アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「心の汚れって何ですか?」です。

[Q]

    日本テーラワーダ仏教協会のスローガンに「こころを清らかにする人が幸せである」と書いてあります。自分の部屋ならキレイか汚いかわかります。汚れがどんなものか知っているので、汚れたらキレイに掃除する方法も知っています。心の汚れとは何でしょうか?    自分自身で汚れを判別することができますか?


[A]

■必要なことを単刀直入に訊く素晴らしさ

    基本的な質問ですが、単刀直入に「汚れって何?」と訊くことは、すごく素晴らしいことです。そのように質問されたら私たちお坊さんも、しっかりと答えることができます。心を清らかにした方が良いと聞きますが、みんな「あぁ、なるほど!」とわかったような振りをするのです。「よくわかりました。その通りです」という顔をするのです。しかし、「心の汚れはどうやってわかるのか?」と更に質問しなければいけません。お釈迦様がおられた時代でも、このような質問は理性のある人が訊くタイプの質問でした。

■心の汚れをまとめると貪瞋痴

    「汚れ」というのは、貪瞋(とんじん)痴(ち)(三毒)のことです。貪瞋痴とは、欲張ること・怒ること・どうでもいいと思って怠けること、という三つです。「貪瞋痴は本能的だからそんなもの失くすことはできない」と、よく仏教学者も言います。自分に貪瞋痴があるからといって、他人も貪瞋痴を無くせないということは論理的ではありません。仏教学者も科学者であるならば、経典というテキストには「貪瞋痴は無くせる」とあるのですから、本当に貪瞋痴を無くすことができるのかと実験ぐらいすれば良いのに。ですから「私は実験していません」と素直に言うならば、まだマシなのですが。貪瞋痴は汚れなのです。そこで、誰にでも貪瞋痴があって、これは本能ですから、「本当に無くせるのか?」という疑問も当然出てきます。

■貪瞋痴ではまともに行動できない

    そこで少し見方を変えてみましょう。例えば人の心が欲で汚染されてしまい、欲だけに支配されてしまって、欲の感情が優先になってしまっている場合、その人は正しく喋ることができるでしょうか?    論理的・客観的に喋ることができるでしょうか?    もし論理的・客観的に喋ることができないとすれば、良い結果になるか悪い結果になるかどちらでしょうか?
    別な例で、知識を使って仕事をする人がいます。頭の中は欲のことばかりで、どうしようもない状態でいる。妄想しかしてないということですね。それで自分の仕事ができるでしょうか?    仕事が失敗したら、その人は幸せになりますか?    それとも不幸になりますか?    そのように自問自答してみてください。

■心の汚れは不幸の原因となる

    ですから、心の「汚れ」とは人を不幸にさせる原因・衝動ということになります。人生を失敗させる原因・衝動とも言えます。あるいは、人を退化させる原因・衝動になるのです。残念ながら生命には、本来その貪瞋痴という心の汚れがあり、パソコン用語を使えば貪瞋痴がプリインストールされた状態で生まれるのです。私たちがパソコンを買う場合、必ずwindowsかiOSが入っているような感じです。例えばwindowsを消して他のOSを入れようとすると、操作手順や過程があり少し難しいのです。
    心の汚れというのは、どんな生命にも同じ法則です。これはお釈迦様のせいでも、誰のせいでもありません。貪瞋痴という原因・衝動が人を堕落させる・不幸にさせる・失敗させる・悪を犯させる・死後も不幸に陥れるのです。それをプリインストールして、生命は生まれるのです。
    ブッダの教えはいつでも世界にあるわけではありません。ブッダの教えがあるときでも、ブッダの教えに反対する人々の方が当然多いのです。それは皆、貪瞋痴の応援をしていることと同じなのです。

■心を清らかにする――貪瞋痴をストップさせる

    それで心を清らかに、キレイにするということは、一般的に言えば貪瞋痴の機能をその都度その都度ストップさせるということです。地面に雑草が生えるのですが、雑草が生えたら抜いてしまう。また雑草が生えたら抜く。そういう感じで、心にある欲・怒り・どうでもいいという気持ち(痴)を取り除いていくのです。たとえば「怠け」のときには、痴・無知が優先になっています。やる気がなくなるときも、痴・無知が優先になっています。嫌になって「もう、どうでもいいや」というとき、痴が優先になっているのです。欲と怒りが優先になると自覚があります。痴・無知が優先になっても自覚はありません。
    そういうわけで、心の汚れとは貪瞋痴であって、その汚れは自分の心にあるのですから、部屋が汚れているよりも明確にハッキリと自覚することができます。汚れを発見したその時にキレイに掃除すればよいのです。

■真実を知らなければ堕ちていく

    なぜ汚れるのかという理由は、根本的にありのまま物事・現象を知らないから煩悩が生まれるのです。これが大きな問題なのです。そういうことでヴィパッサナー瞑想によって、物事・現象をありのままに観る訓練が身につけば、ありのままに観られた人にとって、汚れは発生しない。先ほど私が提案した雑草が生えたらその都度抜くということですが、これでは終わりがありません。しかし、最初はそうしなくては何も始まらないのです。

■汚れを落とす作業はコツコツ取り組む

    まず雑草を抜くという限りのない作業を始めて、続けるうちにこれは面倒だと思ったところで、根本的な解決として「ありのままに観る」という能力を身につけなくてはいけない。そうやって順番に進んでいくのです。ありのままに観るという能力が身につけば心は清らかになります。ですから、心の汚れは当然自分で気づけて、自覚することができて、判別することができます。今、判別できないなら、判別できるように能力を育てていかなくてはいけません。そこから「仏教的な生き方がスタートした」ということになるのです。たった一日で汚れが全部キレイになるわけではなく、コツコツと小さな汚れを見つけて掃除するところから仏教的な生き方になっていくのです。頑張ってみてください。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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