アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「勘が鋭いって どういう意味?」です。
[Q]
初対面の人の性格を一瞬で見抜いたり、他人が考えていることを的確に言い当てたりする、いわゆる「野性の勘」が鋭い人に何人か会ったことがあります。 このように勘が鋭い人と、そうでない人との違いはどこにあるのでしょうか? また、仏教的にそのような勘を鍛える方法はあるでしょうか?
[A]
■世間の価値は 煩悩そのもの
私たちが「野生の勘」「勘が鋭い」というのは、人間の世界の価値観で言っているだけのことです。それぞれ人には性格があります。性格というのは、活動している煩悩の種類によって成り立っています。煩悩の側面は二つあります。表面的に活動する煩悩と、基礎となる普通は気がつかない潜在煩悩(随眠)です。表面的な煩悩は、裏にある潜在煩悩から出てくるものです。それらの煩悩にはパターンがあって、それを性格だと言っているのです。
潜在煩悩に気づいて変えることができれば、性格を変えることも可能ですが、それほどの力は一般人にはありません。しかし、全ては無常で変化しますから、時間の経過と共に煩悩の二つの側面も変わっていくのです。一応、意図的に変えることもできるのだ、と憶えておいてください。
■「勘」とは 匂いを嗅ぎ分けること
そこで、人間の世界では、互いの煩悩が似ている同士で、犬みたいにお互いの匂いを嗅ぎ合っているのです。「勘が鋭い」というのは、自分が持つ煩悩を基準にして、他人の匂いを嗅ぎ分けているだけです。それだけの話です。
相手の匂いを嗅ぎ分けるというのは、誰でもやっていることです。これをやらない人というのは、あまりにも我が強かったり、病的に自分のことしか関心が無い人だったり、また一般的にアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)と言われる人だったりします。人々というのは普通、他者と意思疎通をしていて、自分の世界を持ちつつ、社会という他者との関係・繋がりも持つようにするものです。
■人間の場合 思考を窺うことで相手を知る
これは生きるために必要なことです。自分が生きるために、他者がどんな煩悩を持っているのかを、相手の匂いを嗅ぐことで窺ってみるのです。犬と違って、人間で言うところの〝匂い〟は「思考の傾向」です。相手がどんな考え方をしているのか理解する・窺うことになります。犬がやっているように物理的な匂いを嗅ぐわけではありません。人間同士の場合は、心の世界にある思考を指しています。どんな相手なのか? という煩悩の嗅ぎ分けを日本語では「勘」と言っているだけです。
一般的に、勘が鋭くない・鈍いと言われる人は、自分のことを考え過ぎです。自分にしか興味・関心が向いていないから、他人の思考を嗅ぎ分けられないのです。世の中でよくあるのは、似た者同士でグループを作ることです。欲に偏った人々は欲のグループを作り、怒りに偏った人々は怒りのグループを作る。性格の似た者が集まって仲間だと思っているのです。それは煩悩の仲間なのです。
■生命は煩悩で繋がっている
自分の持っている煩悩形式が似ている人は、良い人だと判断したりします。逆に煩悩形式が似ていない人は、悪い人だと判断したりする。自分がその人を気に入るところ、気に入らないところを見て、相手を勝手に判断するのです。結局は自分が気に入るか気に入らないかで、相手を信用できるか不審に思うか、そんな程度で人を分類して、人の心を嗅ぎ分けているだけのことなのです。
ですから、「勘が鋭い」といっても、別にたいしたことではありません。ちょっと水を差すような回答になってしまったかも知れませんが、質問自体は心理学的に勉強になるポイントを訊いていると思います。
■日常茶飯事に起こる「勘違い」
勘が鋭いというのは褒め言葉のようですが、私たちは日常生活の中で「勘違い」する場合もかなり多いです。だいたい、皆さんは他者の煩悩形式をきちんと確認しない傾向があります。表面的な煩悩の特徴だけを見てすぐに判断してしまうのです。よく「良い人だと思ったのに裏切られた」というケースがありますね。その反対に「悪い人だと思っていたけど、本当は優しかった」という場合もあります。ということは、ぜんぜん勘が当たっていないということになります。仏教の世界では表面的な煩悩ではなく、基礎となる潜在煩悩を見て相手を判断する技術も伝わっています。しかし、残念ながらその方法は教えられません。決して秘密ではないですが、判断方法の習得が難しいのです。個人的に師弟関係を結んでいる間柄であれば対話によって教えることも可能ですが、公の場で教えるということはしません。
■性格は 基礎煩悩によって働いている
人の性格を判断する場合、いま活動中の煩悩を見て判断をくだすのは間違いです。人が怒っているからといって「怒りっぽい性格だ」とか、ニコニコ笑顔だからといって「明るい性格の人だ」などと決めることはできません。それは表面的な煩悩の現れであって、その裏には基礎となる潜在煩悩があるのです。繰り返しますが一般的に言われる「性格」や「個性」とは、その潜在煩悩を指しています。
そこで言えることは、他人の潜在煩悩を理解する必要は無いということです。それは、人々に仏教を教えたり、説法したりする人にだけ必要なことです。説法するということには、ある意味で危険・リスクがあります。説法を聞く人々は、表面上はともかく潜在煩悩のレベルでは真理に大反対なのです。みんな自我を肯定して欲しくて、認めて欲しくて、おだてて欲しくて、褒めて欲しくて、「あなたは特別で偉い人だ」と言ってもらいたくて期待しているのです。しかし、仏道では人々の煩悩を肯定したり認めたりはしません。むしろその逆で、煩悩の危険性・欠点・短所などを派手に説明するのです。
■指導者には 相手を知る必要があるが……
人間にとって唯一の宝物は煩悩なのです。そんな人間を相手にするのだから、仏教を説法する人は潜在煩悩という心のフォーマットを理解したうえでしゃべらなくてはいけないのです。皆の宝物である煩悩を激しく攻撃する内容を語りつつ、自分は攻撃を受けているとは感じさせないように、巧みにしゃべらなければいけません。その上で、自分の煩悩と戦う勇気や意志を惹き起こすように相手を導くのです。私も説法する時には、人を見ながら話す内容を調整しています。瞑想指導する場合も単純なルーティーンではありません。指導する相手の性格を読みながら、微妙にアプローチを変えているのです。
真理を教えるという目的を離れて、潜在煩悩を理解する方法が世の中に広まってしまったら、どれほど人々が搾取され、支配され、傷つき、苦しむ結果になるかわからないのです。もし会社の社長が社員の潜在煩悩を熟知したなら、社員の心を操って最大の生産性・成果・利益をあげることしか考えないでしょう。ボーナスを払いたくないと思ったら、言葉を巧みに使って、社員たちに「もう充分もらっているから……」と錯覚させることも可能です。給料をカットしても社員が不平不満を持たないように真理操作をして、「自分たちは会社に対して良いことをした、貢献した」というふうに思わせることもできるでしょう。
そういうわけで、人間は試行錯誤で失敗を積み重ねて学び、相手の心を理解していけばいいと思います。「勘」というのは、自分と似ている煩悩(性格)を発見する能力です。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』
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