【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「生きること=「苦」なので子供はいらない?」というお悩みにスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
お釈迦様が、生きることは苦だとおっしゃったのであれば、人間はできる限り子供を産まないように仏教は教えるべきではないのでしょうか? スマナサーラ長老の書籍や法話の中で、できるだけ子どもはたくさんつくったほうがいいというようなお言葉を読んだことがあります。しかし、生きることは苦で仏教はそこから解き放つ方法を教えているのに、わざわざ苦しむ人間を増やすことを勧めるのはなぜ?と、矛盾しているように思えてなりません。
[A]
■主観を事実と取り違える間違い
生きることは苦であるから、苦しみを超えなさい、脱出しなさいとお釈迦様はおっしゃっています。しかし、苦しむために人間を作るなかれとは説かれていません。
例えば、ある人が目を閉じる。当然世界が見えなくなりますね。それでこのような結論に達するとします。
「私が目を閉じたら世界は存在しないことになる。私が目を閉じたら世界はなくなる。世界の存在は私の目の開閉にかかっている」。
この人は事実を語っているのではなく自分勝手な主観を述べているのです。世界が目を閉じたら消えるのはその人の経験なので、その妄想哲学の過ちを他人が教えてあげることも難しいのです。
「私は子供を産まないようにする。それで、世間の苦しみが消える。人間は子供を作らないならば、世間から苦しみが消える。従って、苦しみを乗り越えるために、修行して覚りを開くのではなく、子供を作らないことは道です。ですから、ブッダが子供を作るなかれと説くべきだった」などと言うことも、目を閉じて世界の存在を消す人と同じ間違いです。
■「私が子供を産む」という思考はおかしい
生命は自分の業によって生まれるのです。死後、再生するのです。業とは精神のポテンシャル・エネルギーなので、誰にも輪廻転生の回転を止めることはできません。
「私が子供を産む、私が子供を作る」というのは勘違いです。たとえ人が性行為をしても、子供が出来るという保証はありません。妊娠しても産めるという保証はありません。産んでも大人になるまで育つか、どんな人間になるかは保証がありません。各個人の業によって、各個人の生きる道は仮に決められます。しかし、周りから学んだり、躾を受けたり、自分で努力したりして、生きる路線は変えられます。(業だけではなく、これも因果法則です。)
子供が現れるか否かは知ったことではありません。しかし、妊娠したならば、その命を大事に育てて、立派な人間を社会に提供する義務が生じるのです。「そんなことはやりたくはない、社会に対して義務を果たすべき義理など無い」と思われるならば、度を超したエゴイストであり、恩知らずで残酷な人間でもあります。社会に支えられて、社会のおかげで生きているから、社会に迷惑を与える権利はありませんし、社会の役に立つことをしたならば、立派な人間にもなります。妊娠させた男にも同じ義務が生じます。
■子供を持たないことは輪廻に対する答えではない
子供を作らないというのは、輪廻の苦しみに対する答えではありません。ある個人が子供を作らないことに決めても、その個人の苦しみが減ることも、他の生命の苦しみが減ることも全くありません。
苦しみを無くすために、乗り越えるために、完全たる幸福に達するために、存在に対する執着を絶つべきです。自我・エゴの幻覚から目覚めて一切の煩悩を無くすべきです。
これは他人にできることではありません。各個人が自分の意志で適切な実践を行って達する境地です。修行できる、心を育てる、智慧を開発する環境は人間という次元の生命にあります。他の生命も苦しみを乗り越えるべきですが、それは不可能な環境に生まれているのです。人間に生まれることは、解脱することに挑戦できるという、生命にとっては希に巡り会えるチャンスなのです。
ですから、間接的に言うならば、人間が子供を産んで正しく育てることは良いことであって、何故それが悪行為になるのかはわかりません。
「人間にとって、子供がいることも楽しみの一つである」と釈尊は説かれています。しかし、子供を作れとも、作るなかれとも言ってはないのです。それはブッダには関係の無い、管轄外の問題です。
■人間に生まれるチャンスを与えるのは間接的な善
善行為をする、慈しみを実践する、他の生命を助ける、思いやりのある心を育てる、悪感情を無くす、生命に喜びをもたらす人間がいることは、善いこと? 悪いこと? 当然、善いことです。従って、この世に、人間として生まれるチャンスを生命に与えることは、間接的に善いことになります。生まれるだけでは善いも悪いもないのです。どのように育つのか、どの様に生きるのかということが問題なので、子供を産むことは間接的に善いことになります。
どうせ、生命は解脱に達しない限り苦を転生しているのです。ですから、人間として生まれたからといって新たな苦を加えたことになりません。苦の形が変わっただけです。人間として生まれることが出来なくなったら別な生命として生まれて、変わった苦を経験するのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:こころ編1』