【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】

 皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「合掌」です。


[Q]

 仏教では合掌することがあります。合掌することにはあまり意味がないように思ったのですが、合掌することは必要なのでしょうか?

[A]

心の落ち着きをチェックするバロメーター


 答えは簡単です。そう思うのは精神的に混乱しているだけです。心が落ち着けば、自動的に合掌するようになります。合掌するしないということも心の問題なのです。

 合掌してもしなくてもいいのですが、私が気になるのは、この人は自我を張っているのか、何か独自の考え方を持っているのか、混乱しているのかなど、いろいろな理由で合掌しない方々がいます。ある人は、勉強を必死でやり、お経を唱えるのも必死なのですが、合掌だけはしない。その時、私はこの人は気づきの少ない人だなと思ったのです。お経を唱えるときは合掌するということに気づいていなかったのです。合掌すると心がいくらか落ち着きます。

 人にお辞儀をするときも同じことが言えます。例えば舞台に立つ人が、観客に向かって丁寧にお辞儀をすると、舞台に立つ人と観客との間で良い関係が現れるのです。舞台に立つ人は自分の役が終わってから、より美しく、より丁寧にお辞儀・挨拶をした方が、お互いに共感を持つことができるのです。役が終わってサッと舞台から出ていってしまうと、あいつは何様だと思われてしまうことになります。合掌もお辞儀と同じことです。

 合掌はインド文化だといって無視することはできません。確かに手を合わせるのはインド文化でもあります。日本でも仏教徒でなくても手を合わせることはします。子どもたちも手を合わせます。日本で仏教は外来文化ですが、だからといって合掌することも外来文化とは言えません。唯一、イスラム教ではわざと合掌しないように教えています。その代わりに他のしきたりが多くなってしまう。合掌ひとつすれば簡単なのですが。例えばイスラム教の人が神にお祈りするしきたりでは、いろいろな仕草があるようです。

手を合わせるということの大切な意味


 合掌というのは、こういうことです。人間の体にとって一番大事な部品は手なのです。人間は手でこの世界を作り上げてきたのです。動物にはできないことです。現代社会というのは、人間の手で作ったものなのです。手は大事な部品です。足も使うことがありますが、補助的な役割です。

 そういうことで、私たちの思考は直接、手と繋がっているのです。ですから、手を合わせて合掌するということは、同時に心も合わせたということになるのです。心を合わせるということは、思考・自我を抑えるということです。キリスト教の方々は、手を胸の前で組んでお祈りするのです。その仕草がなければ集中力や気持ちが生まれてこないのです。彼らが存在すらしない神と連絡しようとしている姿なのですが、そのために集中しなくてはいけない。それで胸の前で手を組むのです。

 ヨーロッパ文化では握手をするという仕草もあります。それも手が無いといけません。他にも抱擁といって、互いに体を抱きしめるという仕草もあります。イスラム人の挨拶の仕方は抱擁です。私にとっては、あまり良いものとは思えません。握手の方がいいと思います。心と手は直接的に関係が深いのです。

 そういうことで、合掌することで心が集中して落ち着くという結果になる。最初に合掌するという習慣が現れたのです。なぜそのような習慣が現れたのかと調べてみると、合掌することで心が集中する・落ち着くという結果があったからです。

修行中は宗教的しぐさは厳禁


 ヴィパッサナー瞑想で指導する場合、私は最初に強烈にしゃべって強制的に集中力が現れるようにします。立つ瞑想の指導で、立って手を結んでくださいと言ったら、皆立って合掌するか、何か変な手の形をするのです。その時、誰かが怒鳴るか、強制的に手を掴んで普通に手を結ぶようにしない限り、何か間違ったやり方でするのです。普段は合掌しない人が、立って手を安定させるために前後に結んでくださいと言っているのに、その時に限って合掌する。修行中は宗教的な仕来たりや仕草は一切不要です。やってはいけません。そう言っているのに、敢えて修行中に合掌したり、印を結んだりするのです。やるなということは必ずやるのです。

 その裏にあるのは、本人が他の瞑想法を実践したことがあって、一応、心が集中した経験がある。それでヴィパッサナー瞑想で心を集中させようとするのですが、ただ手をどうしたらいいのかわからなくなって、本人が知っている合掌や変な印など手の仕草をしてしまう。仏教の狙いは、集中力を独立させることにあるのです。肉体の形はどうであっても、心を集中させることを育てるのです。ですから、宗教のしぐさなどは使いません。修行では、真言密教などでやる印は一切禁止です。その程度の解説です。



出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編2』