鄭 雄一(東京大学大学院教授、医工学者、道徳哲学者)


世界はどうすれば幸福になるか?    人が皆「正しい行動」をすれば幸福を実現できるのかもしれない──そう考えてはみるものの、その「正しさ」とは何なのでしょうか?    この「善悪の原理」を探究しているのが東京大学大学院教授の鄭雄一先生です。医工学者・道徳哲学者である鄭先生は、AIやロボットへ善悪を判断する「道徳エンジン」を搭載する研究に取り組んでいます。サンガジャパン編集部では鄭雄一先生にインタビューし、私たちの社会で流通している「正しさ」の基本原理を明らかにするとともに、慈悲の瞑想や悟りについて掘り下げながら、仏教が持つ行動変容の驚くべき可能性をうかがいました。


第1回    なぜ「慈悲の瞑想」がすごいのか?


■道徳研究者から見た仏教の決まり

編集部    私たちが「よい行動をしていきたい」と考えるとき、仏教が説く五戒や八正道を思い出すことがあると思います。仏教を実践することで、幸福を実現していきたいと考えるのです。そして、とくにここでは、なぜ五戒や八正道が私たちの行動を変容していくのかを掘り下げていきたいと思っています。そこで道徳のメカニズムを研究されている鄭先生に、幸福に生きるための思考や行動の整え方をおうかがいしたいです。

    たしかにそのテーマは私の研究の基本的なところです。「道徳」というと難しい印象になりますが、それを柱に、とくに善悪の基準はどうやって決まっているのかというところを中心に研究していますので、ぴったりのテーマですね。

編集部    仏教の五戒を振り返りますと、不殺生・不偸盗・不妄語・不邪淫・不飲酒の5つで、「〇〇してはいけない」という行動を律する決まりです。これを守ることは、仏教の修行の前提条件かと思います。まず五戒を守った上で、仏教の最終目標である「解脱」に向かって、八正道という「これをやることで解脱に達しますよ」という修行内容に励むことになります。八正道というのは「四諦八正道」とも呼ばれ、具体的な内容は以下にまとめましたが、道徳の研究をされている先生の立場から見て仏教の五戒・八正道というのは、どのようにお感じでしょうか?

◎五戒
仏教で出家が守らなくてはいけないとされる5つの決まり。他を殺さない行為(不殺生)、他のものを盗まない行為(不偸盗)、よこしまなことをしないこと(不邪淫)、嘘をつかないこと(不妄語)、酔いつぶれて自分にも他人にも不幸を招かない行為(不飲酒)の5つ。

◎四諦
ブッダの4つの聖なる真理をあらわす苦(Dukkha)、集(じゅう:Samudaya)、滅(Nirodha)、道(Magga)の4つ。四聖諦ともいう。「苦」というのは苦しみ、「集」というのはいかに苦しみが現れるかということ、「滅」とは苦しみが消える状態で、「道」は苦しみをなくす道・方法のことで、具体的には八正道である。

◎八正道
涅槃に導く以下の8つの実践徳目からなる聖なる生き方。①正見(正しい見解)、②正思惟(正しい考え方)、③正語(正しい言葉)、④正業(正しい行動)、⑤正命(正しい仕事)、⑥正精進(正しい努力)、⑦正念(正しい気づき)、⑧正定(正しい精神統一)。


    私は五戒も四諦八正道も、その内容自体、まったくもって反対するところもありませんし、至極まっとうだと思います。なかでも私が一番注目するのは八正道の「正」です。「正しい」というのがすべてに共通していますが、「正しいとはなんなのか」というところが一番大きなテーマとしてあると思います。

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鄭雄一先生


■善悪の基本原理は「仲間かどうか」

    私は、今までいろいろな人たちの言っていることや宗教・哲学などを検証し、人々が何が正しい、何が正しくないということを、どういうふうに理解しているかを研究してきました。そして、正しい・正しくないというのは善悪と表裏一体、ほぼ一緒だとも思っています。正しいことは善で、正しくないことは悪だということですね。まさに私が研究している道徳というのは「善を行い、悪を行わない」というものですが、その基本原理は「仲間らしくしろ」という命令であると私は思っています。

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    この観点でいくと、善というのは「仲間らしい」ということで、悪というのは「仲間らしくない」ということである、となります。そして私は、八正道の「正」というのも、これは正しくてこれは正しくないみたいなところはいろいろあると思いますが、実はその根本は仲間らしいのが善で、仲間らしくないのが悪というところだと思うのです。
    五戒を考えても、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とありますね。これを「仲間らしい・仲間らしくない」で見ていけば、不殺生とは「仲間を傷つけたりすることはいけません」ということですし、不邪淫・不偸盗というのは「仲間から物やその他、なにかを盗んではいけません」ということになりますし、不妄語というのは「仲間を騙してはいけません」ということで、当然これは「仲間らしくないことはするな」ということになると思います。そしてこれらはほとんどの宗教に共通して入っています。
    その一方で不飲酒というのは「酒を飲むな」ということで、これは聖体拝領のときにワインを飲んだりするキリスト教では成り立ちません。日本の神道なども酒を普通に使いますから、飲むなというのは成り立ちませんよね。そう考えると結局「仲間らしくしろ」という命令には二通りある、ということです。五戒の不殺生・不偸盗・不妄語、不邪淫の4つはひろくこの世に共通の「仲間に対して危害を加えるな」という命令。そして、不飲酒の「酒を飲むな」というのは、ある仲間グループの中での個別の掟なのではないかと思います。

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    つまり、掟には二通りあって、全人類に共通するような部分と、個別のものがある、と。そして仏教の掟にも五戒などが生まれた当時の世界に固有のものがやっぱり入っているのだな、というのが私の感想です。


■「慈悲の瞑想」からわかる仏教のすごさ

    私が、仏教で一番すごいと思っているのは「慈悲の瞑想」です。何がすごいかというと、最初に、「自分が幸せでありますように」と自分のことを言うわけですね。その次に「親しい人が幸せでありますように」。そしてそこから広げて「生きとし生けるものが幸せでありますように」までになり、一番すごいのは「私の嫌っている生命が幸せでありますように」とまで言っているのです。
    先ほど、正しい・正しくないというのは仲間かどうかで判定できると言いましたが、慈悲の瞑想の最後はそれを完全に超えています。仏教は、もう「仲間らしくしなさい」というのを超えた教えなんですね。これはすごいと思います。四諦八正道ももちろん大事ですが、その八正道の「正」の意味が、慈悲の瞑想における自分を嫌っているものまで含んでいるというところが仏教のすごさであり、一番大事なところだと思います。
    ただ、残念ながらブッダの弟子たちが本当にこれを理解したのかどうかは非常に疑問で、言っては申し訳ないですが、それこそ宗派を作って争っているみたいなことは、まさに教えを守っていないわけですね。比叡山も三井寺もそうだし、日蓮宗も一向宗もそうだし。守られていないのは残念だと思います。ただ、ブッダ自身は本当にすごいところまで到達して言っています。
    あるいはキリストにしても、「右頬を打たれたら左頬も差し出せ」と言っていて、それも「仲間らしくしなさい」みたいなレベルを超えたところですよね。だけどやっぱり弟子たちは誰も守れていないんですね。十字軍しかりプロテスタントとカトリックの血を血で争う対立しかり、残念ながらまったく守れていない。こうした慈悲の瞑想の最後の部分や、キリストの右の頬・左の頬の教えなどは、人間本来のOS(オペレーションシステム)を超えているのではないかなと思います。ですから実世界では誰も守れない、と。これがまずは私のスタンスです。


■悟りとは人間のOSの超越

    現実の人間には、「仲間らしい=善・正しい、仲間らしくない=悪・正しくない」という原理が入っています。このOSがあるがために、仲間でなくなると非常に残酷になるわけですね。ただ、ブッダはそれを超えたことを言っている。私は本当にすごいと思っていて、しかしながら一般の世界では誰もできていない。ですから、慈悲の瞑想が最後まで行けたら本当に悟りなんだろうなあと思いますね。

(つづく)



2023年2月22日    オンラインにて取材
取材:編集部
構成:川松佳緒里



第2回    慈悲の瞑想と4つの道徳次元


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