アチャン・ニャーナラトー


イギリスにあるテーラワーダ仏教僧院のアマラーワティー僧院に長年止住する日本人比丘のアチャン・ニャーナラトー師の法話会でされた法話から、参加者の質問に答えたお話を、採録いたします。掲載する質問は、実際に読み上げられたテキストをもとに、質問の内容を変えず、個人が特定されるような詳細は割愛するなど変更を加えています。

第2回    人生の選択を考えるときの4つのこと

【問い】
「重い持病があり、コロナ感染が広がるなか退職せざるを得ません」

    私が住む地域でも新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。私は呼吸器に重い病を持ちながら職場に勤めています。私の病状では、「コロナウイルスに感染すれば致命的」と医師に言われている以上、感染予防のために離職することは生き延びるためにはやむを得ないことですし、離職後はひとり家にこもり、リトリートに近い暮らしが始まることも、良いことだと思っています。
    しかし、長年勤めた会社を辞めること、収入がなくなることに対して、不安がわいてきます。退職すべきタイミングの判断も、大変難しく、納得できる答えを出せる自信もありません。でも、この数カ月のうちに、判断を下さないといけないときが来そうです。
    自分にとって納得のいく最良の判断をするためには、どのような心がけが必要でしょうか。


【回答】
■三つの側面


    僕自身も判断や決断がなかなかすぐにできなくて、先送りしてしまう傾向があるので、この方の気持ちはわかるように思います。スパッとは答えられないかもしれませんが、気づいたことことをいくつかお話します。

    ここでは「捉え方」、それから「変化」、そして「行動」という三つの側面で話してみようと思います。

●捉え方
    まず、この方の場合、呼吸器に重い病を持って生きてこられていて、今の状況下では仕事をすることが厳しくなってきたというお話です。
「いつ、離職するか?」という問いですが、この方の年齢はわかりませんが、退職されるということは、平たく言うと「老後」という話になるでしょうか。次のフェーズをどのように生きていくかというのは、遅かれ早かれみんなが直面する問題だと捉えることができると思います。
    今日の法話会に参加されている方には、まだまだ先の話だという方もいらっしゃると思いますが、ある程度の年齢に達してくると、生老病死の「老」「病」の話を考えざるを得ません。「病」のあるか無いかは個人の差がありますが、「老」は遅かれ早かれ誰にでもやってきます。

    僕は奈良の生家にいる時は、最寄りのバス停まで2キロ歩いて、そこからバスに乗ります。通勤時間帯に乗ることはあまりなくて、昼間に乗ることが多いですが、その時間帯にはやはり退職された世代の皆さんが乗っておられます。
    そのなかには元気な方もいらっしゃいますが、腰が曲がって杖を持っている方、さらには乗り降りするのも大変そうな方もかなりいます。その方々も10年前、20年前は現役で普通に生活されていたわけです。もちろん生老病死は避けられない話ですが、あらためて目の前にして見ると、僕にとっても他人事ではないと思い知らされます。

    バスに乗車していたご老人方のように、老いるということにも段階があると思います。だんだん弱っていき、今までできていたことができなくなる時が、遅かれ早かれやってくる。そんななかでどう生きていくのかというのは、やはり意識的に考える、あるいは計画する事柄だと思います。

    話が広がってしまいましたが、この方の場合は病を通じて「退職」という問題が今、表面に出ています。でも、遅かれ早かれ、他の人にも同じようなことが起こってきます。ですから、個人的な問題とか困難という捉え方だけでなくて、誰にも起こることが今の自分にも起こっていてそれに取り組む機会である、というふうに捉えてみる。そうすると、ちょっとニュアンスが変わると思います。
    まずは「私は病気だから、こんな困難があって」というのは事実ですが、「これは誰にとっても遅かれ早かれ取り組まなくてはいけない問題であって、自分には他の人より少し早くきたのだ」という捉え方をしてみる。

●変化
    2つ目、変化ということを言いました。
    この方はこのように書いていらっしゃる。「私の病状では、コロナウイルスに感染すれば致命的と医師に言われている以上、感染予防のために離職することは生き延びるためにはやむを得ないことですし、離職後はひとり家にこもり、リトリートに近い暮らしが始まることも、良いことだと思っています。」
    お書きになっている通りだとすると、すでに答えの方向は持っておられる。ただ、それは、変化ですよね。会社を辞めるとか、一人で生きる、家にこもる、会社に行かなくなる、収入が無くなる――それらは変化が伴う決断、思いですよね。その変化に対して我々は、個人差はありますが、普通そこに抵抗といいますか、違和感、迷いが生じてきます。だから、変化とどうつき合うのか。
    今、何が起こっているのか。方向はあるけど変化ということに馴染めない、馴染みたくない、そういった心があると思うんです。だから、変化にどう付き合うのかということがポイントかと。

    きわめて一般的な、当たり前のことかもしれませんが、徐々に慣らしていくことではないでしょうか。この方は何年も仕事をされていて、今までは会社に行くという決まった生活パターンがあったと思います。仕事を辞めるということは一大変化です。やはり大変なことだと思います。ですから、それに対して心や、あるいはものの考え方が慣れていく期間が必要だろうなと思います。
    この方は「この数ヶ月のうちに判断を下さないといけない」と書かれています。その間には、こういう問題があるという変化もわかっている。方向性も自分なりに持っておられる。ほとんど納得もされているかもしれませんが、その変化に対して心がまだ準備できていないのかもしれません。
    それに慣らしていく、慣らしていく、慣らしていく……。
    ゆっくり、ペースダウンしながら、これからの生き方の具体的な設計のようなことにも少し触れたりしながら、感じ方、考え方を慣らしていく。今はそのプロセスなのかなと思いました。

●行動
    そして3つ目が行動と言いました。今の話とほとんど重なりますが、実際に自分が辞めたらどうなるのだろうか、収入が無くなるとどうなるのだろうか――、それは先ほども言いましたが、遅かれ早かれ誰にでも起こる問題です。
    それは怖い変化です。怖いですが、その時に自分はどうやって生きていくのかということを具体的に少しずつ考えていく、整理していく、必要があれば人に相談する。先輩のケースや同僚のケースを聞く。そういった色々な行動をしながら試し運転をしていくことで、辞めることに対して慣らしていきます。

    そうすることで、結論みたいなことがもう少し自然に出て来る可能性もあるでしょう。
「決めなくてはいけないから、こうだ!」と迷いなく変化を受け入れられる時もあるかもしれませんが、この方の場合は、今は心が少しビックリしている状態かもしれませんので、少しずつ慣らしていく。ただ、だまって慣らしていくだけではなくて、実際に作業や行動をすることで、そちらの方向へ動き出していくことも大切ではないでしょうか。


■そしてもうひとつ

    もうひとつ付け足して言わせていただくと、自分で判断して、それに基づいて行動したとします。その時に、私たちに多くの場合起こることが「後悔」ということなんですね。ちょっと上手くいかなくなったり、思うようにいかなかったりすると、「なぜ、私はあの時にあんな……」ということになるかもしれません。
    でも僕は、いつも気を付けるようにしているのは、心というのは後悔するようにできているということです。裏返していうと、その時はたぶんベストな判断をしているはずなんですよね。その時に考えられる範囲で「まあ、ハッキリしない部分もあるけど、この位かな」と判断していたと思います。もし、それがベストでなかったら、その選択はしていないはずですよね。
    でも、それなりのベストな選択をしていても、その後に思うようにいかないと「なんで、やっぱりあの時……」となってしまうパターンって、結構あるように思います。上手くいかないと何か原因を見つけようとして「あの人のせいだ」と外に苦しみのはけ口を作ることをするかもしれません。
    このように、自分の決断が間違っていたと後悔する、それが心のパターンとして結構あります。

    それに対して、僕はいつも言っているんですが、何か判断した時には、ちょっと書きとめておくといいと思っています
「疑い」という心の側面がここで関わっています。仏教では、「五蓋」ニーワラナ(nīvaraṇa)の名前で、心にかぶさるもの、さえぎるもの、として五つの側面が説かれています。その一つとして、「疑い」ウィチキッチャー(vicikicchā)があるのですが、我々が何かものごとをしようとする時、疑いの心が邪魔するということがよくあります。(注:五蓋には、この他、感覚的な欲望、怒り、そわそわする心・落ち着かない心、眠気・だるさがあります。)
    後悔の思いもこの「疑い」という心の作用とつながっているように思えます。僕が、それに対するひとつの対処法として行っているのは、何か難しいことや引っかかるような事柄でものを決めた時には、ちょっとした記録のようなものを残しておくということです。特に詳しい内容でなくても、「自分はこう判断して、こういう行動をするのだ」という要点や流れのようなものを書いておくわけです。
    そうすると、例えば何年か先に後悔することがあっても、その記録を読み返すことによって「そうか、この時はこうしかならなかったな」となる。このように工夫をすることで、後悔したがる癖のある心に対して、上手に賢く付き合えるようになればと思います。

    まとめとして繰り返しますと──
    まず、捉え方。「老い」というものは皆に来る。この設計は遅かれ早かれ誰もがしなければならないこと。それが、今そういう時期が来ているんだという捉え方。
    次に、変化。それに対して、方向はわかっているけど変化に対して抵抗がある、怖い、不安だ。だから少しずつ変化に慣らしていく。
    3つ目に、その中で行動をしていく。つまり考えたり相談したりしながら、これからどうなるかという計画を立てる。
    そして最後に、後悔とか疑いという心の動きが、後から我々を苦しめることも少なくないので、今とにかくベストの判断をしているということを書き残しておくことで、自らを賢く守るということも加えました。
    初めにお話ししたように、僕自身は、こうした、決断を下すというのはあまり得意ではないのですが、そこのところにも上手に付き合いながら、視点をゆったりと、できれば明晰に保って、穏やかに進んでいかれることを願っています。

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協力:アチャン・ニャーナラトー師「法話と瞑想の会」スタッフ
(第2回テキスト制作協力:大森せい子、森竹ひろこ)