藤田一照(曹洞宗僧侶)
足下に見出される涅槃寂静
今、私は、8月末に精進湖で行われる毎夏恒例の坐禅合宿で講読することになっている『スッタニパータ』第四章「八つの詩句の章(アッタカヴァッガ)」を、講義のためのメモを取りながら、少しずつ読んでいます。
仏典の中でも最古層に属すると言われているこの『アッタカヴァッガ』に注目したのはずいぶん昔のことになります。1987年にアメリカに住み始めてから、日本ではほとんど触れることがなかったテーラワーダ仏教やチベット仏教の教義や実践に接したせいで、今更のようではありましたが、そのように多様に枝分かれする前の仏教の原点にある釈尊その人のことを知りたくなったのです。今われわれが目にしている「仏教」の形態が形成される以前の「始原の仏法」の姿というものを探りたいと思ったのでした。それでまず、いろいろな仏伝を読んだりしてみましたが、やはり釈尊を知るためには歴史的にいって最古とされている仏教文献をひもとく他はないと思い、『スッタニパータ』に行きつき、その中でも特に古いと言われる『アッタカヴァッガ』に出会ったのです。
そこに書かれていたことは、私にとってはまさに青天の霹靂でした。難解な仏教用語や複雑な仏教教義がまったく登場せず、私が抱いていた「仏教」のイメージがガラッとくつがえされるようなショックを受けました。十二因縁とか八正道、四聖諦など後世の仏教徒によって記し伝えられたような、図式的・形式的・体系的・学問的・概念的・抽象的・観念的な説法がそこには一つもないのです。あるのは事実に即した具体的で直截な語りでした。
『アッタカヴァッガ』の中の「マーガンディヤの経」で、釈尊は次のように語っています。