アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)
Suttanipātapāḷi 5. Pārāyanavaggo 12. Bhadrāvudhamāṇavapucchā
※偈の番号はPTS版に準ずる。( )内はミャンマー第六結集版の番号
一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していくシリーズ。今回は12人目となるバドゥラーヴダ仙人とお釈迦様の対話をお届けします。全5回の第2回。
第2回:執着が消えると心は揺らがない
●執着がないという状態
次の単語はtaṇhacchidaṃ(タンハッチダン)(妄執を断ち)です。お釈迦様が覚ったというのは、肉体に対して執着がないし、感覚に対する執着もないということです。同じ身体(からだ)ですよ。寒くもなるし暑くもなるし、何かにぶつけたら痛くもなるのです。それで執着がないのです。ああ、身体を何とかしなくちゃ、年をとったらあかん、しわが出たらあかん……ということはないのです。それで放っておいているのです。いろいろ強烈に暑くなっても、何かにぶつけて痛くなっても「あ、痛みがある」、それで終わりです。「あ、いやだ、これ、痛くてたまらない」というのはないのです。たまらない痛みでも、「あ、耐えられないほどの痛みがある」と言うだけなのです。
たとえば、お坊さんたちが病気で倒れて涅槃に入られる時期になるでしょう。そこでお釈迦様がお見舞いに行きます。行ったところで普通に「どうでしょうか? 調子はいかがでしょうか? 減っていきますか? あるいは増えていきますか?」と聞きます。「耐えられる痛みですか? 耐えられないでしょうか?」と。それで、病人の側は「ああ、これは減っている気配はありません。増えるだけです」と。「今は耐えられないぐらい苦しみがあります」などと言うだけなのです。お釈迦様は、その答えに応じた適切なアドバイスをして、真理を教えて、夕方になったら帰るのです。我々が感じるような「ああ、この人をなんとかしてくれ」という嘆きはないのです。あたかも科学者が金(きん)を研究しているような感じで、相手に対して煩悩は抱かないのです。
お医者さんが人の身体を見るときでも、感情は一切入れていないでしょう。この身体という物体はどこかおかしいのかと、なぜおかしくなったのかと、それを診るだけです。それを早く発見して、修理をしたいというのです。そこで頭がいかれて煩悩が現れると、無病の何か、絶対無病の物体を作れないのかとか考えてしまうのです。科学者は、老化しないようにとか、遺伝子改良できないかとか、あれこれ研究します。そこで、触ったものが金になってほしがった王様と同じようになってしまう。あの連中は、宇宙の物質のエントロピー法則を忘れているのです。遺伝子を改良すれば、いくらかは老化を阻害することはできるかもしれません。しかし、エントロピーは宇宙の法則ですから、どうにもなりません。でも真理を忘れて、くだらない研究をやったりもするのです。
●認識しても執着が起こらない
お釈迦様が覚ったというのは、この色受想行識について考えても、執着は何も起こらないということです。こちらにお茶があるとしても、「手を伸ばしてこちらに運びましょう」と考えなければ、飲めないでしょう。その場合は、ただの機能として、煩悩を起こさずにやっているのです。
我々の生き方と比較するならば、あるはずの執着がない世界が覚った方々の世界なのです。
先日、用事があって出かけましたが、私はあまり周りを見ない性格ですから、天気の確認も全くしませんでした。電車で四谷あたりを通りかかったとき、釣り堀の水面に波紋が広がっているのが見えました。「雨が降っているみたいだ」と思いましたが、最初は確信が持てなくて、よくよく見たところでようやく雨だと気づいたのです。
用事を済ませて帰る際も、やはり雨が降っていました。「カバンにはいつも傘を入れているから大丈夫だ」と考え、歩きながら中を探したのですが、いくら探しても見当たりません。
そのとき私は「なんて不幸なんだ」と嘆くことはしないで、傘がない今の状況には意味があるのだと考えました。傘があれば何気なく差して歩くだけですが、ないのですから「ああ、よくわかりました」と納得したのです。結局、びしょ濡れで帰宅して服を全部洗濯するはめになりましが、心までは乱れなかったのです。
ところが翌日、カバンから別のものを取り出そうとしたら、そこに傘が入っているのです。もし余計な執着を持っていたら、「なんてことだ」と気分が悪くなってしまうでしょうが、現実というのは笑っちゃうくらい面白いのです。雨が降っていないときはすぐに傘が見つかるのに、雨が降っているときはいくら頑張っても見つからないという。
これはちっぽけなトラブルに過ぎませんが、人生では似たようなことが起きます。しかし、少しでも真理を学んでおけば、「別にどうということもない」と平穏に終わらせることができるのです。
仏教で「覚った」という状態は超越した次元で、色受想行識に対して一切の煩悩がないことを指します。機能が失われたわけではなく、機能はありながらも執着が消えているのです。覚った人の境地を知りたければ、そのように自分と比較して、「私にあるこの執着が、あの人にはないのだ」と理解してください。科学者がアンティマターを研究するような姿勢で理解しなくてはいけないです。
●存在を中心に回る三つの渇愛
ここで、taṇhacchidaṃは「妄執を断ち」と訳されていました。中村元先生は、いつでも渇愛(taṇhā タンハー)を「妄執」と訳すのですね。ちなみに、私は渇愛(taṇhā)を「存在欲」と意訳しています。渇愛には三種類あって、渇愛は存在という概念を中心にして回転するのです。
一番目はkāmataṇhā(カーマタンハー)と言います。この場合は存在ということは忘れていて、眼耳鼻舌身に触れるものを追い求めるのです。美しいものを見たい、おいしいものを食べたい、音楽を聴きたいとか、肉体を喜ばせたいという衝動で必死に生きている状態です。ひたすら欲を追っていくのです。そのバカは、その裏にあるのは存在欲であることを知らないのです。なぜ生きていきたいかと聞くならば、「だって生きていれば、おいしいものを食えるし遊べるし、楽しいことはいっぱいできるし」などと欲のことを言うのです。ですから一番簡単でわかりやすい渇愛はkāmataṇhāなのです。五欲を追いかける衝動なので、欲愛(よくあい)とも言います。
Kāmataṇhāの裏にある「生きていきたい」という衝動、つまり存在欲のことはbhavataṇhā(バワタンハー)と言います。有愛(うあい)とも訳されますね。たまに、人が、「生きていきたいからでしょう」と言います。生きていきたいのだからやらなくちゃいけないとか、存在欲に気づく人もいるかもしれません。
そこからさらに深く考えてしまうと、「ああ、生きているということはどうってことはない。どうせ誰だって生まれて、いつか死ぬだけで、そのあいだハチャメチャあれやこれやとやっても、全部捨てるでしょうし、こんな苦労する必要はあるのでしょうか」などと言います。そういう人は、存在欲の反対、いわゆる虚無主義的な立場を取るのです。「生きることには、何にも意味がないんだ」などと言います。そういうアプローチで楽を探そうとするのです。「あれもやらない、これもやらない、意味がないからね」と言います。そういう人生哲学を支えているのが、vibhavataṇhā(ヴィバワタンハー)、非存在欲なのです。無有愛(むうあい)とも訳されます。何でも壊したほうがいい、という衝動です。でも、そういう虚無主義の方々がわかっていないのは、彼らは「壊したほうがいいという衝動も欲である」という真理を見落としているのです。ですから彼らは、仏教で説かれている「涅槃」も虚無を求めることではないかと勘違いしてしまうのです。
非存在欲が欲する「すべて破壊したほうがいいんじゃない?」ということは、決して答えにはなりません。そうではなくて、「破壊するなんて余計なことしないで、放っておきなさい、執着しなければいいでしょうに」というのが仏教の答えなのです。
●渇愛を滅した人の生き方
そういうことで、覚ったら渇愛は完全に消えているのです。それも私たちには生きていきたいということ、おいしいものを食べたいということ、せっかく食べるのだからおいしく食べたいということなど、いろいろあるでしょうに。それはないのです。ただ身体が壊れていくのですから、物質だけあげるのです。それはできるのかというと、私たちにはできません。気持ちよく食べたいのです。
自分の存在は何よりも大事なものだから、我々は日常生活でいろいろなことを存在欲でやっているのです。服を買うときでも、色やサイズ、品質やメーカーがどうだとか、あれこれ考えてから選ぶでしょう。単に身体を自然環境から守るために、という程度にはしません。もちろん、お釈迦様も出家の方々も服を着ますが、それは身体を保護するためという、機能を果たす程度に留めているのです。
それでも、覚っていない人はどうしても煩悩で動いてしまうので、出家するときには文章を全部丸暗記させるのです。衣を着るとき、ごはんを食べるとき、備品を使うとき、あるいは薬を飲む羽目になった際にも、それらを煩悩なしに機能だけで使うように意識するように、言葉を唱えるのです。これらを一日中やり続けるのは難しいですから、一日の終わりに横になって休む瞬間、その日の行為をまとめて過去形にして、その言葉を唱えなさいと言われています。これは出家の世界で、今でも実際に行われていることなのです。
そういう四具(衣食住薬)についての言葉だけではなくて、私が気持ちよく唱えているものに、「ここに生命は存在しない、ただの空(シューニャ)である。縁起で成り立っているだけに過ぎない」という言葉があります。私はそれをすごく気に入っていて、毎日唱えるのです。解脱に達するまでは煩悩で心を汚していいわけではないのですから、そういうふうにガードするお経のフレーズを、お釈迦様からたくさん教えられて、みんな暗記して唱えたりはするのです。覚った後は、やはりそういう存在欲はありません。普通に生活はするのですが、覚った人とそうでない人はそういうふうに比較されます。
●揺るぎない心
Anejaṃ(アネージャン)(悩み動揺することがなく)は、「心が揺らがない」という意味です。普通の人の心というのは、ちょっとしたことで揺らいでしまいます。ちょっとびっくりするような音を聞いたら、びくっとなってしまうのです。ちょっと地震があったら、すぐもうみんな動揺するでしょう。1回2回、私が説法するときに地震がありまして、大きい地震ではないのだけれどもみんなざわざわしていました。私は何のことなくしゃべり続けたでしょう。ですからちょっとしたことでびっくりして、揺らいでしまうということはあります。しかし、覚った方々の心を揺るがすことはできないのです。覚ったら誰かが隠れて後ろから、何かドカーンとすごい音を立てたからといって、「どういうことをやっているのですか?」と聞くだけで終わってしまいます。「あなた、もっと大事な仕事はないのですか?」と聞くのです。
たとえば、商売をしていて大変な損失を出したり、あるいは家族が殺されてしまったり、というような極端な悲劇に見舞われることも、人生ではあり得るでしょう。Anejaṃとは、そういう場合でも「揺らがない」ことなのです。
●ある女性仏教徒が示した不動心
お釈迦様の時代の有名なエピソードを紹介します。ある非常に裕福な女性の信者が、サーリプッタ尊者をはじめとする多くの阿羅漢たちを招いて食事をお布施していました。非常に大勢のお坊さんが集まる大がかりなもので、彼女は金持ちでしたから、大変なご馳走を作ってお布施をしていたのです。彼女は熱心な仏教徒でしたから、召使いに任せきりにせず、お坊さんたちの接待を自分自身の手で行っていました。
その最中に、宮殿から家来がやってきて彼女に手紙を渡しました。彼女はさっとその手紙を読み終えると、そのまま何事もなかったかのようにサーリプッタ尊者たちの接待を続けました。
インドでは、食事の際にご馳走として「ギー」というバター油を出します。インド人の考えではこれが最高のご馳走なのです。現代ではコレステロールが心配されますけど、昔の人は体力を使っていましたので、少し食べるだけで元気が出る栄養食品として重宝されていたのです。牛乳から作るため、非常に高価な油でもあります。
当時、すべての客に配るためのギーを大きな素焼きの窯に入れて、召使いの女性が運んできました。50人以上のお坊さんに配るのですから、その量はかなりのものです。ところが、その召使いが足を滑らせて窯を落としてしまいました。素焼きの窯はすぐに割れて、中の高価なギーはすべて地面にこぼれてしまった。これは大きな経済的損失ですし、食事の最中に代わりの油や器を用意しなければならないのだから、精神的にも非常にショックを受ける事態です。
そこでサーリプッタ尊者は、この女性が嫌な気持ちになって、召使いを怒鳴り散らしたりしてせっかくの善行為を汚してしまわないよう、彼女の名前を呼んで「物は壊れるのですから」と声をかけたのです。すると彼女は、「尊師、そんな程度のことで私は揺らぎません。それよりも、この手紙に何が書いてあるかご存じですか」と言いました。
彼女の夫は軍の司令官で、多くの立派な息子たちがいました。お父さんがトップで、息子たちも軍人としてそれぞれ部隊を指揮していたのです。ところが、彼らの一家があまりに立派で人望があることを妬んだ者が、王様に嘘の告げ口をしました。「あの一家は軍隊を支配しているから、クーデターを起こしてあなたを追い出すかもしれません」と吹き込んだのです。その讒言(ざんげん)を信じた王様は、無実の夫と息子たち全員に死刑を命じました。さきほどの手紙は、自分の家族が全員死刑に処されたという知らせだったのです。
何の罪もない家族を一度に殺されたのですから、ふつうの母親であれば腹が立って、悲しくて、我慢できないはずです。しかし彼女は「あのような知らせを受けた後でも私の心は揺らぎませんでした。ましてや、こんな油が少しこぼれたくらいで、私の心が動揺することはありません」と言ったのです。
そのストーリーが伝えているのは、覚りに達した方の――これはおそらく預流果程度の覚りだと思いますが――心が揺らがないということは、このレベルのことなのだということです。
実際にそういうことが史実として起きたかどうか私はよくわかりません。でも、エピソードが伝えるメッセージははっきりしています。心が揺らがないというならば、そのレベルまで達しなさいと言っているのです。
「考えるから瞑想できない」という程度ではないのです。皆さんは「ちょっと暑くて、隣の家がうるさくて、音を立てているから瞑想できませんでした」という程度でしょう。Anejaṃ(揺らがない)ということはそんなものではないのです。我々の心はちょっとしたことで揺らぐのです。ナミちゃん(ゴータミー精舎の寺猫)がこちらに来ただけでも、説法ではなくてそちらに心が行ってしまうのです。そうやって、何のことなく揺らぐのです。それに比較すると、聖者の心は何があっても、たとえ火山が爆発しても揺らがないのだというのです。
(第3回につづく)
2017年12月25日 ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成 佐藤哲朗
第1回:執着はどこに住むのか?
第3回:物に依存しない聖者の生き方
お知らせアルボムッレ・スマナサーラ[著]
アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』の『第一巻』と『第二巻』はサンガより刊行され、現在、サンガ新社が発売しています。
『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』
紙書籍のご紹介
続刊の『第三巻』以降に収録する法話は、『WEBサンガジャパン』で連載していきます。
『第三巻』の刊行をご期待いただくとともに、『第一巻』『第二巻』もどうぞお買い求めください。(サンガから刊行した『第一巻』『第二巻』は数に限りがございますので、お早めにご注文ください)一流の学究者16人と、
智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。
第一巻
Ⅰ アジタ仙人の問い
Ⅱ ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ プンナカ仙人の問い
Ⅳ メッタグー仙人の問い
第二巻
Ⅴ ドータカ仙人の問い
Ⅵ ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ ナンダ仙人の問い
Ⅷ ヘーマカ仙人の問い
【以下、第三巻以降に収録予定】
Ⅸ トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ カッパ仙人の問い
Ⅺ ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ バドラーヴダ仙人の問い
XIII ウダヤ仙人の問い
XIV ポーサーラ仙人の問い
XV モーガラージャ仙人の問い
XVI ピンギヤ仙人の問い
『第一巻』『第二巻』は「サンガオンラインストア」と「Amazon」で販売しています。販売ページのリンクを以下にご紹介します。スッタニパータ 第五章「彼岸道品」
第一巻
アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い
アルボムッレ・スマナサーラ[著]スッタニパータ 第五章「彼岸道品」
第二巻
ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い
アルボムッレ・スマナサーラ[著]

![連載 アルボムッレ・スマナサーラ〔スッタニパータ 第五章「彼岸道品」〕12 バドゥラーヴダ仙人の問い[2/5]](https://image.osiro.it/pass/main_images/591876/images/original/12-2.jpg?1783033198)


