山下良道(鎌倉一法庵)
山下良道師の師であり禅の修行道場である安泰寺の第六代住職の内山興正老師の哲学を紐解きながら、現代日本仏教の変遷をその変革の当事者としての視線から綴る同時代仏教エッセイ。日本仏教が「仏教3.0」にいたる道を、個人史と時代の変遷、仏教史を織り交ぜ綴られてきた連載は、シーズン4の最後に禅定による「もう1つの部屋」の発見に至りました。いよいよ「もう1つの部屋」をめぐるシーズン5のはじまりです。全8回予定。
第1話 コロナワクチンで露呈した、この世界に不在の「もう1つの部屋」
■「反ワクチン運動」と沈黙する宗教者
2022年になりました。皆さま、あけましておめでとうございます。
令和の改元に合わせて始まったこの連載ですが、既に令和4年になってます。とても早く感じるのは、勿論、令和2年と3年の2年間が新型コロナウイルスのためにあまりに特殊な時間が流れたからですね。多くの人にとって、何もしないうちに、出来ないうちに2年の月日が勝手に過ぎていったようなものでしょう。
でも、極めて異例な2年でしたが、というかそれ故にでしょうか、何かが「熟して」いったのは間違いないです。特に私が関わっている宗教の世界においては。もともと問題だったものが、この特殊な状況のなかで先鋭化して、社会問題にまで発展することで、多くのひとたちの目に触れるようになり、鋭く批判され、根本的な変革を求められる。そういう事が起こりました。
その1つが「反ワクチン運動」ですね。現在猛威をふるっているオミクロン株に対して、ワクチン未接種者があまりにも危険な状態にあることは、国内外のあらゆる統計が示しています。ワクチンを接種していてもブレイクスルー感染は起こってますが、ICUに入るような重症化の割合が未接種者の場合は非常に高いようです。
皆さんの中には「反ワクチン運動」と宗教はどういう関係にあるの? と思う方もいらっしゃるでしょう。宗教者といっても、ダライ・ラマ法王などのように、ワクチン接種を積極的に呼び掛けている指導者達もいますので。ただ、私が見た限り、宗教者ばかりでなくスピリチュアル業界の人達が、どうもワクチンに対して「沈黙」を守っている傾向がやはりあります。私がここで「反ワクチン運動」と言っているのは、このいわゆる「スピリチュアル」な人たちがワクチンを否定する姿や「スピリチュアル」な論理で展開されるワクチン否定論です。それに対して、スピリチュアル業界の人たちたちはいいとも悪いともはっきり言わないような印象です。少なくともダライ・ラマ法王のように、ご自分がワクチンを受ける場面の写真を公開し、皆さんも是非接種したほうがいいと公的に発言された例をあまり知りません。ダライ・ラマ法王が2021年3月6日にダラムサラで、アストラゼネカ製のワクチンの第1回目接種を受けたことを世界中のメディアが報じた。(https://www.nbcnews.com/news/world/tibetan-spiritual-leader-dalai-lama-gets-coronavirus-vaccine-shot-n1259897)
何故か?
■「もう1つの部屋」によって解消される矛盾
実はここに大きな問題が隠されています。シーズン4で問題にしてきたものと同じものがあるのです。同じ構造からくる問題といったら正確でしょうか。
シーズン4の最後で触れたように、私は2001年にミャンマーのパオ森林僧院に行き、パオ・セヤドーから直接瞑想指導を受けることで、「禅定」の中に入っていきました。禅定とはいったい何だったのか? それは枝から枝へ飛び回っていたお猿さん(モンキーマインド)が、1つの枝にじっとして動かなくなる、いわば「集中」というのとは微妙に違うことを発見したのです。そうではなくて、当時の私自身の言葉を使うと「違う部屋」に入るような経験でした。
これは一体何か? 世界にはもう1つの部屋があるのか? そんな部屋があるなんて、私は知らなかったぞ。誰からも聞いてないぞ。
そうなると、部屋は1つしかないという、いままでの前提条件がすべて覆されてしまうのだけど。
そして、今までの矛盾、謎だったもの、違和感を覚えて、股裂き状態だったもの、散々私を苦しめてきたものも、それらはすべてがその前提条件だったからなのか。つまり、もしその前提条件が覆ったら、話がまったく違ってきてしまう。矛盾が矛盾でなくなる。謎が謎でなくなる。違和感も消失し、股裂き状態も終了する。
なんだかトンデモない事態が、ミャンマーで瞑想を始めたばかりの私に起こってきました。勿論、それらはすべて後から振り返って分かったこと。違う部屋に入りはじめた私は、いったい自分が何を経験しているのか、その経験が何を意味するのか、さっぱり分かりませんでした。すべての整理整頓のために、この20年が必要だったとも言えます。
シーズン4第8回より(https://online.samgha-shinsha.jp/contents/723b8858707b)
いままでの部屋には、生まれて以来もう何十年とつきあってきたこの「自分」がいる。私というのはこの「自分」のことだ。肉体を持ち、そのなかで思考と感情が休みなく生じては消えている。その部屋のなかの「自分」が、自分に対して何の疑問も持たずに、そのまま仏教の世界に入り、瞑想を始めてしまう。そうすると、必然的に只管打坐とマインドフルネスはどうしても矛盾を起こしてしまい、それに苦しんでしまう。それがどういう苦しみだったかは、シーズン4で詳細に書いてきたとおりです。
要約すると、我々は思考が創り出す「仮想現実」(妄想)をリアルだと受け取ってしまう。その現実だと思い込んだ世界で、渇望と嫌悪を初めとするあらゆる感情、エモーションが湧き、自分で自分を苦しめてしまう。その苦しみの中で、内山興正老師のような禅の老師に出会う僥倖に恵まれて、只管打坐を教わる。さっそく「思いの手放し」の只管打坐をすると、「思い」という「仮想現実」を生み出してきたいわばプロジェクター装置のスイッチが切られ、その結果、スクリーン上の映像が消えるように仮想現実も消え去り、すべての苦しみから解放されてゆく。今まで経験しなかった安楽の中で静かに座ってゆく喜びにひたる。という、ハッピーエンドになるはずだったのに、日本仏教の枠組の外から突如聞こえてきたのは、その状態を「観察せよ」との声でした。その声によって、せっかくたどり着いた「安楽の場」は消えてしまいました。
勿論、その声を無視することもできました。他人は他人、自分は自分。みんな違って、みんないい。でも、その「他人」のなかに、ティク・ナット・ハン師、テーラワーダ仏教の大長老たちばかりではなく、仏陀までいらっしゃるなら、そういう偉大過ぎる他人を無視することなど、仏教者として出来るはずもありませんでした。
その偉大なる他人たちは異口同音に、「観察せよ」と言われる。え、だって観察するのは「思考」そのものではないの? 道元禅師も『普勧坐禅儀』のなかで、「念想観の測量を止めて」と言われているではないですか。だから「観察する思考」も、思いの手放しの坐禅のなかで既に手放されてしまっている。観察する主体もないところで、いったいどうやって観察するの? 「思いの手放し」を一旦やめて、再び「思い」の世界に戻って観察するの? ということは、坐禅をやめろと言われるの? そんな無茶な!
でも、実際にお会いしたティク・ナット・ハン 師が、「思いの世界」の住人ではないことは明らかでした。思いを超えた静寂の世界にいらっしゃるから、あのように安らかで、そして同時に強靱なのだ。でも何故? どうしてもその秘密が解けませんでした。
こういう堂々巡りのなかでどうにもならなくなっていた私は、全くの偶然によりパオ・セヤドーに東京で出会い、セヤドーが教えられる「禅定」に最後の望みを託してミャンマーまでやってきたのです。そして実際に禅定に入ることで見えてきた「もう一つの部屋」。その部屋のなかにいる「もう1人の私」。
只管打坐とマインドフルネスの間の、どう考えても超えられそうもなかった絶対矛盾も、「いままで自分と思い込んでいたもの」と、いま禅定のなかで発見しつつある「もう1人の自分」の2人がいるとすると、もしかすると矛盾ではなくなるかもしれない。
シーズン5では、シーズン4で私が苦しんだその矛盾が雲散霧消してゆく過程を丁寧に追って行きたいと思います。
■「もう1つの世界」の不在と「反ワクチン」
その前に「反ワクチン問題」にケリをつけておきましょう。何故この問題を私が取り上げるかというと、只管打坐とマインドフルネスの間の矛盾に私が悩んだといっても、世間にとっては、それはあまりに特殊な世界の特殊な問題と思われるの対して、この「反ワクチン運動」は、昨年、世間のど真ん中で起こったことだからです。幸いに、日本国民の8割近いひとたちがワクチン接種を無事に終えて、新型コロナウイルスを乗り越える道筋も見えてきましたが、一時期は本当に危ない場面もありました。
日本のワクチン接種がうまくゆくか、つまり日本という国がコロナ禍を乗り超えて、再び立ち上がれるかどうかの瀬戸際だった昨年夏ごろ、私は毎週日曜日に、一法庵で行う法話のなかで、数回にわたって「反ワクチン運動」を取り上げました。ワクチン専門家でもない私がこの問題に何回も言及したのは、そこに「もう1つの世界のなかのもう1人の私」がいないことからの悲劇だとすぐに分かったからです。「あ、それなら私がよく知っている問題だ」と。
■ヨーガの世界で起きている事
その私の法話をポッドキャストで聴かれたヨーガの関係者が連絡をとってきました。『YOGAYOMU』というヨーガのフリーペーパーの編集部の方でした。予想もつかないところからの連絡だったので、その事情を聞いてみると、読者たち、即ちヨーガの関係者たちのあいだで、ワクチン接種に対する複雑な感情があるからだと。「ああ、やっぱりな」というのが、私の率直な感想でした。何がやっぱりかというと、私が観察していたことと一致したからです。瞑想、坐禅、ヨーガなどのスピリチュアル界の指導者たちが、皆さんワクチン接種に対して「沈黙」を守っているのは、この「複雑な感情」のためでした。自分のワクチンに対する態度を曖昧にすることで、周囲の人たちへの不必要な刺激を避けるため。とてもよくわかる。
YOGAYOMU編集部による私へのインタビューは、昨年12月に発行されたvol.70に掲載されています。その号のテーマが「スピリチュアルはサイエンスを否定する?」でした。もうそのものずばりの題でした。ヨーガ業界のど真ん中にいらっしゃる編集部のひとたちが、周りを見渡して発見した、ヨーガ関係者に見られるワクチン、それはつまりサイエンス(科学)そのものに対する複雑な思い。その謎を探るのが編集意図でした。普段は見えなかったものが、コロナ禍という誰もがぎりぎりで生きてるなかで、ワクチンという科学の象徴に対する複雑な思いとなって現れている。『YOGAYOMU vol.70 「スピリチュアルはサイエンスを否定する?」』(発行:株式会社TYG)全国のヨーガ教室などで配布されているフリーペーパー。
もし、いままでの自分しかいない世界で、この自分がヨーガや瞑想などスピリチュアルなものを追求すると、科学との正面衝突は避けられない。その時、反射的に向かうのが科学の反対の位置にある「自然」です。それは自然科学の自然でもなければ、山のなかで農業をしながら必死に生きてる人たちが格闘しているリアルな自然でもない。非常に不思議な「自然」。
その「自然」は、自然科学者や、農業者ではなく、実やマーケティングの世界の人達が一番知っている「自然」です。自然食品、自然派化粧品などなど。あいまいだからこそ、簡単に使えて人々を惹きつけられる謎のパワーワード。
■「もう1つの世界」の不在が生んだ、不思議な「自然」
この不思議な「自然」は、スピリチュアルなひとたちにはお馴染みでしょう。でもそれはいったいどこからきたのか? もし、いままでの自分が、いままでの世界で、何か聖なるものを求めようとすると、この不思議な「自然」に必然的にたどり着く。そして、それはサイエンス(科学)と非常に相性が悪い。現代科学の結晶である、mRNAワクチンに対しても。「私は自分の『自然免疫』を信頼するから、ワクチンはいらない」。この不思議な発言が、まともなお医者さんたちには、理解不能だったのが、SNS上のお医者たちの困惑からも明らかでした。何故なら、その発言は医学を含む科学を全否定した世界観からくるから。
もう1つの部屋にいるもう1つの私が見えてきたら、只管打坐とマインドフルネスの間の矛盾も簡単に解ける。そして「自然」という謎の言葉の正確な出所も理解できる。その時、科学と正面衝突しない場所で、瞑想やヨーガをすることが出来ます。きちんとmRNAワクチンを接種したうえで。
「もう1つの私」を20年前に取り上げて世界に衝撃を与えた『マトリックス』が20年ぶりに帰ってきました。『マトリックス・レザレクションズ』です。私には『光の中のマインドフルネス』のプロローグでも取り上げた因縁のある映画です。次回はこの映画を通して「もう1人の私」問題を掘り下げましょう。その後、再び、ミャンマーのパオ森林僧院のなかで、もう1人の私を発見しつつある20年前の私に戻ります。
(つづく)
第2話
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「シーズン4 第1話 仏教3.0の人間ドラマ」