない、国境も民族もない、純粋さを保っていくのが宗教家の基本なの。仏教はこのブラフマンの世界を超脱せないけんからね。解脱っていうのは不自然なの。
「不易と流行」っていうでしょう。不易って変わらん。流行って変わりづめ。この不易の世界に根差していない科学ってちょっと危ない。科学を裏付けるのが哲学ではちょっと問題があるけどね。
    哲学って宗教を頭で考えるからおかしくなる。西田哲学は、いちおう坐禅の世界から西洋文化の哲学の欠点を鋭くついた。たとえば自然現象の美しさ、自然現象の尊さを扱った哲学は西洋にひとつもないということ。

田口    そうなんですか。

村上    うん、自然を征服するための哲学ばっかだわ。人為的。第六意識までの哲学だよな。宗教っていうのは反対でしょう。求めるものに自分をやめる姿だから。これは西田さんもそうとう言うんだけど。そっからはじまってひらめいてくるもの。そういう三昧というところから説き起こしているわな。

田口    うーん、原子物理学を学んでいた視点から宗教の本質を見ようとなさると、そういうことなんですね。これから宗教と科学はより多くの接点を見いだすようになるかもしれませんね。哲学はわからないことを「わからないとして考える」という態度ですから、宗教と哲学は相容れません。でも、宗教と科学が対立せずに対話するためには、哲学という仲介者が必要だと思っています。哲学という学問ではなく、哲学的な態度……と言ってもいいかもしれません。この三つは、じゃんけんぽんの三すくみのようなものに思えるのです。


■真善美の無分別知

田口
    私、人間って「美しい」ということをなぜ知っているんだろうと、子どものころからずっと不思議に思ってたんですよ。花を見たときに、やっぱり美しいと思う。きれいな景色を見たときに「わー、美しいな」と思う。この「美しい」という感受性というのは神様の心となにか関係があるんですか?

村上    真善美というでしょう。数学がよく似ているの。数学はね、分別知がじゃまになる。「なぜ」、「なぜ」、「なぜ」でいくのは分別知やろ。そうじゃなくて、素直に子どもでもなつくような、調和。「美」なら「美」。「これは数学的に真理だ」と。

田口    そうなんですか、無分別知だとすれば、それは直感的に?    真善美はぜんぶ直感で得られるものなんですか?

村上    直感的に。「ぱっ」とこれは真理、これは真理じゃないと。もうシャッターを切るように、景色全体がパッと見えるの。美しいと思うものを求め続ける。これは数学的真理である、と。それを人に説明するためには、写真を文章にすると長くかかるように時間をかけて論文を書かなくてはならないけどね。

田口    美はわかりやすいけど、真と善というのがわかりづらいなあ。

村上    善というのも、一般的な善悪の善じゃなくて、すべてがよくおさまっていて気持ちいいこと、風呂へ入ったみたいに。これが人の進むべき方向ですよ、という。真というのは言葉じゃない、「まこと」。美しさ楽しさ喜び、ぜんぶそなわっているね。シマウマがライオンに追っかけられて逃げて、つかまって食べられたから恨めしいと思わんわ。急所をすとっと、競争力の劣ってるものをかならず安楽死させる。ファーブルの昆虫記見てもすごいね。ハチが第何関節にすぽっと一瞬にして麻酔さす。苦痛を与えないもんな。人間は残酷だよ。拷問まで考える。悪魔にもなれる。鬼にもなれる。
    もうね、悪魔や鬼の業をもった人、気の毒だ。亡くなって次、地獄に落ちたらもう救いようがないだろう。その人の行いに応じて次の時代ができるからね。千年、二千年じゃないもんな、後生っていうのは。地獄に生まれたって二億一千万年、またまたもうつらいことしかないわ。中生代ぜんぶぐらいあるよ。人間ならちょっと今日一日悩んだっていうことはあるけど、それこそ一生悩んだぐらいじゃないわ。それが三回続いてやっと六億三千万年や。後生ってそんなだよ。一生は一瞬だけど。人に生まれてるこの一瞬がどれだけ大事か、十界のどこに所属しておくか。仏縁を得てるか得てないかっていうのがいかに大事かね。そして、この業の世界、阿頼耶識(業識)という、業の無明の流転体を救うのは神様はできない。神様は六界の一で最高業で尊いけれど。


■宗教的救済と仏教の根本的な違い

村上
    神様は我が子がかわいくてかわいくて、みんな幸せになってほしいと願っているのに、肝心な人たるものが悪魔みたいになって、わがまましだして。仏法というものがなかったら、人としての日(ひ)(霊)止(と)をとどめようとするどころか、逆のね、うまいもん食ったり、色気をはったり、で、みんなだだだだーっと、ひどいところに落ちていくのばっかりになるだろう。梵天がお釈迦様に礼拝して「どうか法輪を転じてください」と言ったのは、だからなの。我が子でも不良化したら親がどうしようもないわ。神様でもな。もっと心をね……一人ひとりがそれぞれ波動を発してるからね。一人の人がちょっとでも濁ったものを発したらあらゆるものが濁りだすのね。

田口    一人の人が発しただけであらゆるものが濁ってしまうんですか。

村上    波動ってそういうものですよ。物理的波動はね、熱の波動とかなんとか出してるのは、それはそんなに届かん。心の波動はね、ヒトラーが一人でてああいう波動を発したらどういうことになった?    みんなヒトラー万歳になったよ。

田口    確かに。……阿頼耶識というと、名前がついてるから実在みたいですが、現象の世界なんですよね、物質化されてないものですよね。識だから。
村上    この世の物理現象の範疇では説明できないことでね、しかもはっきり人間の目に見えるように物質化することだってあるでしょう。そういうのをカトリックでは奇蹟というけどね。
    よく気軽に霊魂という言葉、使うけどね。霊魂と言うと俗言でわかりやすく迷信のもとにもなるが、識のいちばん奥にある、あらゆる行いを「識(しる)」し込んでメモライズしてある「蔵(アーラヤ)」の識(阿頼耶識)こと。たとえば目で見るのではない。視神経も視覚野も、ただの高分子体で、見るいのちのはたらきはないの。眼識がちゃんと識別している。科学的には測定不可能なのだけど。
    私は人魂を見たことあるの。湯河原だったね。四十六歳で奥さんと娘を遺して帰らぬ人になった社長さんが、「どうも家にいる」って家族が言うので呼ばれてね。ちゃんと神棚の整理をして祝詞(のりと)をあげて、仏壇も掃除して先祖さんの供養をきちっとして「さよなら」と言ったらね、帰り、満天の星空でね、玄関の階段のところで「あー」って言うから見たら光がシュッーと。リンが燃えるときの紫色みたいな色とはまた違ってオレンジ色のね。それからパタッと出なくなったそうだよ。
    道徳は人を救い宗教というのは霊魂を扱う世界で、頭の考え方とかものの見方とかじゃないのよ。潜在意識でもない。生まれ変わり死に代わりする霊的なものに救いを与えるのが宗教だからね。それを本当に決定的に解決したのは仏教しかないわな。それはユダヤ教でもちょっと扱えない。

田口    わかりました……。宗教的な真実を宗教的ではない世界の考え方にあてはめて考えても、それはすでに法が違うということですね。

村上    そう。唯識学の本を読むとね、日常生活しかしたことのない、宗教生活も宗教体験もしたことがない人が書くんだから無茶。霊的な作用も人を救う力もない。何億年の地層を解決するのに分別知ではね、知識と器用な頭のはたらきで書いたって無責任。枝にいくらペンキ塗ったって、枯れ葉が緑になるわけないだろ。そんなことしてる感じするな、宗教学って。
    お堂の奥にいた私自身は見なかったけれど、四十人くらいの人が集まって地蔵講をしていたら金粉が出たこともあるよ。母がそういう体験があって、そのとき出た金粉をお守りに入れてもらっていたからそういうこともあるのは知っていたけど。拝んでたらお袈裟にもきらきら、黒いのを着てた人が、なんかへんな模様だなと思ったら金の粉だった。それはしばらくすると消えたそうです。

田口    つまり宗教的な真実に入っていきたいのであれば、宗教的な法の世界を生きなきゃいけない。そのじゃまになるものを、歯の神経を抜くように一本一本抜いて、一個一個はずしていかなくちゃいけないわけですよね。

村上    そう。日常人間チャンネルの生活しかみんなしていないでしょ。そして「今日なに食おうか」とか、「だれのところへ行こうか」とか。雑用でこういうふうにいっぱいはたらく業があるわ。修行のときはちょっと鎮めないとね。

田口    仏教が道徳や倫理と混同されてしまうのは、仏法僧が正しく理解されていないからではないかと思いました。道徳や倫理は社会の変化とともに移ろうものですが、仏はそれらすべてを「空」として、人間が世界認識する摂理を示し生き方を説いた。その根源のところがわからないと、小賢しい倫理道徳を振り回すだけのものに見えてしまいますね。実際、私もそう思っていましたし……。


■仏縁をもたらす

田口
    さきほどから仰っている仏縁というのが、いまひとつよくわからないです。もう少し詳しく教えていただけませんか?

村上    「南無阿弥陀仏」とひとこと申しても仏縁はつくの。あちらから来てくださる。法華経の方便本にもあるけど、酔っぱらって、冗談でも仏さんのところに拝む真似してもそれで仏縁がつくと書いてあるわな。何億年かたったらかならず仏さんのとこへ生まれる、と。仏縁だけはみんなにつけておいてあげないかん。このお袈裟を見るか見ないかでも仏縁がつくの。大乗の菩薩乗の姿その極致。仏様のほうから差し伸べてくださる力に乗せられる。

田口    そういうものなんですか。袈裟って本来、なにを意味しているんですか?    仏法を生きていますよという目印?

村上    お袈裟は悟りの姿。お釈迦様の悟りの正体なの。お釈迦様そのものとして仏様のお身体であり心の形。お袈裟は水田なの。色はカーシャーヤ。カーシャ色、「ヤ」は色という意味。赤褐色(せきかっしょく)、エンジ色、古代米の赤米の色。今は小豆を入れるけど、大切なときは赤米を入れる、神聖なお米。お米って神様だからね。水田が世界を救うと言う人もいる。道元禅師も坐禅のときは必ず袈裟を着けて、袈裟に守られて坐禅しろと言われた。
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    大乗ってふたつあるの。「仏様の力によってわれわれは修行するので自分の力によって修行するんじゃない」というのと、「一所懸命修行して、菩薩道繰り返して仏さんになる」のと。菩薩道と仏道。法華経は唯一仏道で、徹底的に他力なの。阿弥陀教もね。人間の力でむへん(無限)の衆生を救えるわけなかろ。仏さんの力でもって人の身体をもちながらそのまま全世界照らせるの。そのとき、人間はそのままストップせなあかんでしょ。それが禅定。もっと永遠の時間に入ってしまうからね。
    過去世のことは前際というの。現在は中際。で、来世が後際ね。親鸞聖人は「念仏は生死輪廻の前後際の苦断ず」と、輪廻の生死をちょん切るといい、道元禅師は「前後裁断」と言っている。これが解脱なの。人間がする、個人持ちの悟り(小悟)をひらいて、「いい心境に達した」とかそんなんではない。禅定波羅蜜とか三学という、戒律、禅定、智慧という、その禅定ではない。ところがいつのまにか禅定宗が禅宗になって、禅定を求めるようになって、その禅定(天地と一体)を見性とかいうけど、そうじゃない。仏法僧なの。仏のあり方。存在、beingだね。そのあり方としての坐禅、仏法としての坐禅。そのかわり、無所得だから人間が入っちゃだめなの。仏さんが人間の代わりに入ってのりうつる。すると、あきらかに後光がさしてるから師匠が礼拝する。そこまで坐禅がいったときには悟ってる、それを大悟という。果てしがない。永遠に。

田口    でもそれは、大悟している本人にはわからないんでしょう?

村上    それがわかったら小悟だ。

田口    なるほど面白い!    つまり坐禅は仏性を自分に顕現させるものなんですね。仏性そのものになる、しかしそれを目的にはしないから「道」だというわけですね。

村上    それを見性成仏という。仏性が見われる。仏様が現に働いておられる。

田口    お話を聞いていたら、もっと坐禅をしたくなりました。
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2012年7月・静岡
構成:川松佳緒里
撮影:聡明堂



一    禅って何ですか?


『DAIJOBU─ダイジョウブ─』

村上光照老師の晩年の7年間を記録した映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』が9月9日(土)より公開されます。村上老師とともに描かれるのは、撮影当時はまだ現役のヤクザの親分で、ヤクザと人権問題をテーマとして話題となった2015年の映画『ヤクザと憲法』に出演した川口和秀氏。二人の出会いとその後が描かれたドキュメンタリーです。

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【公式ホームページ】
http://daijobu-movie.net/
出演:村上光照、川口和秀
プロデューサー:石川和弘
監督・撮影・編集:木村衞
サウンドトラック:笹久保伸
エンディングテーマ曲:細野晴臣「恋は桃色」
ナレーション:窪塚洋介

【劇場情報】
●アップリンク吉祥寺
2023年10月20日(金)~
https://joji.uplink.co.jp/

●横浜    シネマ・ジャック&ベティ
2023年10月21日(土)~
https://www.jackandbetty.net/
初日・初回上映限定・舞台挨拶決定!
DAIJOBU-ダイジョウブ-の世界を木村監督の言葉で直接みなさまにお伝えします。
【日時】10/21(土) 14:00の回 上映前
【登壇者】木村衞 監督

●アップリンク京都
2023年12月8日(金)~
https://kyoto.uplink.co.jp

●名古屋    シネマスコーレ
近日公開
http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/

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