国府田 淳
(クリエイティブカンパニーRIDE Inc.Founder&Co-CEO、4P's JAPAN Inc. CEO[Pizza 4P's Tokyo@麻布台ヒルズ])
気候変動、戦争、格差、パンデミック、ストレスや精神疾患の増加など不確実性が高まり、心安らがない状況が続く昨今。外的な要因に振り回されずに地に足をつけて生きたい、今後のビジネスや生活を支える羅針盤を手に入れたいと考えている方は多いと推察されます。
そんな時代だからこそ、原始仏教がますます有用になるのではないでしょうか。私は日々のビジネスシーンや生活の中で、それを実感しています。
本連載は原始仏教とビジネスの親和性を描くことで、心のモヤモヤや不安を和らげる糸口を見つけてもらおうという試みです。
第3回 原始仏教の到達点「悟り」とそれに至る「瞑想」の重要性①
1 縁起や無我を感じ、コンパッションが溢れ出した個人的な出来事
ここまではなぜ原始仏教に興味を持ったのか、原始仏教をビジネスにどのように活かせると私が考えているのかについてお伝えしました。ここから「縁起」「四聖諦」「八正道」「瞑想」「悟り」それぞれについて、実際のビジネスのエピソードも交えながら詳しくお伝えしていきたいのですが、結論ファーストということで、まずは原始仏教(仏教全般も)の到達点である「悟り」とその過程で重要な「瞑想」についてシェアした後に、そのベースの考えとなる「縁起」「四聖諦」「八正道」に触れていきたいと思います。
2016年の秋、私はインド北部のダラムサラ近郊のビール村で行われたワンダルマ仏教の山下良道氏のリトリートに参加しました。山下氏は曹洞宗で20年修行され、その後、アメリカで禅の布教に勤しまれたのち、ミャンマーでテーラワーダ仏教の修行をされた僧侶です。禅と原始仏教の流れを汲んだテーラワーダ仏教の両方を学ばれた稀有な存在で、両方の優れたところを取り入れつつ、目指すところは同じ、つまりワンダルマであるという思想をもとに活動されています。瞑想の方法も二つのハイブリッドで「Me as Buddha nature」を目指す、独自のスタイルです。
私はそれまでも瞑想や坐禅に取り組んできましたが、禅とヴィパッサナーの良いところを取り入れた山下氏の瞑想スタイルが好きで、リトリートに参加させてもらっています。この時は、5日間にわたり朝の5時から夜の21時まで瞑想やヨガを行い、食事はすべてヴィーガンのインド料理で回数は自由、2名1組が同じ部屋でサイレントで過ごすというプログラムでした。1〜2日目はさまざまな思考が湧き上がっては消え、足なども痛く、辛さがなかなか抜けないのですが、3日目くらいから徐々に思考が抜け落ち、身体も慣れてきて辛さも感じなくなり、心地の良い普段とは違う意識状態(変性意識状態)に入りました。いよいよ最終日となった時に、最後に純粋意識のようなものが2つ立ち上がりました。
一つ目は「ああ、生かしてもらってありがたいな」という感覚です。生きていることがありがたいのではなく、「生かしてもらっている」というイメージが強く出ました。そして家族や仕事の仲間たち、友人などがワッと走馬灯のように浮かび上がり、皆さんに心からの感謝を念じました。自分が繋がりの中で存在しているという「縁起」を、身をもって感じることができたのです。
インドのDeer Park Instituteで行われた山下良道氏のリトリート
もう一つの感覚は「起業して間違っていなかった、今、自分は自分の人生を生きさせてもらっている」という感覚です。就職活動の途中でドロップアウトするまでは、偏差値の高い高校や大学に行くという、いわゆる世間体のレールの上を走っていました。そのレールから脱線したことに、多少なりとも負い目を感じていたのです。瞑想によって思考を削ぎ落としていき、最後に残った自分の純粋な意識に触れたことで、「それで本当に良かった、それまでは自分の人生を生きられていなかった」と心から思え、過去のトラウマを吹っ切ることができました。ここでいうトラウマは、両親の育て方や教育によるものではなく(両親には丁寧に育ててもらったと心の底から感謝しています)、自分自身が世間体を気にして勝手に作り出していた妄想によるものです。その際、今まで自分が自分だと思っていた一般的に規定される自己ではなく、現象としての自己の存在=自性=無我のような感覚を感じることができました。
この2つの感覚が揃った時、「苦」から解放され、何一つ分け隔てのない、すべてに対して心を開いていくようなコンパッションを感じました。そしてこの感覚は、生きる上でも、ビジネスにおいても、とても大切だと深く感じると同時に、「瞑想」により「悟り」を得ることの片鱗を見た気がしました。その後、チベット仏教のヨンゲ・ミンギュル・リンポチェの講演に参加した際に、悟りへ向かうポイントとして、1.縁起や空性、2.自性、3.コンパッションの3つを土台とする教えがあることを知りました。これらはまさにこの時のリトリートで感じたポイントであり、チベット仏教も違うアプローチでありながら、到達する境地には共通するものがあるのだなと感じ入りました。
2 「悟り」とはどういう状態なのか
瞑想を実践し「悟り(解脱、涅槃、ニッバーナ)」の境地に至るというのが、原始仏教の到達点です。「悟り」はオンラインサンガの皆さまには馴染みがあるテーマですが、一般的には何やら怪しげな印象を与えてしまう可能性のある言葉でもあるでしょう。「自分は悟っています」「これを行えば悟れます」なんて言う人は胡散臭いですし、長年瞑想をやっている感覚からしても、正しく修行しないと到底到達できない境地であると認識していることもあり、軽々しく口にできないと考えております。しかしながら原始仏教では、「悟り」は明確に定義され、それに至る段階もきちんと示されています。
まず「悟り」の意味合いは、「縁起や無我の境地に立って、苦(煩悩や割愛)から解放されて自由を得て輪廻から解放されること」です。それに至る段階も①預流、②一来、③不環、④阿羅漢と明示されています。井上ウィマラ氏の『仏教心理学キーワード辞典』によると「預流(よる)」は悟りの流れに入ったという初期段階で、煩悩から部分的に解放され、多くて7回生まれ変わる中で悟りの完成に導かれるという段階です。「一来(いちらい)」は、「一度来る」という意味で、あと一度だけ人間界や天界に生まれ変わり、その後は解脱するという段階で、貪(欲)・瞋(怒り)・癡(無知)の三毒が薄まった状態です。「不還(ふげん)」は、「再び戻らない」という意味で、不還果に達した者は、欲界(人間界や欲望に縛られた世界)に再び生まれ変わることがなくなります。不還果はほぼ完全な悟りの状態に近く、煩悩や苦しみから大きく解放された状態です。出家していない場合はこの段階が限界とされています。最終段階の「阿羅漢(あらかん)」は、煩悩を完全に断ち切り、輪廻から解脱した存在で、完全に悟りに達した人を指します。
「悟り」に達した後はどうなるのでしょうか? あらゆる執着や煩悩がなくなり、自我という概念がなくなり、内面に絶対的な平安が訪れるので、自ずと自他の境目のないコンパッションと、すべてを在りのままに見ることのできる智慧が備わるのです。「苦への対処」や「コンパッションの醸成」が自動的に達成された状態と言ってもいいと思います。
サイレントリトリート明けに撮影(撮影=国府田 淳)
第2回 なぜ今、原始仏教とビジネスなのか②
第4回 原始仏教の到達点「悟り」とそれに至る「瞑想」の重要性②