アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「業の観察についての疑問」です。
[Q]
『慈悲の瞑想フルバージョン』について、業のところだけ、ちょっと引っ掛かってしまいます。
以前の長老の講義で、「生命が受ける苦楽の感覚は、業だけではなく八種類の原因によっても起こる、全て過去の因によると決めつけるのは間違っている」と教えていただきました、そうすると「私は私より豊かな人を見るたびに、過去に善行為をした人であると思い、喜びを感じます。」「私より不幸に思える人を見ると、生命は無明のせいで罪を犯すのだと理解し、自分が罪を犯さないようにと気をつけます。」というのは、他人の幸不幸は業の結果とは断定できないのに、他人を偏見で見ることになってしまうのではないかと感じてしまうのです。どのように考えれば良いでしょうか?
[A]
■業は生命の基本プログラム
業というのは一人一人の基本プログラムなのですね。それぞれに生まれてから死ぬまでのベーシックプログラムがあるのです。誰もこのプログラムからは抜けられません。自分で頑張ってより豊かになったりとか、豊かだったのに貧乏になったりとか、いろんな差異が現れます。
例えば、視力が無く生まれた人もベーシックプログラムです。それはもう変えられません。しかし他の業も働いていますから、それを生かして生かして頑張って、不自由無く生活することはできます。ただ、業が「あなたは目ではなく、耳を使ってください」と言っているわけではないのです。業は目を作ってくれなかったとしても、耳や他の器官は普通に作ってくれたのだから、本人の努力でそれらを成長させるのです。
■違いを認められる智慧
だから、この世で努力することを必ず考えなくてはいけません。貧しく生まれても頑張れば億万長者になれると理論上は言えますが、同じように努力してもそうなる人もそうならない人もいる。やはり基本プログラムはあるのです。
この業はベーシックプログラムですから、慈悲の瞑想はただ見た目でやるのです。見た目というのは、あの人は凄くきれいだとか、物腰が良い人だ……など、嫉妬が生まれてしまう可能性もあります。そこで、「それもその人の業だ」と、慈悲を使うのですね。逆に、「あの人は態度がすごく荒っぽくて嫌だ」と言ってしまうと慈悲ではなくなってしまいます。「その人はそういう荒んだ環境で生まれ育ったから仕方がないんだな」と、慈しみを実践しましょう。
全ての生命は業によるのですから、丸っきり同じ生命はいません。みんな違っていて、いわゆる個性、個が在るのですね。一卵性双生児の子供であっても、それぞれ別の個人です。見た目は同一でも、業はそれぞれの心が行うので、全くの別ものです。そこで、心がこの〝差〟に引っ掛かってしまうと、慈悲が実践できなくなるのです。「それは業のカラクリだから」と看破すれば慈悲ができるのですね。違いを認めるということでしょうか? 違いを認める智慧です。それが業を理解することでもあり、慈悲の実践でもあるのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
https://amzn.asia/d/79NQHTI


