【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「恐怖」についてスマナサーラ長老にお話いただきます。
[Q]
仏教では「恐怖」は、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)の瞋というのに分類されると聞きました。どうしてそのようになるのか教えてください。恐怖というのは対象がはっきりとしない、対象のことがわからないから感じるのであって、痴に分類されるのではないかと思いました。その部分が分からないので教えてください。
[A]
■「嫌」「気持ち悪い」という感情は怒り
痴=無知には人は気づかないのです。我々が簡単に気づくのは欲と怒りです。ポイントは「なぜ恐怖感は怒りに分類されるのか?」ということですね。
心にデータが入る。入ったデータを素直に「これは良いものだ」と受け入れれば欲なのです。逆に「これはちょっと避けたい」という反応が起きたら怒りです。ですから、定義は“受け入れる”か“拒絶するか”ということになります。欲と怒りはそれだけの差です。
例えば「落ち込み」は怒りに分類されます。しかし皆さんは、落ち込みが「怒り」であるわけがないと思ってしまうでしょう?説明はいたって簡単です。「落ち込んで気持ちが良いですか?」と聞いてみてください。あの感じは嫌でしょう。ですから怒りなのです。恐怖感というのは気持ち良いですか?嫌でしょう?避けたいでしょう?逃げたいでしょう?だからそれは怒りなのです。心が対象を素直に受け入れるか/拒絶するのかそれだけです。
ですから他の感情についても「これは気持ち良いですか?」と自分に訊けばいいのです。例えば、退屈とかつまらないという感情は決して気持ち良いものではないでしょう。「無い方が良いですか?」と訊くと、やはり無い方が良いと思います。「無い方が良い」「気持ち良くない」と思うものは全て怒りのグループなのです。欲の場合は「これはあった方が良い」と思うのです。
例えばドライブに行ってキレイな公園を訪れたとしましょう。そこで「あぁ、早く帰りたいな」と思うことは無いでしょう?普通はいろいろと見物して、花を見たりして喜びたいのです。理由はこの美しい環境を見て気持ちが良いからです。それは欲の分類です。すごく簡単に分類できるでしょう?
■無知の発見が難しい理由
上記のように、欲と怒りを分けて観ることはとても簡単ですし、分けてみた方がいいのです。
それで、どんどん経験を積んでプロになってくると、「あぁ、これが痴なのか」とわかってきます。問題は、無知(痴)はずっと在ることです。無知が無い瞬間はありません。ですから無知だと発見することは難しいのです。
ちょっとクイズです。海では何が見えますか?水を見る人はいませんね。波を見るのです。波が無い海というのはカッコ悪い。波が無い場合も「波が無くて静かだな」と、結局は波を見ているのですから。波の概念を入れて判断するのです。「○○が無い」と思う。そのためには「○○」という概念が浮かんでいないといけません。
とにかく海を見る時、私たちが感動して見つめているのは、次から次へと押し寄せる波なのです。何時間でも見ていられます。この例えで理解してください。人間の中には無知が在りますが気づきません。無知が作る”波”に気づくのです。ですから、欲と怒りは気づきやすいのです。
欲もない怒りも無い場合は無知だけです。ではなぜ気づかないのか?これは経験してプロにならなくてはいけません。いつも自分の中から無数に出てくる感情を「欲」と「怒り」に分けていくのです。分けていくと時々、びっくりする時があります。無知が無知であることに気づくと、そこに無知はありません。もう気づいているからですね。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:こころ編1』