島田 啓介(翻訳家・「ゆとり家」主催・プラムヴィレッジOIメンバー(正会員))


島田啓介氏が「現代人にもっとも必要な偈」として勧める「バッデーカラッタ・スッタ(Bhaddekaratta-sutta、一夜賢者経)」を、自身が翻訳を手掛けたティク・ナット・ハン師の解説書『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』をベースに解説していただきました。「バッデーカラッタ・スッタ」の魅力と、それを踏まえた現代人が大切にしたい生き方についての論考を、全4回でお届けします。


第4回    自分への愛に満ちた好奇心をもって、ひとりで自覚的に生きる


■不在の中にこそ豊かな関係性が育まれる

    人間関係において「物理的にいつも一緒にいる」ことに執着すると、分離は辛いものになる。そのもっともわかりやすい例が、死者との関係だ。それは五蘊への執着とも言い換えられる。五蘊こそが自分(または相手)であると思うとき、物理的な別れは耐え難い。筆者のブログ『島田啓介のVoice in Voice第3章』からの引用を続ける。

不在の中で育まれる関係性は、たとえ短時間でも、またはかつて会っていればこその恵みである。いやむしろ、会わない間に長時間想うことで絆は深まる。死者との関係も同様だ。不在の中にこそ関係性の秘密はある。家族は毎日顔を合わせ、お互いに当たり前になっている。年月と共に相手を特別には思わなくなる。一緒にいる中でも『不在を作り出す』ことがなければ、存在への感受性が鈍磨していく。一緒にいても孤独であることが必要だ。孤独であるとき、人は初めてつながれるのだから。愛着が強すぎる恋人どうしが、やがてお互いを疎んじるようになるのもうなずけるだろう。


    愛着と手放しがともにあり、まるでダンスのように満ち干を繰り返しているのが、私たちの関係性の現実だ。その中でも関係への依存(愛着の昂進)が起こりやすいのは、「自分自身への愛に満ちた好奇心」が薄れているゆえだ。そのとき、「物理的に一緒にいても心は他所にある」ことが起こる。

    大学の授業で質問をすると、すぐに隣の友人に助けや同意を求める学生がいる。そのとき私は「ひとりになれ」と言う。すぐに依存したくなる心を見つめるために。

    ひとりになって、内側に耳を澄ますこと。どう感じているのか?    そのために、よく授業を中断してマインドフルネスの実践を体験してもらう。どんな瞬間でも鐘が鳴ったら三回呼吸。
    呼吸に戻って自分とつながり、体はどうか?    心はどうか?    チェックする。隣を見ない!    
    見て話しかけたくなるのは、自分から離れたいからだ。外に助けを求め、居心地悪さから気を逸らそうとする。気を紛らわせない!    
    居心地悪さに留まること。繰り返しの練習だ。ぼくはしつこいから、毎回こんなことをしているうちに、少しずつ鐘を聴くのがおもしろいという学生が増えてくる。それが自己観察の出発点だ。


    こうしてマインドフルネスはまず、ひとりになることから始まる。私たちは、つながり過多の中で「自分自身への健全な好奇心」を阻害されている事実に気づく必要がある。

    私語やスマホ逃げをするのは、自分に飽きて、退屈し、自分なんておもしろくないと思っているからだ。つまらないのは授業ではなく、本当は自分にうんざりしている。だから外の何かが(自分を満たしてくれるサービス旺盛な何かが)自分を楽しませ、不満を解消させてくれることを期待して、(自分に向き合わせる)課題より友人とのおしゃべりやネットの娯楽に走るのである。
……(中略)学生だけではない。自分とつながることは多くの大人にとっても脅威だ。幼いころから、自分自身であることを否定されて育った者は、自分を恐れ、評価せず、疎んじる。自分というのが一番つまらないと思う。そこで外にばかり気を逸らすのだ。『いつもここにいる』のは、自分以外ではないのに。こうして現代人の自己疎外は、戦後延々と途切れることなく続き、再生産され続けている。ここで(自分のところで)断ち切らねば誰もそれをやってはくれない」


    今という時代に瞑想する意味は、まさに孤独を恐れ、その不安から表面的なつながりばかりを求める時代の精神性に抗うためだ。「随処作主(どこにいても自分自身の主となる)」、「今この瞬間をひとりで生きる」(p.30の小見出し)ためなのである。

■今ここにとどまることを許さない「ドロモロジー(前望構造)」の中で

    こうして見てくると、私たちのひとりになれない傾向性は、時代の集合的精神の傾向そのものだ。瞑想者が社会にも目を向けねばならない必然がここにある。私たちは極めて社会的な動物で、他と無関係な「内面」は存在しない。
    近代が生み出した内面に反映する強い傾向性に、フランスの哲学者G.バタイユは「ドロモロジー(前望構造)」という名をつけた。ギリシア語のドロモス(前進、進行、競争、逃走)と、ロゴス(原理、論理、体制、術)を合体させた合成語だ。
    それは前記の大量消費社会を支える資本主義産業構造の、「より速く、より多く、無限の進歩」といった(前のめりの)精神性のことだ。近年テクノロジーはますますその傾向に拍車をかけている。ドロモロジーは、人々を決して達成できない目標に向かって驀進させる。そして、絶え間ない不満足を生産し続けるのだ。
    何かに似てはいないだろうか?    ブッダが2500年以上前に指摘した苦諦(充足を知らないことからくる不満足)そのものである。社会で生きるなら今ここに充足してはならない、そう教育され、強くうながされているのだ。それが同じ価値観を共有する「似非(えせ)つながり」を生み出すことは言うまでもないだろう。私たちは「消費者」という称号をいただき、その限りにおいてつながっていられる。そして、消費活動できなくなった(非生産的な)状態にある人々は、社会的価値から排除される傾向にある。
    こうして私たちは今という瞬間から疎外され、今ここに豊かに息づく「いのち」から疎外されている。ひとつには資本主義という外的環境によって、さらにはドロモロジー精神の内面化による内的環境によって。

■安心の居場所~サンガのあり方

    それに対抗するには、「もうひとつの価値(オルタナティブ)」による社会を作っていかねばならない。サンガはその一例であり、私が長年組織してきた精神障害をもつ人々の当事者会もそうである。それはドロモロジーからも、資本主義の精神からも自由な待避所だ。ひとりでいることを保証され、必要なときには支援が得られる場所だ。そこではありのままの自分が否定されない。
    そこでもなお、私たちのいのちは内面化された裁きの声によって脅かされがちだ。だからこそサンガでは、自分に耳を傾け、人に傾聴する実践が必要なのである。サンガを清浄に保つこと、世事から守ること、それにはまず「自分自身とともにいる」実践が欠かせない。まずは自分ともにひとりになり、心の声を聴くことだ。サンガは仲良しクラブ(相手に気を遣って波風立てないようにする)ではないのだから。
    本書にはタイの言葉で、ブッダのサンガの様子が描かれている。「霊鷲山(りょうじゅせん)の険しい岩の上、竹林精舎の竹やぶの陰、祇園林の庵の草葺きの屋根の下、どこに座っているときでもブッダはブッダとして変わらずに、心乱れず、満ち足りて寡黙でした」。
    こうした人物に導かれたサンガが、その影響のもと、信頼にあふれたコミュニティであったことが、僧院をサポートしていたコーサラ国のプラセーナジット王によって証言されている。
「自分がブッダにそれほどの信頼を寄せられるのは、ブッダに導かれて修行する比丘や比丘尼の、ゆったりとして落ち着き、喜びにあふれた生き方に接したから」と。

愚かな者を道づれとするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように

法句経(ダンマパダ)三三〇(『ブッダの真理のことば    感興のことば』、中村元[訳]、岩波文庫)


    ブッダの言葉にもっとも近いと言われる最古層のダンマパダにおいて、言われているのは、人間関係でも心の中でも「愚かな者」との交わりを避けることだ。「孤独で歩め」との言葉は、経集(スッタニパータ)の有名な一節「犀の角のようにただひとり歩め」を思い起こさせる。

もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

経集四六(同書より)


    これらを見ると、ブッダはもちろん〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉であるサンガから(テーラのように)離れるどころか、関係性を大切にするよう説いていることがわかる。孤独感を募らせ合うような関係は、自らが立つことのない依存的関係である。つねに他者の動向によってしか生き方を決定できない。孤独とは自らの主であること、「随処作主」で生きることである。

■吉祥経に見られる幸いとは

    『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』には「一夜賢者経」に加えて、「仏説八大人覚経」と「吉祥経(マンガラ・スッタ)」が紹介されている。「吉祥経」は、もっとも大いなる幸いとは何か、訪ねてきた神に対してブッダが祇園精舎で説いたものだ。あるべき社会の指針ともいえる。
    苦を避けるために、この世は気晴らしに満ちている。それによって一時的な「仮想涅槃」で満足しようとする私たちは、真理に出会うことなく自らを不幸に貶めていると言わねばならない。「吉祥経」の第一節は、このように始まる。

愚か者たちと交わらず、賢者たちとともに生きること。尊敬すべき人びとを尊敬すること。それこそもっとも大いなる幸せだ。


    そうして環境を整えていくことは、内的環境の整いとともに欠かせない。第二節も「良い環境に暮らし、良い種をまきながら、自分が正しい道を歩んでいると自覚する。それこそもっとも大いなる幸せだ」と続く。そして在家の心得として、第十節では「俗世の中で暮らしながら、俗世に心を乱されず、悲しみは消え、安らぎに浸る。それこそもっとも大いなる幸せだ」と締めくくられている。ここで強調されているのは「手放し=捨」である。とりわけ気晴らしに満ちた現代社会では至難であるが、朱に交わって紅くならぬことを、実践によって保つよう説かれている。

■幸福への指針としての四食と五つのマインドフルネス・トレーニング

    四食(しじき)は、私たちの身心が健やかであるために気を付けるべき四つの栄養だが、それによって手放しを分類すれば、俗世にありながら手放すべき段食(だんじき)(飲食物)は、身心を損なうような食物のことだ。貪りに満ちた過食や不自然な食物の過剰な取り込みはしなくても(しないほうが)幸せに生きられる。
    感覚刺激によって取り込む触食(そくじき)は、会話やメディアなど五感を使って取り込む栄養のこと。苦の迂回のためにもっとも利用されやすい刺激だろう。良い刺激によって滋養を受けたければ、一時的快楽のための刺激を手放さなければならない。
    また、内面から取り込む栄養もある。思食(しじき)は、心に抱く意思のことだ。それが自分にフィードバックし、その後の精神状態を左右する。ゆえにネガティブな思いが手放せなければ苦が増すことになる。
    最後に識食(しきじき)。意識状態が健やかであれば、それが同じく身心の健やかさにフィードバックする。無執着は心の良き栄養となる。

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島田啓介氏が栽培している葉物野菜と隣接する畑の柑橘類
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収穫を得て畑からゆとり家へ帰る島田啓介氏

(撮影=森竹ひろこ(コマメ))


    四食は環境との相互作用で私たちが作られていることを証している。そこには内的環境も含まれる。
    不健全な栄養を手放すことによって、私たちは今ここにある滋養にあふれた要素を取り込むことができるようになる。遠くのどこかにではない、すぐに入手可能な目の前の日常的な条件の中に。
    未来は今ここの要素から作られる。私たちは過去のカルマ(業)の結果であるとともに、未来の原因なのだ。
    私たちが今から生み出すことのできる幸福の手がかりとして、ティク・ナット・ハンの著作の多くの巻末には「五つのマインドフルネス・トレーニング」が添えられ、本書もそれで締めくくられている。仏教の伝統では「五戒」として知られるが、タイはそれを現代人にわかりやすく翻訳し、さらに一歩踏み込んで「勧戒」と成している。
    それは身口意の三業が結果を生み出すという見解によるものだ。今どうあるかが、次の瞬間を決定する。私たちはそうして、自覚があってもなくても未来を作り続けている。

■「ひとりで生きるより良き道」を指針にして

「ひとりで生きる」とは、言葉を換えれば自覚的に生きることだ。『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』は、私たち現代人にも、世の中に流されず自覚的に生きることを教えている。現代においてマインドフルネスを実践する意味が、本書には短い偈頌で要約されている。

今日を励みつつ生きること。明日を待つのでは遅すぎる。死は突然にやって来る。それを避ける手立てはない。


    この言葉を抱きながら生きる──それはまさしく今ここを生きることだ。齢を重ねて身内、友人、知り合いが多く亡くなっていくと、この言葉がますます身に迫って感じられるようになる。最大の苦は、生き死にが思うようにならないことだ。
    だからこそ、今ここを生きる。帯の言葉が示すように、いのちと出会う場所は「今ここ」しかないからである。

(完)


第3回    過去・未来・現在の枷のほどき方と「ひとりでいる」こと