稲葉俊郎(医師、医学博士)
今年6月から9月にかけて、「人生の最期をいかに豊かにしていくか」をテーマにした連続オンラインセミナー 「死と看取りセミナー~逝く人へ 看取る人へ 豊かな最期を迎えるために」を開催しました。
最期のときは誰にでも平等に訪れます。そのときをどのように迎えるのか、あるいはそのときどのように見送るのかは人生の一大事です。
団塊世代の多死時代を迎えるこれから、看取る家族はどのように家族の死と向きあったらよいのでしょうか。また、逝く人は自らの最期をどのように受け止め、迎えていけばよいでしょうか。死は等しく誰もが経験することですが、「逝く」とき、私たちは何を経験するのか。どのようにその時を迎えたらよいのか。
このオンラインセミナーは、看取る人が知っておくべきことや、心に置いておいたほうがよいことを学ぶとともに、逝く人が自らの死生観を見つめ直すきっかけを作ることができればと思って企画したものです。
看取りの体験は、残された人の人生を充実させ、人生の土台を作ることにもなります。「看取りきる」経験は、残された人の人生を豊かにすることでもあります。
第2回の講師は稲葉俊郎先生です。病院医師として、また在宅医として、臨床の第一線において多くの看取り現場に立ち会っておられる稲葉俊郎先生に、「死にゆく人との対話~昏睡状態の方とのコミュニケーション」というテーマでお話をいただきます。逝くこと、看取ること、そこで起きていることへの知見をお伺いし、昏睡状態の方とコミュニケーションをとる方法として知られるコーマワークの方法などを学びます。
第1回 看取った方から受け取った命の謎
●看取りは「量」ではなく「質」である
皆さん、こんにちは。稲葉俊郎と申します。今日は「死にゆく人との対話~昏睡状態の方とのコミュニケーション」というテーマでお話をさせていただきます。
稲葉俊郎先生
わたしは医師としてたくさんの方のお看取りをしてきました。ただ、わたしは看取りというのは「量」ではなくて「質」が大事だと思っております。「密度」と言ってもいいかもしれません。たとえば「1,000人の患者さんを看取った医師だから死の本質がわかる」とか「1,000人を看取ったからすごい」というわけではないのだと思います。たった1人であっても――それは人間の死に限らず、動物や昆虫などあらゆる生き物の死に対して、いのちが死を迎えるという事実にどれだけ濃密に関わったかということこそが重要であると思っています。
そうした過ごした時間の質や密度のようなものが、亡くなる方をどのように看取るか、亡くなる方とどう接するか、あの世や他界と呼ばれるものをどう考えるか、そういうようなこととも深く関係していると思っております。
●一人称の死、二人称の死、三人称の死
死というものを、一人称の死、二人称の死、三人称の死という3つの層に分けて考えてみてください。一人称の死というのは、わたし自身の死です。これは体験できない死です。抽象的な死とも言えますし、哲学や宗教の根本テーマになるような死ですね。ひとつの答えはないと思います。
次に二人称の死は、親の死や大切な人の死のことです。つまり「わたしとあなた」という関係性における死の問題です。実は多くの人にとってはこの二人称の死をどう乗り越えるかが人生の重要なテーマになることが多いと思っています。二人称の死の乗り越え方が、一人称の死、つまり「わたしの死」という哲学的な命題とも関係してきます。
三人称の死は、たとえば外国で起きている戦争における死であるとか、遠く離れたところで起きた鉄道事故による死、そういったテレビや新聞のニュースで情報として知る死です。
わたしにとって、一人称の死である「わたしの死」は、子供の時からとても切実な問題でした。わたしは小さい時にはかなり病弱で、3歳の頃には身体中の粘膜がただれ、口から食事を取ることもできなくなってしまい、鼻からチューブを入れる経管栄養の状態で入院をしていました。いま自分が親の立場になってみると、親も我が子が生きるか死ぬかの境界線を長くさまよっていた時期は、さぞ大変だっただろうと思います。わたし個人は、幼くして死に瀕するような体験をしたこと、そのこと強く記憶していることが、今の自分の執筆活動などを含めた表現活動の原動力になっていると感じています。
●あなたはわたしの外見じゃない何かを見ている
わたしは医者になってから、たくさんの方の亡くなり方を見てきました。そのなかでとても印象に残っているケースを2つご紹介させていただきます。
1つ目のケースは、わたしが医者になって3年目、まだ医師としても若かったときに出会った患者さんです。
その患者さんは、30歳ぐらいの女性の方でした。若くして社長をされていてバリバリと寝る間もなく働いていらっしゃった方なのですが、若くして複雑な病気が数々と判明し、いろいろな病院から対応困難と告げられ、最終的には心臓の状態が悪くなってベッドから動けなくなり、当時わたしが勤務していた心臓の病院に搬送されてきていました。
ある日、その患者さんからコールがありました。彼女は病気のために非常に血管が細くなってしまっていて、点滴を取るのが非常に難しい方だったのです。何度も何度も失敗して、そのことも医療不信になって激しい言葉を投げつけるようになっていたので、誰もが点滴を取りにいくことをためらう方でした。わたしは直接の担当医ではなかったのですが、たまたまその方の点滴を取るのが得意だったことから、処置を何度も行うことになりました。そうして病室に行くことが多くなり、共に過ごす時間が長くなることで、そのうち心を開いてくださるようになりました。「先生に話したいことがある」と看護師からの伝言があり、病室に行ったのです。
部屋の扉をそっと開けて中に入ると、彼女は意識が朦朧としていました。その中で、途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めました。話そうとすると血圧が下がり、意識を失って眼が上転していました。ふと意識を取り戻すと、また話し始め、すぐに気を失う。まさに生と死の境目にいるというような状態の中で、何かをわたしに懸命に伝えようとしていました。その言葉をつなげると、彼女はこう言いました。「あなたは普通の医者とは違う道を歩むよ。あなたはわたしの外見ではない何かを見ている。それは魂でしょう」「それは、わたしがいま最も必要としているものなんだよ」「来てくれてありがとう」。
そう言って彼女は亡くなりました。彼女が命懸けでわたしに伝えようとしたこと、その真意や重みをどれだけわたしが受け止め切れていたのかはわかりません。ただ、医者として臨床現場を20年くらい経過していく中で、わたしの中にも深く染み込んできていると思います。ふとした時に、その光景を思い出すかのようにして、定期的に反芻していました。まるで波が寄せては返すかのように。
わたしは現在、医師として医療現場で働きつつ、医療と芸術の接点を模索するような活動をしています。
芸術というのは人間の魂の世話をするもの、人間の心や体だけではない、もっと深いところを扱うものだとわたしは思っています。彼女の言葉の導きのようなもののおかげで、現代医療だけでは扱えない「何か」を、わたしなりのやり方で追求していきたいと、そうした考えを一つの決意としても強く持つようになりました。
この話の詳細は2022年6月に刊行した『命の居場所』(扶桑社)のコラムに詳しく書きましたので、皆さんにもぜひ読んでいただきたいなと思っています。
『命の居場所』(扶桑社)
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●生と死のあわいに平家物語をつぶやく
もう1つのケースは、わたしが東大病院で働いていた頃の在宅医療のケースです。大学病院で患者さんを待っているだけではなく、患者さんのご自宅で、患者さんの生活を丸ごと見ながら生活に近い医療をやりたいと思い、大学の先端医療と並行しながら在宅医療に取り組んでいた最初の時期にあった話です。
その頃のわたしは、オンコールと言って、夜中に患者さんが亡くなるときにも対応する在宅医をしていました。ある日の夜中、「もう少しで母が息を引き取りそうなので来てください」と電話があり、その方のご自宅に伺うことになりました。普段は別の往診医が担当しており、わたしにとっては初めてお会いする患者さんだったので、行く前にカルテを見ると、いつ亡くなってもおかしくない昏睡状態が続いていることがわかりました。
「もう息が止まりそうなんです」と娘さんは言っていましたが、ご自宅に到着してみると実際は、息が止まりそうで吹き返す、止まりそうで吹き返すということを繰り返していました。
そんななか、わたしはあることが気になっていました。患者さんがずっと、ぶつぶつ、何か言葉を発していたのです。
娘さんに「ずっと何か言っていますね」と話しかけると、「実は3日前からほぼ24時間、眠りもせず、よくわからない言葉をずっとしゃべっているんです。頭がおかしくなってしまったみたいで、こういう状況をよそ様に見られるのが、本当に恥ずかしいです」とバツの悪い言い方をされました。
何を言っているかわからないけれども、何かを言っているような気はする。だけれども、何を言っているかはっきりとはわからない。
時はすでに、真夜中の3時過ぎ。息が止まりそうだけど止まらない、ということを繰り返していました。そうした患者さんの側で、娘さんはウトウトし始め、わたしも朦朧と眠くなってきていました。その時に、ふと、その亡くなりそうなお母さんの言葉の端から意味のある言葉が聞こえてきたのです。
「ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり……」。
聞こえてきたのは平家物語の一節でした。「これはもしかしたら平家物語じゃないですか」と言うと、娘さんも「あっ」と気がついて、二人で顔を見合わせたその瞬間に、その空間の空気をスーッと、まさに息を引き取るという言葉の通り、空間の空気を吸い取るように、患者さんはパタッと亡くなりました。
娘さんは「母は農家で、学校もほとんど行ってないし、平家物語なんて絶対知らないはずです。テレビも見ないし、ラジオもあまり聞かない人なのに、いったいどういうことなのか……」と困惑していました。
わたしにとってはかなり衝撃的な体験で、その時の情景はいまだによく覚えています。
この事例も、わたしはどう受け止めていいかわかりませんでしたが、謎を多く含んだことだっただけに、ふとした拍子に思い出すのです。
このエピソードは、『群像(2022年8月号)』(講談社)に寄稿した「問い、問われ、生きて死んで、また生きる」という随筆に書かせていただきましたので、よろしければ全文を読んでいただきたいなと思います。
『群像(2022年8月号)』(講談社)
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●命の謎を考え続け、抱え続ける
この2つのケースを、わたしは折に触れて思い出します。「魂という言葉を発して亡くなったあの方は、最期に何をわたしに伝えようとしていたのだろう」「平家物語の一説をつぶやいていたあの方は何をわたしに伝えようとしていたのだろう」と、思わず考えてしまうのです。
この、なんともよくわからない「あれはなんだったんだろう」という深く濃密な体験が、わたしの中にとても大きなものとして残っています。心のしこりのようなもので、しかも熱をもって心が発熱しつづけているような感じなのです。「頭がおかしくなって、おばあちゃんが亡くなった」という結末もあり得たと思いますが、「そこに何か意味があるのではないか」「亡くなられた方は、生きている人に何かを伝えようとしていたのではないか」と、こちらから働きかけると、その意味が立ち上がってくるのではないかと思うのです。医学用語でのせん妄や昏迷というような言葉で片づけることはできませんでした。
皆さんも今後、親しい方の死と向き合った時に、何か大きな謎のようなものを受け取ることがあるでしょう。わたしはそういった命の謎を考え続け、抱え続けるということが、とても大事なことではないかと思っています。それは、何かを託された、ということだと思うのです。
(つづく)
構成:中田亜希
サンガ新社 連続オンラインセミナー「死と看取りセミナー」
第2回「死にゆく人との対話~昏睡状態の方とのコミュニケーション」
2022年7月20日(水)ZOOMにて開催第2回 人類の医学の歴史と「あの世」の変遷
サンガ新社連続オンラインセミナー
『死と看取りセミナー2死とは何か〜私たちの死生観を掘り下げるために〜』
主催:株式会社サンガ新社
2022年11月30日(水)〜2023年1月25日(水)全4回
https://peatix.com/event/3402216/view
「死と看取りセミナー」第2弾を開催します。
死をめぐる価値観、自分自身の、あるいは大切な人の死を前にした時に問われてくる「死生観」、あるいは大きく「生命観」について、医療、宗教、スピリチュアリティ(霊的・実存的領域)の、3つの視点を中心に皆様と考えていく連続セミナーです。
■第1回
2022年11月30日(水)20:00〜21:30
香山リカ先生×井上ウィマラ先生
「地域医療と看取り 人生モデルに寄り添う息づかいとは」
■第2回
2022年12月12日(月)20:00〜21:30
佐々涼子先生×藤田一照先生
「宗教心と最後の時間 逝く人、看取る人にとっての宗教の意味」
■第3回
2023年1月18日(水)20:00〜21:30
竹倉史人先生×
アルボムッレ・スマナサーラ長老
「輪廻転生」
■第4回
2023年1月25日(水)20:00〜21:30
島薗進先生
「私たちの死生観」
【参加方法】
◆各回ごとにご参加いただけます。
◆全4回を通し券でお申込みいただくと、割引価格でご参加いただけます。
◆全4回通し券を会期中にお求め頂いた方は、既開催セミナーの見逃し配信をご覧いただけます。
◆各回zoomで開催します。(見逃し配信もあります)
◆見逃し配信のみ(全4回セット)のチケットもご用意しています。
【チケット種別】
各回:3,500円(当日参加+見逃し配信)
割引全4回通し券:12,000円(当日参加+見逃し配信)
見逃し配信全4回券:10,000円(見逃し配信のみ)
※全4回通し券は、第1回から第4回まで全4回の見逃し配信付き参加券です。
※見逃し配信全4回券は、第1回から第4回まで全4回の見逃し配信のみご視聴いただけるチケットです。
※見逃し配信のみチケットは2023年1月31日(火)20:00までご購入いただけます。
※全ての回の見逃し配信は2023年2月1日(水)までを予定しております。