プラユキ・ナラテボー(タイ スカトー寺副住職)
柳田敏洋(神父)
「慈悲」の実践ともいえる「抜苦与楽」を大切にし法話の中心に据えているプラユキ・ナラテボー師と、ヴィパッサナー瞑想実践の核心に「アガペー(神の愛)」を見る柳田敏洋神父の対談。宗教の違いを超え、抜苦与楽と神の愛から、困難な時代における私たちの生き方を考えます。
第1回 プラユキ・ナラテボー師のお話
■オープニング ハグするブッダとキリスト
柳田 私はカトリックの修道院の責任者をしていますが、ヴィパッサナー瞑想を学び、深めるために出会ったのが、プラユキさんが気づきの瞑想について書かれたご著書『「気づきの瞑想」を生きる』です。そこには上智大学在学中にカトリックの神父の導きでタイに行くことになったと書かれてあり、とてもご縁を感じました。
今日は無原罪聖母修道院の聖堂にお迎えして、慈悲とアガペついてお話しできることをとても嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします。
プラユキ こちらこそ、よろしくお願いいたします。先ほど柳田神父さんが「柳田さんと呼んでください」と言ってくださいましたので、今日はこの素敵な環境のもとに集うよき仲間ということで、そう呼ばせていただきます。
柳田 今日は祭壇に、対談に色を添えるイコンを置きました。イコンは東方教会に伝わる聖画像の一つですが、これはとても珍しいモチーフでお釈迦様とイエス・キリストがハグをしています。
プラユキ これは、どなたが描かれたのですか?
柳田 南アフリカのレデンプトール会の修道士であるリチャード(Br. Richard Maidwell)さんが描かれた原画を、イコンを学んでいるシスターが模写したものです。そのシスターは、今日この会場に来ておられます。せっかくの仏教の僧侶との対談なので置かせてほしいということで、このように色を添えることになりました。お釈迦様とイエス様が見守っておられるように思えますね。
プラユキ はい、ありがとうございます。非常に象徴的なモチーフですね。慈悲と愛の教えを説いたブッダとイエス・キリストがハグをしている姿は、互いに教えを尊重し、受容しあっているように感じます。今日は、キリスト教について色々と学ばせていただきたいと思います。
柳田 早速、プラユキさんのほうから、慈悲についてお話しいただけるでしょうか。
■プラユキ師講義「仏教における慈悲とは?」
●仏教における慈悲
慈悲についての誤解
それでは、お話をさせていただきます。世間では仏教における慈悲を誤解されている部分がありますので、慈悲を正しくお伝えするために、まずはその辺からお話しいたします。
仏教の慈悲に関するよくある誤解には、「われわれ人間は、観音様のような、次元を超えた、彼方の存在から慈悲を賜るものだ」というのがあります。それで、観音様をはじめとした菩薩の慈悲を頼って、いろいろなお願いをするというイメージがあります。私はそうした大衆的な信仰も否定はしませんが、ブッダが説かれた慈悲とは実際のところ少々異なります。
また、「慈悲は、自分が犠牲になって人を救うものでしょ」とか、「自分は置いて、人様を救うことですよね」ということもよくいわれます。でも、慈悲はそういうことでもありません。
それから、「慈悲の祈り」というものがあります。祈りはキリスト教でとても大事にされていますが、仏教でも例えば「誰々が幸せでありますように」とか、「一切衆生が幸せでありますように。苦しみがなくなりますように」といった慈悲の言葉を用いてお祈りをします。
ところで、ただ祈るだけで満足してしまう人もなかにはいます。また、「慈悲の祈り」は自分の瞑想のためにするものだと誤解して、現実の目の前にいる人の対応がなおざりになってしまう人もいます。でも、本来の慈悲は祈りにとどまらず、行動を伴うものだということを強調しておきたいと思います。
さて、ブッダ は慈悲をどのように説かれたのでしょうか。
慈悲という言葉の由来
まず、「慈悲」という言葉の由来です。日本語では慈悲で一つの単語になっていますが、元々は「慈」と「悲」が統合した言葉です。
インドの古い言葉でパーリ語というものがあります。パーリ語は仏教の経典言語になっていて、「慈」はメッター(mettā)になります。メッターは人、そして衆生の幸せを祈る心です。ただ祈り願うだけでなく、それができる能力を持ち、行動実践を含む言葉と理解いただければと思います。慈には「楽を与える」「幸せを与える」というニュアンスがあります。
もう一つの「悲」はパーリ語でカルナー(karuṇā)です。カルナーは「誰々さんの苦しみがなくなりますように」と、苦の軽減を願う心です。ただ願うだけでなく、それを実現できる能力と、具体的な実践行動も合わせて、悲という言葉で表していると理解していただければと思います。こちらは「苦しみを抜く」「苦しみを減らすサポートをする」というニュアンスになります。
慈悲は自己中心ではないと同時に、自己犠牲的でもない
仏教では、自分より、まずは人を救うのが大事だというニュアンスのある「菩薩行(ぼさつぎょう)」という言葉も出てきます。でも最近は、それも少し問題があるのではないかということで、セルフコンパッションという言葉も聞かれるようになってきました。
英語のセルフは自分で、コンパッションは慈悲ですから、自分自身の苦しみにもちゃんと寄り添って、苦しみを除いていくことが大事だということです。自分をないがしろにして人のためにばかり頑張っていると、疲弊したり、燃え尽き症候群になってしまったりするケースも、実際は多いことがわかってきたのです。慈悲は自己中心ではないと同時に、自己犠牲でもない、そこを押さえておくことが大事だと思います。
テーラワーダ仏教では、慈悲の瞑想は「私が幸せでありますように。私の苦しみがなくなりますように」と、まず自分自身への祈りから始まります。それから家族や恩師、友人など身のまわりの人、さらに一切衆生にまでだんだんと広げていきます。そのように、まず自分の幸せからというスタイルをとっているのも、自分をないがしろにしては本当の意味で人を救うこともできないというところが、あるからです。
自他の抜苦与楽
「抜苦与楽(ばっくよらく)」という言葉は昔からありましたが、私はそこに「自他の」という言葉を付け加えて説明しています。本当の慈悲というのは、自分をないがしろにしないで、自分と他者どちらの苦しみも抜いて、楽を与えるということです。
私は大学時代から海外に出てボランティアをしていました。日本で在籍していた大学でも、障害者支援のボランティア活動に取り組みました。しかし、当時の私は自分自身を整えることができていないので、やればやるほど疲れてしまった。そういった反省も踏まえて、自分も大事にし、自分を整えたうえで人様のご支援をする大切さを、皆さんに伝えています。
●よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる
よき縁に触れる
次に、仏教における慈悲の位置付けについてお話をしていきます。私はよく、すべての仏道は、「よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる」とワンセンテンスでまとめられるとお伝えしています。
まずは、「よき縁に触れる」です。ブッダは「よき友と交わりなさい」ということを非常に強調されていました。よき仲間、善友と交わることで、自己の基盤が整ってきます。また、よき人だけでなく、よき情報に触れるのも大切です。触れる情報はある程度自分で選択できるので、なるべく心を惑わすようなネガティブな情報に触れないようにします。
そして、よき環境に触れる。たとえば居心地の良い居場所を確保できれば、容易に寛(くつろ)げたり、心を整えやすくなったりします。この聖堂に入っただけで、私も心が清々(すがすが)しくなりました。このような神聖な雰囲気の中で修行をしたり、会合をしたりすれば、より心も整っていく度合いが高まるのではないでしょうか。このように環境条件は大事ゆえに、できるだけ積極的にそうした環境との縁を求めていく。それが「よき縁に触れる」ということです。
縁とは一言でいえば「条件」であり、「出会い」という言葉で表してもいいかもしれません。よい出会い、それは人との出会いもあれば、環境との出会いもあります。私のお寺は森の中にある森林僧院です。ブッダが修行されていたような森林の中で、悟りを求める志の高い仲間たちと、ときには蛇やサソリに遭遇したり、蚊に刺されたりもしますが、それゆえに気づく力や耐える力なども促進させてもらえて、自分の心を整えることもできましたので、そういう意味で、最高の環境で修行させていただいているという認識です。
仏道における「慈悲」の位置付け
仏道とは「よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる」こと
1、「よき縁に触れる」(善友)
よき友と交わる。
よき環境を選ぶ。
よき情報に触れる。
2、「よき縁となす」(智慧)
人、環境、出来事、情報など、すべての「ご縁(出会い)」を生かす。
3、「よき縁となる」(慈悲)
他者の苦しみに共感し、苦の軽減を手伝い、共に幸せになっていく。
よき縁となす
そして、ある程度整った心の基盤ができたら、今度は「よき縁となす」です。これは智慧を得る道であり、仏教の修行の核心です。
私たちは日々様々な人に出会ったり、様々な出来事に遭遇したり、あるいは自分の内面でも瞬間瞬間、様々な心が湧き起こってきています。それらはポジティブなものもあればネガティブなものもありますが、それを苦しみの種にするのではなくて、そうした出会いと良い関係を作っていく。さらに、それを生かして自らの成長の糧にしていく。「よき縁となす」とは、そういった意味合いになります。
心の基盤を整えるものとして環境は大事ですが、良い環境で基盤を整えたら、いつまでも環境に依存したままではなく、今度は自分ですべての出会いをよき縁にできるように、あらゆる条件を生かせる力をつける。私たちは生きていれば、いろんな障害や、様々な意に沿わないことに出会います。そのときに、出会ったことを生きる糧や学びにできるようになることは、非常に大事なことです。そのためには、瞑想などを通して心のトレーニングをしていく必要があります。それによって、どんな縁も「よき縁」として活かしていくことができるようになるのです。
よき縁となる
そして最後は「よき縁となる」ですね。これは「慈悲」という言葉と同じ意味になります。自分自身の心が安定し、智慧も育って苦しむことが少なくなってきたら、それで満足してしまうのではなく、他者の苦しみを減らす支援をしていく。そうして他者のためにお役に立っている、皆のために貢献できているということを感じられてこそ、心に深い充足感を得られるのです。
心が整っていなければ、先ほどお話しした大学時代の私のように、人を救おうとすればするほど疲れてしまいます。でも、瞑想などで心の微細な部分に触れて、そこを整え、成長を促していくことによって、どんな縁に触れても動じずに、活かしていけるようになります。それが、人様を救う原動力と能力アップにつながっていき、人様の「よき縁になる」ことを楽しめるようになっていくのです。
ともに幸せになる世界
これまでのお話は、食事作りに例えたらイメージしやすいかと思います。「よき縁に触れる」は、できれば新鮮な食材を買うなり、あるいは自分で育てるなりして良質な食事を作る条件を整えます。そして、それらの素材を活用して自分自身で調理をするのが、「よき縁となす」です。もし新鮮な素材が手に入らなかったり、少し傷んだりしていても、そこは料理人の腕次第ですよね。今日お集まりの皆さんも、手元にある食材で、美味(おい)しく栄養のある料理を日々作られていらっしゃると思いますが、そのように出会った素材というご縁を最大限に活かしていける力を身につけよう、ということです。
それで美味しく栄養のある料理ができたら、自分だけで食べて満足しないで、家族や友人たちにも振る舞う。そうすることで、ともに喜びあえる。それを「随喜」といいます。仏教では、グラッド・トゥギャザー(glad together)、「ともに幸せになる」という世界を志向していて、そこに慈悲の本質があるのです。
●両輪としての「智慧」と「慈悲」
上求菩提
よき縁となす力は智慧で、その智慧により自身の抜苦与楽を実現し、さらに今度は自分自身がよき縁となって、自他ともに幸せな世界を作り出していく、というお話をしました。それが仏道の修行体系では、どんな関係になっているかを説明させていただきます。
智慧の道というのがあります。それは成長の道といっていいかもしれません。仏教用語では「上求菩提(じょうぐぼだい)」と言います。菩提は悟りの世界で、そういった高い境地を目指す上向きの道です。そこには「戒定慧(かいじょうえ)」という仏教の修行の階梯があります。土台を整えたうえで段階的に心の成長を遂げていくのです。
まずは「戒」。すなわち身体行動と言語行動を美しく整えていきます。悪いことをしないで、よいことをするということを、言語行動においても、身体行動においてもやっていきます。
そのようにして心の土台を整えたうえで、次に「定」という段階があります。心の散乱や動揺をなくして、確固と安定した心の土壌を作っていきます。ここで身体と言動のレベルから、心のレベルに入っていきます。粗大なレベルから、より微細なレベルへという感じです。
しかし仏教の修行は、心が静まったり、安らいだりできたら終わりではありません。今度はその安定した心を持って、心の様子や、世界の様子をありのままに理解していく、そのために明晰に観察していくという作業をします。
柳田さんも指導されていますが、ヴィパッサナー瞑想がこれにあたります。ヴィパッサナー(vipassanā)のヴィ(vi)は「細かく明晰に」という意味で、パッサナー(passanā)は観察する。どちらもパーリ語からきています。ですから整った心で、今度はありのままを、ありのままに観察していき、真理を悟り、諸々の苦しみからの解放を目指します。ブッダもこのような修行をされました。最終的にインドの菩提樹のもとでヴィパッサナー瞑想をされ、悟りを開かれ、苦しみからの解放を得られました。
下化衆生
そして、修行で身につけた戒定慧を、今度は「慈悲の道」として活用していきます。
すなわち、智慧による理解を深めていけば、何がどうなっているかが明晰にわかるようになります。人様の苦しみを聞いても問題点を直観できるようになり、苦しみをなくしたり、軽減させるポイントがわかります。
また「定」によって心が整い、穏やかに安らいでいけば、それは自然と相手に良い影響を与えますよね。さらに、「戒」を修して体と言葉を整えてきましたので、見目麗しい言葉を使い、行動することで人々を抜苦与楽に導くのです。このように今まで修行を通じて得てきたものを、そっくりそのまま人助けのために還元していき、慈悲の道を深めていくことができます。それを「下化衆生(げけしゅじょう)」という言葉で表しています。
智慧と慈悲をあわせ持つ
私たちが本来的に人様を救うとか、サポートするにあたって、智慧だけだと傍観者的になってしまいます。世界というものから解放されていく、自由になっていくというプロセスは、認知レベルを向上させ、抽象度を高めます。そうすると、全体像が客観的に細やかに見えてきます。修行を通して、そうした智慧を得ていくわけですが、それだけだと悩む人、苦しむ人にコミットしていけない面があるわけです。それを補うのが慈悲です。
慈悲は人にコミットして、具体的にその人の悩み苦しみを傾聴して共感し、その人の状況にあった導きをして、苦しみを癒していく。智慧だけの傍観者にならずに、世界にコミットしてともに幸せになる世界を実現していけるのです。
逆に、慈悲だけで智慧がないと心が疲弊したり、ときには傷を舐め合う関係、共依存関係、同病相憐れむといった感じで、相手と一緒にズブズブと苦しみに溺れていったりします。海で溺れている人がいたので飛び込んだはいいが、巻き込まれて二人とも海の藻屑(もくず)になってしまうようなことも起こりえます。ですから、岸まで連れていける泳ぐ力(智慧)も必要ですし、パニックになっている溺れた人をちゃんと導いていく能力も必要ということですね。
真理に近づける方便
この能力を仏教用語で方便力と言います。方便という言葉は「嘘も方便」といった言葉もあって、誤解されがちですが、元々はパーリ語のウパーヤ(upāya)という言葉で、「近づける」が原義で、そのための適切な表現や手段のことをいうのです。では、何に近づけるかといえば、苦しみからの解放へと近づけていく、真理へと近づけていきます。
世の中には、いろんな性格を持った人がいます。人それぞれ理解力に差があったり、あるいは願望も人それぞれです。そういった様々な人に対して臨機応変に、今のその人の成長プロセスにおいて一番必要なものを提供します。そのような対応や表現を、方便と言います。
ブッダの教えは説く相手に合わせる対機説法だといわれています。その合わせるポイントとして、一つ目にその人のレベルに合わせて、二番目にその人の性格や性質に合わせて、三つ目にその人の願いに合わせて、それぞれに応じた必要なサポートを提供していきます。そうやって、だんだんと相手の心を育てて、苦しみの軽減を実現していきます。正論や正攻法とは違った対応法といえましょう。智慧を身につけて、慈悲を通して人を具体的に救っていく、あるいはサポートしていくときに、この方便の力が非常に大事になってくるのです。
私からの仏教の慈悲についてのお話は、以上とさせていただきます。
2022年9月30日
東京・上石神井イエズス会無原罪聖母修道院
構成:森竹ひろこ(コマメ)/写真:編集部
第2回 柳田敏洋神父のお話
【柳田敏洋神父の瞑想リトリートのご案内】
柳田神父は現在、海外で活動しておられますが、一時帰国のタイミングで瞑想リトリートを開催されるとのことです。
5月8日(木)に開催される「日帰り瞑想」は、東京・石神井の教会での現地参加はキャンセル待ちだそうですが、Zoom参加の申し込みは大丈夫とのことです。
詳細は下記をご覧ください。
イエズス会無原罪聖母修道院(黙想)
「【特別企画】2024年度・キリスト教的ヴィパッサナー瞑想による黙想会」
全4回対談の第2回以降をお読みいただくには、「オンラインサンガ」にご入会下さい。
また、対談全文は『サンガジャパンプラスVol.2 慈悲と瞑想』に掲載しています。
『サンガジャパンプラスVol.2 慈悲と瞑想』発売中
(https://amzn.asia/d/cJKCKFk)『サンガジャパンプラス Vol.2 慈悲と瞑想』 に対談全文掲載
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