【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「座る瞑想で目を閉じる理由」です。
[Q]
座る瞑想の時に目を閉じる理由は何でしょうか?
[A]
■私たちが見ているもの
目を閉じれば、身体の感覚に集中することができます。目を開けておくと目を使ってしまいます。脳の中でも視覚野は結構発達しています。ですから、目を開けておくとその部分がかなり激しく活動してしまう。そうすると、脳の他の部分を開発することができなくなります。坐って瞑想する場合は、目を閉じた方がやりやすいのです。目を開けたら死ぬわけではありません。目を開けていると、どうしても光というデータが目に触れてしまうのです。それを脳の視覚野が処理する。それを気にせずにお腹の膨らみ・縮みの感覚に集中していると、目に触れた情報から視覚という画像を作ることができなくなってしまい、それから自分勝手な画像を作ってしまうことになります。存在しない幻覚を見るのです。それで修行者は自分の視覚に騙されて、瞑想が成功した、心が成長したと可哀想に病気になってしまう可能性もあります。見えているものは、目に触れた情報から脳が作り出している。ですから、目を開けているとトラブルが多いのです。
■目を閉じ、視覚の働きを止める
できれば視覚野の機能自体をストップさせた方がいいのです。実践として「目を閉じます、閉じます、閉じます」と実況中継しながら真っ暗な状態を作った方が、身体の感覚に集中できるのです。目を関係なくする。そうすると、本当の膨らみ・縮みという感覚を捉えることができます。現代人は視覚野が発達しているのですから、その部分を使って何か見たいのです。何かの現象を経験したいのです。大概の超常現象というのは視覚についてのものです。神が見えた、マリア様が見えた、阿弥陀様が見えた、観音様が見えたというのは、全部視覚について言っていることです。私はそれらを病気と言います。
■見ているものは一緒ではない
元々、視覚野というのは幻想・幻覚を作る働きなのです。見えるものは、各肉体に合わせて画像を作っています。例えば私におにぎりというデータが目に触れると、私の頭の中でおにぎりという画像が現れ、見えた・見たと認識する。それから「食べ物」「おいしいもの」という概念が次から次に生まれてくる。同じおにぎりを猫が見ても「美味しそう」「食べたい」という気持ちは生まれてこないのです。猫にどんな画像が現れて見ているのかということは、私たちにはわからないのです。
■見たものと自己イメージの違いに気づく
生肉の塊を見たら、人間は「美味しそう」と思うのですが、本当はそうは思わないのです。皆さん観察していないでしょう。生肉の塊を取って、がぶりと食いつかないでしょう。スーパーで生肉の塊を売っている。それを見て美味しそうと思ったなら、それは頭の中で切ったり・焼いたりして作った何かしらの料理のイメージに対して美味しそうと思っているだけです。そんなものです。
こういう話をすると、「では歩く瞑想の時も目をつむってやるぞ」と明後日の方向に頑張る方も出てくるのですが、歩く時はきちんと目を開けてください。目に障害を持つ人以外、人間が歩く時には目を使うように出来ているのです。ヴィパッサナー瞑想はわざわざおかしなことをする宗教的な瞑想ではありません。歩く瞑想をする時はきちんと目を開けて自己観察する。坐る瞑想の場合には、しっかり目を閉じて自己観察する。そのように頑張ってみてください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編3』