アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「双極性障害の子供と幸せになるには?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    二十代の息子が双極性障害(躁うつ病)を発症しました。本当につらいのですが、全て人格向上の問題ととらえ、私の自我は抑えて息子に心を寄せてひたすら話を聞いてきました。そうしていると数か月後に流れが変わってきて、絵を描く彼に発表のチャンスを頂いたり、病気に理解があるアルバイトが見つかったりとか、いい傾向にあったんですけど、ほっとしたのもつかの間、躁うつが悪化してしまいました。そこで、いくら自分が良かれと思うことをしていても、肝心の本人が動かなければ仕方がないので、ここは手放して自分の心を清らかにすることに集中しようと思ったのですが、それでいいのかわからなくなってきました。

[A]

■慈しみをベースにして関係を築いてください


    わからないんですね。理屈だと「自分のことは自分でやってください」ということになりますが、人生というのは理屈だけでは成り立ちませんからね。特に自分の子供だからね。論理的には本人にやる気が無かったら放っておけばいいのだけれども、そうもいきませんよね。親子じゃなくても相手を「どうでもいいや」と放っておくことはできないでしょう。人のことを心配するというのは道徳の一環でもありますからね。心配してあげたからといって、向こうが無関心で反応しないと腹が立つこともあるし。まぁ命っていうのはそんなものなのです。理屈は淡々と明確に語れますけど、実際生きる上ではそううまくいかないんですよ。

《そこを学ぶべきということですか?》

    そうですね。例えば、親が子供に「一時間以内に宿題を終わらせると約束したね。できなかったらご飯は無し。文句を言うなよ、約束なんだから」と言ったとしましょう。理屈上では成り立っているでしょう?    子供は気が散ったとかで一時間では宿題ができなかった。それなら約束どおり昼ご飯もなし晩ご飯もなし。でも、実際は約束したからと言ってそんなことできますか?    子供には食べさせないで自分だけ食べるなんて。

《それはちょっと、無理ですよね。》

    そういうことなのです。だからそんな約束をするなよ、ではなくて、した方がいいんです。ちょっと子供を脅してあげた方がいいんです。その方がやる気を出して勉強をする可能性もある。理屈に厳密に人間を当てはめることは難しいんです。理屈とはいえ、じわじわとケースバイケースで変わっていくだけの話なんですね。
    難しいんですよ、このケースもね、お母さんとして言ってることは正しいんですよ。本人が全部ひっくり返しちゃうともうどうしようもない。元に戻すことも本人の努力でもあるし、一人ひとり孤独で生活しているのだから、親子関係とは関係なく、一人ひとりが自分の幸福のために頑張らなくちゃいけないしね。
    子供を抱えているからといって、幸福になることを諦めたというのはおかしいですね。あくまでも理論なんですね。
    面倒を看て保護しなきゃいけない子供はいるけど、自分は自分の幸福を目がけて生活しなくてはいけない。論理的に個人は個人であり、それぞれの業があるんだから、個人は自分の業を開発して豊かになって、やがて解脱に達しなくてはならないというのが純粋理論で、「他人のことは構うな」ということになっちゃうんです。でも、それは実際に実行できるのかというのが問題。人のことは全く無視して、「私は私だけの幸せのために頑張る」は成り立たないんです。例えば、仏教をちゃんと理解している五人のグループがいるとします。「個人は個人で努力して解脱に達するべきだ、他人のことは全く関係無い」と、五人がしっかり理解して一緒に修行したとしてもこの問題が起きるんです。結局のところ他人の心配をしなければならなくなるんですね。関係無いということはありえません。
    ですから、お釈迦様がおっしゃったとおり、最初から慈しみで、親孝行であろうが、他の生命であろうがいかなる生命であろうが、慈しみ・心配して、具体的に助けられるところは助けてあげる。後は気持ち的に「幸せであって欲しい」と思いながら生活しなくちゃいけないんです。
    だから、つきっきりで面倒を看てしまうとやりすぎ、全く無視するのもやりすぎ。その間で適切に考えて欲しいんですね。



■出典   それならブッダにきいてみよう: 教育編2 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon

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