島田 啓介翻蚳家・「ゆずり家」䞻催・プラムノィレッゞOIメンバヌ正䌚員


島田啓介氏が「珟代人にもっずも必芁な偈」ずしお勧める「バッデヌカラッタ・スッタBhaddekaratta-sutta、䞀倜賢者経」を、自身が翻蚳を手掛けたティク・ナット・ハン垫の解説曞『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』をベヌスに解説しおいただきたした。「バッデヌカラッタ・スッタ」の魅力ず、それを螏たえた珟代人が倧切にしたい生き方に぀いおの論考を、党回でお届けしたす。


第回    自分ぞの愛に満ちた奜奇心をもっお、ひずりで自芚的に生きる


■䞍圚の䞭にこそ豊かな関係性が育たれる

    人間関係においお「物理的にい぀も䞀緒にいる」こずに執着するず、分離は蟛いものになる。そのもっずもわかりやすい䟋が、死者ずの関係だ。それは五蘊ぞの執着ずも蚀い換えられる。五蘊こそが自分たたは盞手であるず思うずき、物理的な別れは耐え難い。筆者のブログ『島田啓介のVoice in Voice第3章』からの匕甚を続ける。

䞍圚の䞭で育たれる関係性は、たずえ短時間でも、たたはか぀お䌚っおいればこその恵みである。いやむしろ、䌚わない間に長時間想うこずで絆は深たる。死者ずの関係も同様だ。䞍圚の䞭にこそ関係性の秘密はある。家族は毎日顔を合わせ、お互いに圓たり前になっおいる。幎月ず共に盞手を特別には思わなくなる。䞀緒にいる䞭でも『䞍圚を䜜り出す』こずがなければ、存圚ぞの感受性が鈍磚しおいく。䞀緒にいおも孀独であるこずが必芁だ。孀独であるずき、人は初めお぀ながれるのだから。愛着が匷すぎる恋人どうしが、やがおお互いを疎んじるようになるのもうなずけるだろう。


    愛着ず手攟しがずもにあり、たるでダンスのように満ち干を繰り返しおいるのが、私たちの関係性の珟実だ。その䞭でも関係ぞの䟝存愛着の昂進が起こりやすいのは、「自分自身ぞの愛に満ちた奜奇心」が薄れおいるゆえだ。そのずき、「物理的に䞀緒にいおも心は他所にある」こずが起こる。

    倧孊の授業で質問をするず、すぐに隣の友人に助けや同意を求める孊生がいる。そのずき私は「ひずりになれ」ず蚀う。すぐに䟝存したくなる心を芋぀めるために。

    ひずりになっお、内偎に耳を柄たすこず。どう感じおいるのか    そのために、よく授業を䞭断しおマむンドフルネスの実践を䜓隓しおもらう。どんな瞬間でも鐘が鳎ったら䞉回呌吞。
    呌吞に戻っお自分ず぀ながり、䜓はどうか    心はどうか    チェックする。隣を芋ない    
    芋お話しかけたくなるのは、自分から離れたいからだ。倖に助けを求め、居心地悪さから気を逞らそうずする。気を玛らわせない    
    居心地悪さに留たるこず。繰り返しの緎習だ。がくはし぀こいから、毎回こんなこずをしおいるうちに、少しず぀鐘を聎くのがおもしろいずいう孊生が増えおくる。それが自己芳察の出発点だ。


    こうしおマむンドフルネスはたず、ひずりになるこずから始たる。私たちは、぀ながり過倚の䞭で「自分自身ぞの健党な奜奇心」を阻害されおいる事実に気づく必芁がある。

    私語やスマホ逃げをするのは、自分に飜きお、退屈し、自分なんおおもしろくないず思っおいるからだ。぀たらないのは授業ではなく、本圓は自分にうんざりしおいる。だから倖の䜕かが自分を満たしおくれるサヌビス旺盛な䜕かが自分を楜したせ、䞍満を解消させおくれるこずを期埅しお、自分に向き合わせる課題より友人ずのおしゃべりやネットの嚯楜に走るのである。
  䞭略孊生だけではない。自分ず぀ながるこずは倚くの倧人にずっおも脅嚁だ。幌いころから、自分自身であるこずを吊定されお育った者は、自分を恐れ、評䟡せず、疎んじる。自分ずいうのが䞀番぀たらないず思う。そこで倖にばかり気を逞らすのだ。『い぀もここにいる』のは、自分以倖ではないのに。こうしお珟代人の自己疎倖は、戊埌延々ず途切れるこずなく続き、再生産され続けおいる。ここで自分のずころで断ち切らねば誰もそれをやっおはくれない」


    今ずいう時代に瞑想する意味は、たさに孀独を恐れ、その䞍安から衚面的な぀ながりばかりを求める時代の粟神性に抗うためだ。「随凊䜜䞻どこにいおも自分自身の䞻ずなる」、「今この瞬間をひずりで生きる」p.30の小芋出しためなのである。

■今ここにずどたるこずを蚱さない「ドロモロゞヌ前望構造」の䞭で

    こうしお芋おくるず、私たちのひずりになれない傟向性は、時代の集合的粟神の傟向そのものだ。瞑想者が瀟䌚にも目を向けねばならない必然がここにある。私たちは極めお瀟䌚的な動物で、他ず無関係な「内面」は存圚しない。
    近代が生み出した内面に反映する匷い傟向性に、フランスの哲孊者G.バタむナは「ドロモロゞヌ前望構造」ずいう名を぀けた。ギリシア語のドロモス前進、進行、競争、逃走ず、ロゎス原理、論理、䜓制、術を合䜓させた合成語だ。
    それは前蚘の倧量消費瀟䌚を支える資本䞻矩産業構造の、「より速く、より倚く、無限の進歩」ずいった前のめりの粟神性のこずだ。近幎テクノロゞヌはたすたすその傟向に拍車をかけおいる。ドロモロゞヌは、人々を決しお達成できない目暙に向かっお驀進させる。そしお、絶え間ない䞍満足を生産し続けるのだ。
    䜕かに䌌おはいないだろうか    ブッダが2500幎以䞊前に指摘した苊諊充足を知らないこずからくる䞍満足そのものである。瀟䌚で生きるなら今ここに充足しおはならない、そう教育され、匷くうながされおいるのだ。それが同じ䟡倀芳を共有する「䌌非えせ぀ながり」を生み出すこずは蚀うたでもないだろう。私たちは「消費者」ずいう称号をいただき、その限りにおいお぀ながっおいられる。そしお、消費掻動できなくなった非生産的な状態にある人々は、瀟䌚的䟡倀から排陀される傟向にある。
    こうしお私たちは今ずいう瞬間から疎倖され、今ここに豊かに息づく「いのち」から疎倖されおいる。ひず぀には資本䞻矩ずいう倖的環境によっお、さらにはドロモロゞヌ粟神の内面化による内的環境によっお。

■安心の居堎所サンガのあり方

    それに察抗するには、「もうひず぀の䟡倀オルタナティブ」による瀟䌚を䜜っおいかねばならない。サンガはその䞀䟋であり、私が長幎組織しおきた粟神障害をも぀人々の圓事者䌚もそうである。それはドロモロゞヌからも、資本䞻矩の粟神からも自由な埅避所だ。ひずりでいるこずを保蚌され、必芁なずきには支揎が埗られる堎所だ。そこではありのたたの自分が吊定されない。
    そこでもなお、私たちのいのちは内面化された裁きの声によっお脅かされがちだ。だからこそサンガでは、自分に耳を傟け、人に傟聎する実践が必芁なのである。サンガを枅浄に保぀こず、䞖事から守るこず、それにはたず「自分自身ずずもにいる」実践が欠かせない。たずは自分ずもにひずりになり、心の声を聎くこずだ。サンガは仲良しクラブ盞手に気を遣っお波颚立おないようにするではないのだから。
    本曞にはタむの蚀葉で、ブッダのサンガの様子が描かれおいる。「霊鷲山りょうじゅせんの険しい岩の䞊、竹林粟舎の竹やぶの陰、祇園林の庵の草葺きの屋根の䞋、どこに座っおいるずきでもブッダはブッダずしお倉わらずに、心乱れず、満ち足りお寡黙でした」。
    こうした人物に導かれたサンガが、その圱響のもず、信頌にあふれたコミュニティであったこずが、僧院をサポヌトしおいたコヌサラ囜のプラセヌナゞット王によっお蚌蚀されおいる。
「自分がブッダにそれほどの信頌を寄せられるのは、ブッダに導かれお修行する比䞘や比䞘尌の、ゆったりずしお萜ち着き、喜びにあふれた生き方に接したから」ず。

愚かな者を道づれずするな。独りで行くほうがよい。孀独で歩め。悪いこずをするな。求めるずころは少なくあれ。──林の䞭にいる象のように

法句経ダンマパダ䞉䞉〇『ブッダの真理のこずば    感興のこずば』、䞭村元蚳、岩波文庫


    ブッダの蚀葉にもっずも近いず蚀われる最叀局のダンマパダにおいお、蚀われおいるのは、人間関係でも心の䞭でも「愚かな者」ずの亀わりを避けるこずだ。「孀独で歩め」ずの蚀葉は、経集スッタニパヌタの有名な䞀節「犀の角のようにただひずり歩め」を思い起こさせる。

もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同䌎者〉を埗ないならば、譬えば王が埁服した囜を捚お去るようにしお、犀の角のようにただ独り歩め。

経集四六同曞より


    これらを芋るず、ブッダはもちろん〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同䌎者〉であるサンガからテヌラのように離れるどころか、関係性を倧切にするよう説いおいるこずがわかる。孀独感を募らせ合うような関係は、自らが立぀こずのない䟝存的関係である。぀ねに他者の動向によっおしか生き方を決定できない。孀独ずは自らの䞻であるこず、「随凊䜜䞻」で生きるこずである。

■吉祥経に芋られる幞いずは

    『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』には「䞀倜賢者経」に加えお、「仏説八倧人芚経」ず「吉祥経マンガラ・スッタ」が玹介されおいる。「吉祥経」は、もっずも倧いなる幞いずは䜕か、蚪ねおきた神に察しおブッダが祇園粟舎で説いたものだ。あるべき瀟䌚の指針ずもいえる。
    苊を避けるために、この䞖は気晎らしに満ちおいる。それによっお䞀時的な「仮想涅槃」で満足しようずする私たちは、真理に出䌚うこずなく自らを䞍幞に貶めおいるず蚀わねばならない。「吉祥経」の第䞀節は、このように始たる。

愚か者たちず亀わらず、賢者たちずずもに生きるこず。尊敬すべき人びずを尊敬するこず。それこそもっずも倧いなる幞せだ。


    そうしお環境を敎えおいくこずは、内的環境の敎いずずもに欠かせない。第二節も「良い環境に暮らし、良い皮をたきながら、自分が正しい道を歩んでいるず自芚する。それこそもっずも倧いなる幞せだ」ず続く。そしお圚家の心埗ずしお、第十節では「俗䞖の䞭で暮らしながら、俗䞖に心を乱されず、悲しみは消え、安らぎに浞る。それこそもっずも倧いなる幞せだ」ず締めくくられおいる。ここで匷調されおいるのは「手攟し捚」である。ずりわけ気晎らしに満ちた珟代瀟䌚では至難であるが、朱に亀わっお玅くならぬこずを、実践によっお保぀よう説かれおいる。

■幞犏ぞの指針ずしおの四食ず五぀のマむンドフルネス・トレヌニング

    四食しじきは、私たちの身心が健やかであるために気を付けるべき四぀の栄逊だが、それによっお手攟しを分類すれば、俗䞖にありながら手攟すべき段食だんじき飲食物は、身心を損なうような食物のこずだ。貪りに満ちた過食や䞍自然な食物の過剰な取り蟌みはしなくおもしないほうが幞せに生きられる。
    感芚刺激によっお取り蟌む觊食そくじきは、䌚話やメディアなど五感を䜿っお取り蟌む栄逊のこず。苊の迂回のためにもっずも利甚されやすい刺激だろう。良い刺激によっお滋逊を受けたければ、䞀時的快楜のための刺激を手攟さなければならない。
    たた、内面から取り蟌む栄逊もある。思食しじきは、心に抱く意思のこずだ。それが自分にフィヌドバックし、その埌の粟神状態を巊右する。ゆえにネガティブな思いが手攟せなければ苊が増すこずになる。
    最埌に識食しきじき。意識状態が健やかであれば、それが同じく身心の健やかさにフィヌドバックする。無執着は心の良き栄逊ずなる。

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島田啓介氏が栜培しおいる葉物野菜ず隣接する畑の柑橘類
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収穫を埗お畑からゆずり家ぞ垰る島田啓介氏

撮圱森竹ひろこコマメ


    四食は環境ずの盞互䜜甚で私たちが䜜られおいるこずを蚌しおいる。そこには内的環境も含たれる。
    䞍健党な栄逊を手攟すこずによっお、私たちは今ここにある滋逊にあふれた芁玠を取り蟌むこずができるようになる。遠くのどこかにではない、すぐに入手可胜な目の前の日垞的な条件の䞭に。
    未来は今ここの芁玠から䜜られる。私たちは過去のカルマ業の結果であるずずもに、未来の原因なのだ。
    私たちが今から生み出すこずのできる幞犏の手がかりずしお、ティク・ナット・ハンの著䜜の倚くの巻末には「五぀のマむンドフルネス・トレヌニング」が添えられ、本曞もそれで締めくくられおいる。仏教の䌝統では「五戒」ずしお知られるが、タむはそれを珟代人にわかりやすく翻蚳し、さらに䞀歩螏み蟌んで「勧戒」ず成しおいる。
    それは身口意の䞉業が結果を生み出すずいう芋解によるものだ。今どうあるかが、次の瞬間を決定する。私たちはそうしお、自芚があっおもなくおも未来を䜜り続けおいる。

■「ひずりで生きるより良き道」を指針にしお

「ひずりで生きる」ずは、蚀葉を換えれば自芚的に生きるこずだ。『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』は、私たち珟代人にも、䞖の䞭に流されず自芚的に生きるこずを教えおいる。珟代においおマむンドフルネスを実践する意味が、本曞には短い偈頌で芁玄されおいる。

今日を励み぀぀生きるこず。明日を埅぀のでは遅すぎる。死は突然にやっお来る。それを避ける手立おはない。


    この蚀葉を抱きながら生きる──それはたさしく今ここを生きるこずだ。霢を重ねお身内、友人、知り合いが倚く亡くなっおいくず、この蚀葉がたすたす身に迫っお感じられるようになる。最倧の苊は、生き死にが思うようにならないこずだ。
    だからこそ、今ここを生きる。垯の蚀葉が瀺すように、いのちず出䌚う堎所は「今ここ」しかないからである。

完


第回    過去・未来・珟圚の枷のほどき方ず「ひずりでいる」こず