アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)

Suttanipātapāḷi     5. Pārāyanavaggo     12. Bhadrāvudhamāṇavapucchā 
※偈の番号はPTS版に準ずる。(        )内はミャンマー第六結集版の番号


『サンガジャパンVol.25』(サンガ、2017年)から掲載を始め、『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』として第二巻まで刊行されているアルボムッレ・スマナサーラ長老の当連載。一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していきます。前々回から掲載の場を『WEBサンガジャパン』に移して連載再開。今回は、12人目のバドゥラーヴダ仙人とお釈迦様の対話を5回に分けてお届けします。


第1回:執着はどこに住むのか?


    今回はBhadrāvudhamāṇavapucchā、バドゥラーヴダという方の質問です。私も年を取って知識能力が衰えているので、どこまで説明できるかわかりませんが、かなり脳みそを使わないと整理できない内容です。まずは日本語訳を見て、それからパーリ語の単語に沿って説明します。今回に限らず、日本語訳にこだわって、それを基準にして説明すると、かえって理解するのが難しくなってしまう可能性がありますので。

■バドゥラーヴダ仙人の問い1

 1101(1107).
 
‘‘Okañjahaṃ taṇhacchidaṃ anejaṃ, (iccāyasmā bhadrāvudho)
Nandiñjahaṃ oghatiṇṇaṃ vimuttaṃ;
Kappañjahaṃ abhiyāce sumedhaṃ, sutvāna nāgassa apanamissanti ito. 

〔参考訳〕
    バドラーヴダさんがたずねた、
「執著の住所をすて、妄執を断ち、悩み動揺することがなく、歓喜をすて、激流を乗り越え、すでに解脱し、はからいをすてた賢明な〔あなた〕に切にお願いします。
(中村元〔訳〕『ブッダのことば    スッタニパータ』岩波文庫より    以後同)


    ●聖者の境地は知り得ない

    意味としては、「お釈迦様に聞きます」というだけのことです。「バドゥラーヴダ仙人の問い」の狙いはこういうことです。お釈迦様も阿羅漢の方々もみんな覚っているのですが、一般人は「覚った人ってどんな人間か?」ということを知りたがるのです。いくら「あなた方にはわかりませんよ」と言っても、やはり人間は聞き入れません。「覚った人ってどうなの?」と、やはり食い下がって聞こうとするのです。それでも説明はできません。
これは、科学者がアンティマター(反物質)について研究するような感覚なのです。科学者たちは、私たちが知っている通常の物質に対して「反物質」というものが存在することを知っています。しかし、反物質は私たちの日常的な世界には存在しません。ただ、自分たちが知っている物質の性質を調べて、「それと完全に反対の性質を持つもの」として推測するしかないのです。
    ダークマター(暗黒物質)という場合も同じです。これは反物質ではなく、質量を持つポジティブな物質ですが、それでも私たちはダークマターを直接知ることはできません。なぜならば、普通の科学的な観測対象に入らないからです。実は、我々がよく知っている星や素粒子などの通常の物質は、宇宙全体のわずか5%程度に過ぎません。残りの約3割を占める物質は、もっと質量がなければ宇宙の形が保てないという計算上の推測から「もっと何かがあるはずだ」と言われているだけで、実際には正体が何もわかっていないのです。宇宙の質量の大部分を占めているはずなのに、体験することも量ることも不可能な何かに、とりあえず「ダークマター」という名前を付けているだけなのです。
    これがアンティマター(反物質)となると、もっと話が違ってきます。反物質は通常の物質と共存できないので、もし一緒になると「対消滅」を起こして、お互いに跡形もなく消え去って、巨大なエネルギーに変わってしまいます。日常世界に存在しないそのアンティマターについては、私たちが知っている物質の性質を反転させて、ほんのわずかな推測をするしかありません。
    覚った人(解脱した人)がどんなものかということも、それとまったく同じなのです。我々には直接その境地を知ることはできませんから、自分が知っているこの世の理屈(煩脳や概念の世界)を使って、「これの完全な反対のようである」と、ほんの少し推測するしかありません。ですから、解脱に達する努力もしない人から「ただ言葉で説明してくれ」と言われても、答えようがないのです。
    そういうことでお釈迦様は、解脱に達していないまま言葉を使っている人々、頭の中で概念を転がしている人々に対して、たいへん苦労して説明しようとするのですが、どうしても「日常世界の常識をひっくり返した、アンティマターの説明」と同じようになってしまうのです。

    ●執着の住処

    Okañjahaṃ(オーカンジャハン)(執着の住所をすて)というのは、お釈迦様のことです。ここでoka(オーカ)は、「執着の住むところ」と日本語訳されていますが、これは微妙に注釈書の意味を取っていて、直訳ではありません。言葉どおりに直訳したら、okaは家なのです。「家を捨てて」ということになります。しかし、これは出家という意味ではないので、「家を捨てて」というふうには翻訳できません。お釈迦様が使ったokaというのは家というよりも住処(すみか)、住む場所のことです。ですから鳥たちの巣もoka、住処なのです。誰でも、どんな生命であろうと住むところです。そういうわけで「家」という意味に限らず、「住処」というのです。
    ここで言っているokaとは、「煩悩の住処」「執着の住処」です。執着の住処を捨てているのだというのです。いま読んでいるスッタニパータ彼岸道品のある偈について、お釈迦様は突然、サーリプッタ尊者に、「この偈の意味を説明してください」と言ったことがありました。そのとき、あの智慧第一のサーリプッタ尊者さえもとっさには解説できなくなって、ちょっと詰まってしまったのです。沈黙する尊者に、お釈迦様がほんのちょっとヒントを出してあげる。そのわずかなヒントをもらっただけで、尊者は流れるように明確に説明してみせたのです。後からサーリプッタ尊者がおっしゃったのは、「お釈迦様のあのヒントのおかげで、私はいくらでも解説できるようになりました」ということです。そういうわけで、スッタニパータ彼岸道品では、かなり難しい、謎みたいな単語を使っているのです。
    それってとても良いことだと思いますね。皆さんは、特に日本の方々は『スッタニパータ』という経典を軽く見てしまいがちですが、本当はそんな甘く見ていいようなテキストではないのです。解脱・涅槃とは、本物の聖者になることです。お釈迦様は「人間を超越する」という表現をされていますが、これは生命の次元を超越すること、つまり輪廻を超越することなのです。生きることを超越するのです。ですから、そんな簡単・単純なことではないのです。ですから一般人がちょっと苦労して理解しないといけないように、あえて選んだ単語を使うという方法、手段をとっています。これは一般的に世の中で、よく使うやり方でもあります。

    ●住処を探してみる

    では、執着の住処とは何でしょうか?    私たちの煩悩はどこに住んでいるのでしょうか?    探してみてください。どこに住んでいるかと、住処を見つけて、そこを何とかすればよいのです。もし蚊が繁殖してしまったら大変でしょう。それを防ぎたければ、蚊の住処をなんとかするしかありません。蚊は水のあるところに卵を産みますから、身の回りの水溜まりをなくしてしまえばいい。そうすれば、蚊は出てこなくなります。そんな感じで考えてみた場合、煩悩の住処とは何だと思いますか。
    なぜ、怒るのでしょうか?    なぜ、欲張るのでしょうか?    なぜ、嫉妬するのでしょうか?    どこからそういった汚れた感情が出てくるのでしょうか?    そんなにややこしくはないのです。煩悩のことは知っているでしょう。次から次へと煩悩が現れてきます。これはどこから発生しているのかと、調べてみればいいのです。そのポイントについては、これまで法話などを通じて、かなり説明してきたつもりです。
    皆さま、ちょっと自分の頭を使ってみたほうがいいと思います。それがなかったら、この『彼岸道品』を読む意味がないのです。お釈迦様が自分に出してくれた宿題を解くつもりで、苦労しなくてはいけないのです。そういう難しい経典なので、彼岸道品は一般的な説法ではあまり使いません。ここで言われているのは、煩悩が生まれると、どこか住処があるのだということです。

発言者A    心が汚れていると、そこが住処になるのでしょうか?

長老    心が汚れているというのは、煩悩があるということでしょう。その煩悩が、どこから生まれるのかということが問題なのです。

発言者B    心です。

スマナサーラ長老    もし心が煩悩の住処であるならば、決して覚れないのです。

発言者C    五蘊です。

    ●五取蘊という執着の住処

スマナサーラ長老    はい、それが答えです。正確に言えば、五蘊ではなく五取蘊なのです。色・受・想・行・識です。肉体(色)から煩悩が生まれるのです。それから肉体の中にある感覚(受)から煩悩が生まれるのです。さらに私たちはさまざまな概念(想)を使って生きています。花という概念があったら、もう煩悩です。「珍しい花ですよ」と言ったとたん、煩悩なのです。世の中には、百年に一度しか咲かないと言われる非常に珍しい花があります。たとえばヤシ科のある植物などは、芽を出してから花を咲かせるまでに百年近くかかるそうです。いざ開花すれば、それは文字通り百年に一度のビッグイベントになります。驚くほど巨大で強い香りを放つその花は、ニュースでも大々的に取り上げられ、一目見ようと人々が大行列を作ります。そういうのは余計な話ですが、たとえば「百年に一回しか咲かない花」と聞いたとたん、その概念から、「どうしても見てみたい」という気持ちが生まれてしまうのです。そのように、生きることは概念がないと何にも成り立ちません。
そこで、お箸とか茶碗とか、カップとか皿とか、そういう概念がなければ生きられないでしょう。カッパとか花とか、猫とかです。そういう区別・概念がなければ生きていられないのですが、そこから煩悩が現れてしまうのです。
    そういうことで、想蘊からも煩悩が生まれます。行というのは、身口意で何か行為をしたいという衝動・エネルギーです。身口意で行為することが生きることなのです。身体がずーっと回転しないと、脳みそが回転しないと生きていないのです。ですから回転するためにはエネルギーがいります。そちらで煩悩が生まれるのです。識とは認識することで、認識した時点で煩悩も一緒に現れてしまうのです。

    ●フィクションの世界も認識に制約されている

    ですから、私たちは色受想行識という五取蘊に執着しているのです。人間がいくら神のことやらあの世のことやら神秘的な話、くだらない神話をしゃべったところで、我々の心はいつでもすごく具体的なのです。具体的にないものは認識できません。ですから「ウサギの角」という単語は作れますし、単語を作ったとたん理解もします。なぜならば、ウサギは現実で、角というのも現実だからです。そこは、屁理屈を使う人は、「ウサギの角は存在する」と言い張ったりします。仏教の専門用語に、空華(くうげ)という言葉がありまして、これは「ないもの」を表現するのに使っている単語なのです。私たちは「空(くう)」は知っています。空(そら)のことですから。「華(はな)」も知っています。知っているものを組み合わせて、「実在しないもの」という概念を示しているのですが、いくらそのような工夫をしても、私たちは「実在しないもの」は決して認識できないのです。認識には、そういう微妙なからくりがあるのです。
    人間はいくらでも神話物語を持ってきます。人類はアダムとイブから始まったとか、嘘ばかりです。実際は、自分が母親と父親から生まれたということ以外、何も認識していないのです。それだって聞いて知っているのであって、経験しているわけではありません。それでも、世の中を見ると、母と父がいて子供が生まれることは周知の事実です。その事実を種にして、いろいろな妄想の話に持っていくのです。どんなに妄想じみた話であっても、私たちの心は常に具体的な事実に依存しているのです。
    たとえば漫画やオモチャの世界を見てください。一時期、子供たちが夢中になっていた『トランスフォーマー』という作品では、手から光を出して敵を倒したり、ロボットが車に変身したりするような、現実にはあり得ないものばかりが描かれていました。しかし、これらも全くゼロから生み出されたわけではありません。実在する「車」や「人間」といった要素を、あり得ない形に組み立て直しただけなのです。
    昔の人が考えたペガサスも同じで、いたって単純な仕組みです。「速い馬」と「空を飛ぶ鳥」といった既知の事実を組み合わせて、「馬に翼を付けよう」と考えたに過ぎません。科学的に見れば、馬の体重を支えるには馬が見えなくなるほどの巨大な翼が必要ですが、妄想の中では都合よく、美しく翼が付いているだけなのです。
    結局、人間は存在しないものを一から作ることはできません。ただ、実在する具体的な要素を勝手な理屈で組み立てて、妄想を楽しんでいるだけなのです。

    ●現実を素材にするしかない「現実離れ」

    そこで私が言いたいのは、人間の創造力が豊かだとか、あれやこれやとくだらないことを言っても、人間が現実を離れて思考することは不可能だということです。それを知っていれば、どれだけしっかりした人間になれることでしょう。
    たとえば、宗教が語る天国や地獄を調べてみても、結局は我々が知っている現実を非合理的に組み立てているだけなのです。ダンテが語るような西洋の地獄の話も、アジアで広まった極楽浄土なんかの話も、自分たちの環境や欲望をベースに妄想を拡大したに過ぎません。「床がすべて宝石で、柱がすべて金だ」とか「ずっと若いままで老いない」といった話は、人間界にある「一番いいもの」をハチャメチャに組み合わせただけなのです。
    なかには、欲張りの王様が「触れるものすべてを金にしたい」と願ったばっかりに、食べ物まで金に変わって何も食べられなくなる、といった教訓物語もあります。これは、人間の欲望がいかに屁理屈で、不可能なことを望んでいるかを皮肉る良いストーリーです。
結局、天国にしても何にしても、人間は自分が知っている具体的な世界を使って、あり得ない形に組み立て直しているだけなのです。そう考えると、人間の考える天国がインチキで嘘だということは、明確にわかるでしょう。
    人間の認識はいつでも具体的で、具体的なものを認識するのに、我々は、あらゆることを妄想するのです。妄想したそのままが「ある」とも勘違いするのです。だからそれは、すべて煩悩の働きになって、煩悩を育てていくのです。
    眼耳鼻舌身という五根で体験できないものは思考できません。日本のアニメであろうがアメリカの映画であろうが、すべては五根の範囲にあるものを非論理的に組み立てただけなのです。ですから、概念自体には一応煩悩が入っています。たとえばコピー用紙と和紙を認識したとき、それぞれの物質に対する気持ちが違う時点で、もう煩悩が見えています。
    カバンにしても同じです。「エルメスのカバン」と言ったとたん、その言葉にガチッと執着がハマります。このように概念には煩悩があるのですが、工夫次第で煩悩なく概念を使うこともできます。たとえば金(きん)に対して、科学者は「電気が流れやすく錆びない」という機能で見ますが、一般人は「価値」や「値段」という煩悩で見ます。
    ダイヤも同じで、工業用ダイヤを機能として使うアプローチと、指輪のダイヤを欲しがるアプローチがあります。このように、ものごとに対して二種類のアプローチは不可能ではありません。
    私たちは五取蘊(色受想行識)において、概念を組み立てては悪い思考や妄想をして、甚(はなは)だしく煩悩を作ります。一般人にとっては、煩悩がなければ思考も妄想もないのです。ですから、執着の住処は五取蘊ということになります。

(第2回につづく)


2017年12月25日    ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成    佐藤哲朗


第2回:執着が消えると心は揺らがない


お知らせ

アルボムッレ・スマナサーラ[著]
『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』
紙書籍のご紹介


アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』の『第一巻』と『第二巻』はサンガより刊行され、現在、サンガ新社が発売しています。

続刊の『第三巻』以降に収録する法話は、『WEBサンガジャパン』で連載していきます。
『第三巻』の刊行をご期待いただくとともに、『第一巻』『第二巻』もどうぞお買い求めください。(サンガから刊行した『第一巻』『第二巻』は数に限りがございますので、お早めにご注文ください)

一流の学究者16人と、
智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。

第一巻
Ⅰ    アジタ仙人の問い
Ⅱ    ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ    プンナカ仙人の問い
Ⅳ    メッタグー仙人の問い

第二巻
Ⅴ    ドータカ仙人の問い
Ⅵ    ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ    ナンダ仙人の問い
Ⅷ    ヘーマカ仙人の問い


【以下、第三巻以降に収録予定】

Ⅸ    トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ    カッパ仙人の問い
Ⅺ    ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ    バドラーヴダ仙人の問い
XIII    ウダヤ仙人の問い
XIV    ポーサーラ仙人の問い
XV    モーガラージャ仙人の問い
XVI    ピンギヤ仙人の問い


『第一巻』『第二巻』は「サンガオンラインストア」と「Amazon」で販売しています。販売ページのリンクを以下にご紹介します。

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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第一巻

アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]





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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第二巻

ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]