島田 啓介(翻訳家・「ゆとり家」主催・プラムヴィレッジOIメンバー(正会員))


島田啓介氏が「現代人にもっとも必要な偈」として勧める「バッデーカラッタ・スッタ(Bhaddekaratta-sutta、一夜賢者経)」を、自身が翻訳を手掛けたティク・ナット・ハン師の解説書『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』をベースに解説していただきました。「バッデーカラッタ・スッタ」の魅力と、それを踏まえた現代人が大切にしたい生き方についての論考を、全4回でお届けします。


第3回    過去・未来・現在の枷のほどき方と「ひとりでいる」こと


■幻影(枷)に縛られないために

    意識にまとわりついてくる過去、未来、現在の執着、それらは幻影で存在の根拠をもたないものたちだ。現在において今ここにとどまる瞑想をしても、「陶酔、執着、惨めな気持ち、今ここの喜びを奪う計画など」もまた、まとわりつく幻影になる(p.32)。
    幻影とは、ここにとどまり、永続するかのように思い込む諸々の対象である。本書中にも、一夜賢者経の別ヴァージョンと言えるミガジャーラ経の中で、ブッダはミガジャーラという僧に説いている。
「ひとりで森の中に住んでも、(意識の対象に)縛られるとき、人は自由ではなく、『枷』と同居している」。その枷は私が冒頭に書いたような「世法」、つまり俗界でうまくやっていく価値観への執着だ。それ自体がいけないわけではない。ブッダが例にとるのは出家者であるが、私たち在家の者には異なる事情がある。世法を知って使いこなすことができなければ、私たちは生活していけないだろう。では、どうすればよいのか?
    キリストの言葉に「右手がしていることを、左手に知らせてはならない」という戒めがある。行為を欲望に染めてはならないという意味で引用されるが、世法によって生きねばならない私たちは、手を動かしながらも俗世の行為によって心まで(例えば瞑想において)染められない注意が必要だ。
    南インドの聖者ラマナ・マハルシは、「行為者の不在において行為する」という表現をする。これもエゴを働きに紛れ込ませない智慧だろう。ただ行為するということは、「座るために座る」「歩くために歩く」「食べるために食べる」というマインドフルネスの瞑想にも通じる。
    ティク・ナット・ハン師はそういったとき、私たちの仏性が働くと言う。ブッダが訪れ、私たちを導く。エゴの場に仏性が交代し、「ブッダが呼吸し、ブッダが座る」(『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』(野草社、pp.19-24)。
    瞑想の実践をともにするサンガの中に、世法を紛れ込ませないことはとくに重要だ。だからこそブッダは、サンガと離れて孤独に修行することで「自分だけ境地を深めようとした」テーラという僧を戒めたのである。無我行の場であるサンガに、自分だけの利益に資する行いはふさわしくない。
    孤立した我は、過去、未来、現在に飲み込まれ、執着するが、無我は今ここのリアリティしか体験しない。「ひとりで生きる」と言うときの「ひとり」は、他から分離した我がひとり、という意味ではない。その曲解がテーラをサンガからの離脱に導いたのだ。それは無我がひとりという意味なのである。
    無我がひとりとは何だろう?    無我は無常とセットである。私たちの要素である五蘊(色受想行識)には互いに分離がなく、しかもタイが「五つの流れ」と表現するように、つねに流転してとどまることがない。執着して固定しなければ(しがみつかなければ)、すべてそれらは空行く雲のように流れ続け、変化する。それが理法である。

■今ここを生きるための無常偈

「今ここに生きる」無我に、無常は自ずから見えてくる(p.94)。
唐代の禅僧・潙山霊祐(いざんれいゆう)は、(テーラとは逆に)サンガにいながら仲間との浅薄な会話に没入している僧たちを戒めた。
「人生の目的を深く見つめることもせず、いったいどれだけの転生を世俗の雑事を追いかけることに費やすつもりか。光陰は矢のごとく過ぎゆくが、お前たちは受けた布施への愉しみの執着から離れず、金銭やもちものが安寧をもたらすと思い続けている」(p.54)
    ブッダが一夜賢者の偈の中で「今日を励みつつ生きること、明日を待つのでは遅すぎる。死は突然にやって来る、それを避ける手立てはない」と言うとき、まさに無常の世で、今この瞬間にマインドフルに生きることを説いている。
    タイの偈頌集『今このとき、すばらしいこのとき~毎日が輝くマインドフルネスのことば』(サンガ 、島田啓介[訳])で最後に引かれているのは、無常観を表す有名な偈頌「黄昏(こうこん)無常偈」である。この偈は前半「水たまりの魚が干からびて死んでいくのが私たちの運命だ」と、幾分厭世的な調子で綴られるが、後半は「だからこそ、放逸に流れることなく今を生きよう」と、念じる言葉で締めくくられている。
    筆者が海外である寺に居候していた折にも、毎夕の勤行で必ずこの偈頌を唱えていた。また朝一番には、それに対比される「晨朝無常偈」を唱える。そうして声に出して、または心の中で唱え続けることで、無常観は養われる。
    無常偈は、涅槃経の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」をベースに展開したもの。日本の「いろはうた」が、この無常偈の意訳であるとの俗説もある。いずれにせよ無常を銘記することが、過去・未来・現在にとらわれず、今ここを生きる指針になっていることに変わりはない。

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島田氏が暮らす「ゆとり家」から見る朝日(撮影=島田啓介)
■鬱と大量消費の時代の不安

    現代は鬱的時代と言われる。景気の後退(デプレッション)と精神的な鬱滞が奇妙に一致しているときともいえる。鬱ではネガティブな思考が止まらなくなる。外的な不景気が精神に及ぼす影響はもちろん無視できないが、VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)と呼ばれる時代的な不安が大きな原因だろう。心は集合的な現象でもあるのだ。
    鬱では過去の後悔にとらわれる。未来への不安にとらわれる。そして現在を保証するために、あらゆる手立てを尽くそうとする。不安に根差した社会は、皮肉にも大量消費促進に都合がいい。「不安の穴埋め産業」がここぞとばかりにはびこっている。不景気に便乗した「惨事便乗型資本主義」と言ってもいい。
    それは不安を直視することを恐れ、他の手段で安心を代替させようとする詐術である。わかりやすく言えば、車内広告の若返り術、モデルを使った恋愛の夢物語、安易な儲け話、年に一度限りの極楽リゾート、一分で心を楽にする瞑想術……、それらは本当の感情を忌避するための「迂回路」になっている。消費者はいくばくかの金で、一時しのぎの涅槃を手に入れようとする。
    しかし、涅槃は無我と無常でできている(三法印:諸法無我、諸行無常、涅槃寂静)。無常なる時代に我の楽に走り、仏法の理(ことわり)に逆行しても、真の安心は得られない。不安の回避は「ひとりでいること」を恐れることである。
    私も鬱を患ったとき、(精神的に)ひとりになることを非常に恐れた。対人恐怖で人との関係を避けても、心の中には多くの「一時的な安心の概念」を住まわせて、何とか不安を見ないようにしていた。心の中はつねに騒がしかった。

■私がひとりでいたとき

    実際に敢えて「ひとりでいてみる」体験は必要だ。私がその後、反動で対人依存的になったのも、病気による昔の孤立体験が心に刻まれていたからだ。それがトラウマとなって付きまとい、ある程度回復したあと人付き合いに依存するようになったのである。しかし孤独と孤立は違う。孤独はむしろ積極的にひとりでいることを志向する。
    絶え間ない付き合いは、かえって人を不安にする。相手のご機嫌をつねにうかがい、嫌われないように気を遣うからだ。関係性の維持が第一目的になり、自分の気持ちは置き去りになる。無理をしての付き合いは、明らかにストレスに転じる。苦しむための関係なのかいぶかるほどに、それが昂進することさえある。
    現代では、多くの人が人間関係依存に苦しんでいる。真に豊かな孤独を知らないからだろう。不安から結ばれる関係性は、豊かな孤独体験をむしばむ。ひとりが不安でしかなくなるのだ。そのくせ、内面的には強い孤独感がある。
    私自身、鬱々としながら人と過ごすことが稀ではなかった。あるとき、ひとりでいるときに誰かに連絡することをせず、あえてひとりで居続けてみた。自然の中に身を置くことは助けになる。実際にそうして「自分とともにいる」時間を過ごすときには、寂しさの感情でさえも親しいものに感じた。
    こうした内的な「親しみの体験」は、ひとりでいないと味わえない。とりわけ微妙な感情はそうである。このとき、訪れた気づきをメモしたものがある。孤独の中で書き綴ったいくつかの文章を参考に挙げてみたい。(引用はすべて筆者のブログ『島田啓介のVoice in Voice第3章』より)
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友人宅の縁側にて(撮影=森竹ひろこ(コマメ))
■関係性と孤独の恩恵

    親しさに執着し「関係性」を保とうとするとき、当然無理がかかる。自分の心変わりを自分で責めて、いやいやこちらが我慢すればいいことだからとか、相手の気持ちを思い計り、相手に合わせて「気持ちよく」お付き合いをしようとする。そうした無理に慣れてしまうと気づかないのだ、自らの本心に。
    そのときおろそかになっているのは、「自分との関係性」だ。自分の本心のありかを突き止めてそれとつながることなしには、持続する生き生きとしたエネルギーは保てない。枯渇しながら駆動し続けるから、燃え尽きるのだろう。
    関係性を優先すること、つまり人の顔色をうかがいながら穏便にことを済ませようとする心のうちには、知らずのうちに不満や悪くすると恨みがたまっていくのである。


    つまりは、こういったことの繰り返しだった気がする。こうした気遣いの中では、人間関係は牢獄になる。それに対して、豊かに感情を味わえる孤独が必要だ。

    いつも仲良く、つるんでいる人は孤独になりえない。人と折り合うことばかりに気を遣い、ちょっとした摩擦に心を痛める。その人にとって一番大切なのは、仲がいいことである。仲良しであるために少々は我慢し、譲り、謝罪することを心がける。
……(中略)孤独が怖いのだ。ひとりになること、誰からも連絡が来ないこと、自分だけが誘われず、多くの人と自分が違うことが。自分という宇宙を知らない。それがすべてを飲みこむほどの虚空をたたえていることを知らずに、世間知だけに心を費やす。他者によって自分がようやく安堵できるかのように。もっとも寂しい人、それは孤独を楽しまない人だ。


    サンガとは、「出世間(世法の外にある価値観)」の価値を求めて集まる者たちの場だ。それぞれが「人はひとりである」ことを知り、本来の自己を確立する実践を行う関係である。それは、依存ではなく自立しながら共存する「慈悲喜捨」の社会だ。互いを大切に思い、共感し、ともに喜び、しかもそれらすべてに執着しない。それが心が空(くう)であるということだろう。空はすべてを含むことができ、排除せずに抱きとめる。

    つながりと孤独は反対ではない。創作する者には、とりわけ孤独が必要だ。瞑想者には、孤独が必要だ。深く見つめたとき、初めてつながりがわかる。そうでなければ、むやみな依存が待っている。それは激しく人の尊厳を損なう。


    先に俳句創作の箇所で書いたとおり、自分が自分であること、その根からの表現には孤独が欠かせない。つながりとは、自分の井戸を深く掘ったときに見いだせる地下水脈のようなものだろう。

    ありのままの自分であるためには孤独であること。友情とは、孤独どうしが出会うときに互いの深い寂しさを知り、聴く耳を持つことだ。そのために、顔はそっぽを向いていることもある。それを寛容という。友情とは、孤独を味わうスペースをお互いにあげられることだ。


    これが、法友と呼び合える関係性だと思う。自分のあらゆる感情を排除しない人は、いかなる人も排除しない。そして干渉もしないのである。

(つづく)


第2回    「いのち」「ひとり」の理解と「バッデーカラッタ・スッタ(一夜賢者経)」
第4回    自分への愛に満ちた好奇心をもって、ひとりで自覚的に生きる