川本佳苗(仏教研究者、日本学術振興会特別研究員PD)

スナ子こと川本佳苗先生による伝説の連載の復活の新連載「はよぉおあがりやす編」の第2回をお届けします。今回はミャンマー留学時代の思い出を言葉にしていただきました。全3話の第1回。

第2回    トゥトゥと私(とシュエワ)の物語(1)


    トゥトゥ、かつて「ティリ」だった友人の話をしたいと思う。

    私が留学していたミャンマーの国際上座部仏教宣教大学(International Theravada Buddhist Missionary University/通称ITBMU)は、英語で無料で仏教を学べる大学だ。1学年に1クラスしかなく、ミャンマー人と外国人がそれぞれ男女15名ずつぐらいで、全体のうち在家者は10名ぐらいだった。

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教室で、クラスメイトの集合写真。最前列の右端が私(若い!)、2列目の右端がティリ。
    トゥトゥは、私が最初に仲良くなったミャンマー人ではなかった。ミャンマー人はとってもシャイなので、1カ月遅れて入学してきたこの日本人女性をサヤレー(尼僧)たちは遠巻きに眺めていた。彼女も、そのなかの一人だった。

    出家名がティリサンダーだったので、当時、私は彼女を「ティリ」と呼んでいた。正確にはパーリ語の「シリチャンダ」(輝く月)なんだけど、パーリ語の「S」の発音はミャンマー語で「Th」に変化する。ティリは名前のとおり満月のような丸い顔をしていた。ミャンマーでは生まれた曜日で名前の最初の音が決まり、「Th」は金曜日の音にあたる。私の出家名スナンダも、ミャンマー語では「トゥーナンダー」だ。私たちは同じ金曜日生まれだった。

    1年目はそんなに話した思い出がない。いつから仲良くなったんだろう?    3年目には学生寮に住みついていた茶トラの猫を一緒に「シュエワ」と呼んで可愛がっていた。彼女が「シュエワ」と言うとき、最後の「ワ」で丸い顔の顎が少し上がって、口もまん丸になった。

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2009年6月。ディプロマ(1年目の課程)の授与式が終わったとき。
この時はまだすごく親しかったわけじゃないけど、二人で撮った写真が残っていた。

    3年目の1学期の期末試験が始まる前に、ティリが「休暇中に帰省するから、カナエともう一人仲良しのウパジン【*】を招待したい」と誘ってくれた。彼女の地元パテインは美しい傘づくりで知られるベンガル湾沿いの町で、ヤンゴン管区から出たことがなかった私は楽しみだった。

*「ウパジン」は、ミャンマー語で「ウー」(尊称)と「パジン」(パーリ語の「パンチャ」=五、ここででは特に「五戒」を指す)の合成語で、直訳すると「五戒をいつも守っている尊い人」のような意味です。一般的に比丘を「お坊さん」と呼び掛けたり、「あのお坊さんがね~」と第三者に話したりするときに使います。

    でも、ティリはサヤレーで収入がないのにどうやって私たちの旅費を工面したんだろう?    それとなく聞くと、あるダガジー(男性の布施者)からもらったのだという。そのダガジーとは不思議なご縁で、何年も前に托鉢に出たときに知り合って以来、ずっと支えてもらっているそうだ。これもティリの功徳だね。

    パテインでは、ティリの母校のパテイン大学や実家に連れて行ってもらったり、海辺で水遊びしたりした(サヤレーとウパジンがガッツリ泳ぐとかできない笑)。好きな色を聞かれて、「白色」と答えたら、パテインの白い傘をプレゼントしてくれた。嬉しかったけど、在家の私が出家者からこれ以上いただくことにためらってしまった。

    次は私がお返ししたいなあ。でも貧乏留学生の私がティリを日本に連れて行く資金はない。その前年(2010年)、私はタイで国連と政府の共催する「ウェーサク国際会議」に先生が発表するというので同行させてもらったのだけど、その国際的な規模の大きさに圧倒された。この学会で論文を発表することになったら、渡航費・宿泊費・食費をぜんぶ招待してもらえるという夢のような待遇付きだった。しかも家族やお友達を同伴してもよかった。

    これだ!    ウェーサクにティリを連れて行こう。もう一人、いつもお世話になっているクラスメイトの女の子、ウィンウィンもどうだろう?

    このアイデア、上手くいくだろうか。留学中、選択に迷ったとき、私はよく水野弘元の『パーリ語辞典』でビブリオマンシー(書物占い)をしていた。パッと開いた本のページに書かれている言葉が、知りたいことの答えだという占いだ。さっそく試すと”bhikkhu”(比丘)という単語が目に入った。はっきりしないけど、良い意味なんだと思った。だけど、仏教徒なのに占いなんかしちゃってごめんなさい。しかも『パーリ語辞典』でこんなことしちゃって、水野先生ごめんなさい。。。

    そんなわけで、私が生まれて初めて学術論文を書いた動機は「友だちを海外旅行に連れて行きたかったから」だった。

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2010年に行ったウェーサク国際会議。バンコクの国連ビルでの会場の様子。
    さて、どんなテーマにしよう?    「仏教と自殺」がパッと浮かんだ。理由はいろいろあるけど、当時、日本の自殺者数は3万人を超えていて、ミャンマーで「リッチな日本でどうしてそんなに多いの?」と不思議がられたことも大きかった。

    でも、私は論文なんて書いたことがなくて、最初に応募する「要旨」が何かも知らなかった。「論文の概要を短くまとめたもの」と今なら分かるけど。最初、とりあえずそれらしいものを書いて、海外で修士号を取りNPOで働いている日本人をヤンゴンの少しこじゃれたカフェに招待して見てもらうと、「これは要旨の書き方ではないことだけは分かる」と言われた。困った私は、さらにネットで調べて見よう見まねで書いた要旨を、ヤンゴンでどうやって知り合ったかももはや思い出せないオランダ人女性(彼女もどこかのNPOで働いていた)に、無謀にもチェックしてほしいとお願いした。彼女は、こんなようわからん日本人のようわかん仏教についての要旨を親切に修正してくれた。今思い出すと涙でるわ。。。

    11月に要旨を提出して、12月に無事に採択結果をもらった!    私はティリとウィンウィンを呼び出し、翌年4月のウェーサクに招待したいと告げた。二人はアメリカ人のようなリアクションをするかわりに、私を見つめながら静かにうなずいた。

    国際上座部仏教宣教大学では、高校みたいに平日の朝8時から午後3時までびっしり授業があり課題も出たので、並行して論文を書くのはつらかった。それに指導してくれる人もいなかったから、今思えば恥ずかしいクオリティだった。

    大変な日々の中、私は毎晩『パッターナ』(アビダンマの『発趣論』)を読誦した。ミャンマー人はこれを祈願や防護のために読誦するのだけど、願いが叶うまで毎日同じ時間に、たとえ旅行中や飛行機の中でも行う。

「今書いている論文を、私は自分の欲や名誉のためではなく、自殺したいとまで苦しんでいる人たちのために書きます。読誦の功徳によって、どうかこの論文が自殺したいと悩む人や自殺で親しい人を失った人たちの助けとなりますように。」

『パッターナ』の全文を読誦すると30分くらいかかるけど、論文を書き始めてからタイに出発するまで、本当に毎晩そうお祈りしていた。

    年が明けて論文を提出した後、渡航の準備に入った。ウィンウィンはすでにパスポートを持っていたけど、ティリは外国に行ったことがなかった。そして、出家者のパスポート取得のプロセスはおそろしく複雑だった。当時(今もだけど)ミャンマーは軍事政権下だったので、出家者に偽装して国外に出てから反政府活動をする人が多かったから厳格化したのだ。出家者は、まず宗教省でパスポート取得の申請をしないといけない。カバエー・パゴダにある宗教省に行って手続きの多さを聞いた私たちはクラクラした。

    しかも、申請は首都のネーピードーでしないといけない。学年末試験の直前だったけど、ティリはしかたなく夜行バスで一人、ネーピードーへと旅立った。試験勉強しないといけないのに、ごめん。。。しばらくして書類が送られてきたので、それを持って一緒にヤンゴンの旅券事務所に行った。すごい長蛇の列で、お昼休憩で事務所が閉まった後もさらに待った。待合室で私たちは試験勉強をしていた。

    でも翌日、試験会場の教室から出てきたティリは、涙を流していた。勉強時間が足りなくて上手く書けなかったことがよっぽど悔しかったのだろう。「ティリ、きっと大丈夫だよ」と肩をなでた。

    さらに悪いことが重なった。ティリが体調を崩したのだ。病院に行くと「盲腸」で、手術が必要だと告げられた。早く手術した方がいいよね。。。私は費用の半分をお布施するために用意した。そしてそのお金を渡す予定だった前日の夕方、近所のスーパーに買い物に行くとき、なぜか「明日入れ忘れてはいけないから」と、財布に一緒に入れて出かけた。

    シッマーイ(8マイル)にあるスーパーから大学に戻るバスは、トラックの荷台を(勝手に)改造した乗り物で、私は「ドナドナ」と呼んでいた。乗り心地が悪いしもう辺りが薄暗くなっていたのでタクシーで帰ろうかとも思ったけど、なぜかあのとき1500チャットごときをケチって、ドナドナ・バスに乗ってしまった。バスは仕事帰りの汗ばんだミャンマー人でぎゅうぎゅう詰めだった。インド人顔のおばさんが笑顔で「お姉さん、こっちにいらっしゃい」と空きスペースに手招きしたので、私は身をかがめて移動した。

    ところが、寮の部屋に戻った後、バッグの中を探しても財布が見つからない。なんで? なんで? ハッとあのおばさんの微笑みを思い出した。あのときすでにスリのグループに囲まれていたんだ! いかにも外国人な見た目だったから狙われたんだ!    呆然とした。

    数日後クラスメイトのベトナム人ウパジンに相談すると、「費用の半分はお布施できる」と申し出てもらえた。でも、今からお金を用意してもらって受け取ったとしても、すでにタイへの出発まで10日を切っていた。

    ティリは元気がなかったけど、腹痛が治まっているときもあった。どうしよう。せっかく苦労してパスポートもタイへのビザも取ったのだから、このまま連れて行ってあげたいけど。。。何よりティリが初めての海外旅行を楽しみにしていた。話し合った結果、手術は帰国後まで延ばすことにした。

    ティリとウィンウィンと私は、「タイにいる間、何とか無事に過ごせますように」と祈りながら飛行機に乗った。

(つづく)



第1回 「なぜ不倫は仏教的にNGなの?」



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