伊藤義徳(琉球大学教授)


マインドフルネスが社会に浸透し様々な場面で活用、応用されていく中で、「コンパッション」が、マインドフルネスと対になる両輪のように語られている。マインドフルネスをめぐる世界の状況を参照しつつ日本におけるマインドフルネスの現状を概観、問題点を整理し、「マインドフルネスとコンパッション」を意味と価値を問い直すご寄稿を琉球大学教授の伊藤義徳氏にいただいた。

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■認知療法の初期マニュアルにある、マインドフルネスの正しい理解

「マインドフルネスの正しい理解の普及が必要」と言いましたが、それは今から何か新しく発見していくことではなく、その正しい理解についてはマインドフルネスの創始者達はずっとその警鐘を鳴らしてきていたように思います。実際、MBCT(マインドフルネス認知療法)の初版のテキストの中でも以下のようなことが述べられていました。
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    これは初版に書かれていることそのものではなくて、僕なりの解釈を含めた説明になりますが、マインドフルネス、とくにMBCTの効果の核は「脱中心化」。自分自身の思考や感情を事実ではなく、心の中を過ぎゆく出来事にすぎない、そんなふうに認識することです。「あんなこと言うなんてひどい!」と考えて怒っている。これは自分が主人公の視点ですけれども、そんな自分をちょっと引いてみて「あ、『あんなことを言うなんてひどい!』と考えてまた私、怒ってるわ」、そんなふうにちょっと自分の心に対するお客さん目線のような視点、つまり自分の感情や認知の働きに対する客観的な視点が持てると、感情や認知に踊らされなくなるということですね。でも、これ「言うは易し、行うは難し」ですよね。これを本当に自分の視点として体得するには、やはり訓練が必要だということです。
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    脱中心化が大事だという他に、「それだけではない」ということが、初版のマニュアルにすでに書かれていました。その部分は、僕はよく「北風と太陽」のイソップ童話をメタファーに話をします。皆さんもよくご存じだと思います。旅人のマントを脱がすために北風さんと太陽さんが勝負をした。北風さんがどんなに強く吹き付けても旅人は寒くなればなるほど強くマントを握って離さない。でも太陽さんが暖かく照らしてあげたら、「なんて心地よい気候なんだ」と自ら気持ちよくマントを脱いだ。太陽さんが勝ったという話です。北風と太陽は「旅人に対して客観的に関わる」というところでは一緒ですが、二人の関わり方が違いますよね。
    もし皆さんが何か失敗をしたとき、自分自身に対して北風と太陽、どちらのスタンスで関わることが多いでしょうか、ということなんです。我々は多くの場合、やっぱりどうしても自分に対して北風を強く吹かせてしまうことがあるんじゃないかと思います。自己批判傾向ですね。誰でも自分自身を評価し、問題点を見つけ、理想に近づくべく努力しようとするクセがあると思うのですが、過度な自己批判傾向は様々な精神疾患の原因になるということが近年、わかっています。ですので、「客観視して問題点を見つけて、クールに対応すればいい」ではなくて、自分を大切に扱う態度を養いながら、そこにうまく活用していかなければ気づきは意味がないんだということです。自分のどんな側面にも気づき、「そのままで OK」と言ってあげられる、あたたかな客観視。これこそがMBCTで目指すことなんだと、初版のマニュアルに書いてあります。これこそがセルフ・コンパッションだと思います。

■コンパッションや慈悲の定義
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    MBCTの後継者たちは、MBCTの効果維持メカニズムに、マインドフルネスの要素と同じか、むしろそれ以上にセルフ・コンパッションの効果が大きいということを実証してきています。
    コンパッションというのは思いやり・憐れみ・深い同情・慈しみなどと訳されますが、一番よく使われるのは「慈悲」です。ポール・ギルバートは苦しみの感受性、そしてそれを減らしたいという動機、これがコンパッションの核だと言いました。クリスティン・ネフは「やさしい気持ち」、そして「コモンヒューマニティー」、「人間皆同じという感覚」、それから「バランスのよい自分自身に対する注意」、こういった観点からコンパッションを定義して、これを自分に向けることをセルフ・コンパッションと言いました。仏教の文脈でいうと「慈悲」とよく日本語で言いますが、とくに人の苦痛が減ることを願う「悲」のほうが本来のコンパッションであるかと思います。仏教において、とくに大乗仏教において、「慈悲は仏道の根本なり」と言われたりもします。

■コンパッションを育てる多数の心理的アプローチ
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    今、コンパッションを育てる心理的アプローチも多数かつ急速に開発が進んでいまして、富田拓郎先生がご紹介くださいますマインドフルセルフ・コンパッションプログラムがあります。コンパッションを自分自身に向けるという意味で、コンパッション・フォーセルフ(for self)、と呼ぶこともありますが、このフォーセルフに主に特化したプログラムです。
   
■最初、難しいと感じたコンパッション
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    僕自身は「コンパッション」には2008年ごろ、ポール・ギルバートのワークショップに参加して初めて出会いました。写真は当時、僕が盗み撮りしたポール・ギルバートです。本当に何も知識のないところで半日研修に参加したんですが、とにかく早口でパワフルで、僕も英語力がないのでひじょうに理解が大変でした。その中でも、アルトゥルーイズム(利他主義:altruism)とか普段耳慣れない進化論の話が出てきたりして、それでも歴とした CBT(認知行動療法)なんだ、というのを聞き、「なんか難しいなあ」という印象だけは持ちました。そして、「自分自身にまずしっかりコンパッションしていこう」という話があって、それを聞いた正直な感想としては、「気持ち悪い」という感じでした。また、「これはちょっと自分には無理だな」とも思った記憶があります。皆さんはいかがでしょうか。

■自己批判傾向が高いと、セルフ・コンパッションが難しい
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「コンパッションは、ちょっと難しいな」というような気持ちを持つ人は僕だけではないというのがその後、研究でわかってきます。「コンパッションへの恐れ(Fear of Compassion)」という概念があるのですが、これはコンパッションを感じたり、人に示すことに対する恐怖、不安や抵抗感のことです。
    コンパッションを他者に向けること(=for Other)。他者から向けられること(=from Other)。 そして自分自身に向けるセルフ・コンパッション(=for Self)。このうちとくに自分がそのコンパッションの対象になる、from Otherとfor Selfに対するfear(恐怖)の高さは幸福感の低さ、アレキシサイミア(失感情症)、自己批判など、様々なネガティブ因子と関連することがわかっていますし、これが高いと心理療法が効果を発揮されにくいのだといいます。
    やはり自己批判傾向の高さがバリアになってしまって、コンパッションを受け入れられなくなってしまうのかなと思います。そういうところで言いますと、僕自身、小中高と両親の仲が悪く、それを目の当たりにして育ちましたし、小学校5~6年生ごろにはけっこう教科書に出てくるようないじめを受けたりもしていました。クラスの男子全員があるとき急に無視し始めて物隠し、落書き、靴に画鋲とか一通りやられました。そういう経験が本当に自尊心というか、自分の価値というのを大きく転換させたなあと、今でも感じるところです。そういう中で自己批判傾向というのを僕自身も育ててきたから、「コンパッション」という話を聞いたときに「無理」という感じが強く出てきたのかなと思います。

■他人から与えられた価値観を脱するための努力を決意
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    私が自分のモヤモヤを解消するきっかけになったのは、地橋秀雄先生のグリーンヒル瞑想研究所のサイレントリトリートへの参加だったと思います。基本的に三日間をサイレントで、黙ってずっと瞑想をして過ごします。そして夕方にすこしだけ先生と各人が個別に話をする時間があり、その中でコンパッションについての疑念を話したところ、「慈悲というのは好き嫌いとか、やりたい・やりたくないではなくて、もう覚悟を決めてどんとやるんだ」という、今までの慈悲のイメージと全然違うこと言われたのです。「そうか、できるかできないかじゃなくて、やるかやらないかなんだ」と思いました。
    その後、いろいろと考えていく中で自己批判傾向、自尊心の低さというのは遺伝や養育環境、先ほどのいじめのような人生経験により規定されてくる。そして「セルフ・コンパッションを恐れるということは他人から与えられた価値観に縛られていることなんだな」と思いました。人間みんな変わりたい、幸せになりたいと思うものですが、それを本当に願うのなら、その縛られている価値観自体から解放される努力を自分自身ですべきなのかな、というふうに思いました。本当に自分を幸せにできるのは、その殻を捨てようという自分のアクションなんだと思い、少しそういう決意を持とうと思った覚えがあります。

■四無量心が、悟った後も重要である理由
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    また、地橋先生に教わったこととして、「慈悲を含めた慈悲喜捨の四無量心は、悟った後までもつねに育むべき重要な心的態度だとお釈迦様が言っていた」ということがあります。私は、それがなぜかを伺いました。その理由の根底には、これまでの経験の蓄積が現在に衝動を起こして未来に続く行動に影響するという流れがあるのだということです。
    仏教の考え方では、過去をカルマ(業)、現在に起こる衝動をサンカーラ(行)といい、サンカーラがその後の思考・感情・行動に影響を与えていくという流れがあります。ヴィパッサナー瞑想はこのサンカーラの影響がバッと出てきた、サンカーラが動き出したということに気づいて、その先を断つ練習だと地橋先生はおっしゃっていました。カルマというのは現在の心理学で言うところのスキーマのようなもので、良い意味でも悪い意味でも我々の行動規範というか、行動のベースになっているわけですね。では、サンカーラを断ったら何に基づいて未来の行動をしていけばいいのか。そのときに新たな行動規範として慈悲喜捨を涵養(かんよう)すべきなんだ、というご説明でした。だからこそ気づきによるサンカーラの断絶、そして慈悲の涵養が両輪として機能していくということですね。ひじょうに腑に落ちました。

■相補的で不可欠なマインドフルネスとコンパッション
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    これまでの話をまとめますと、まず前提として、コンパッションは幸せを増やす、ハッピーになることよりも、苦しみを減らす、減らしたいという願いに基づくものであります。マインドフルネスも滅苦のための手段ですので、本来目的は一緒ですね。マインドフルネスを正しく理解するために、このセルフ・コンパッションというのは不可欠な要素だと思いますし、人として成長していく上でマインドフルネスと相補的に機能する重要な価値観、人間としての態度であるということです。ただ僕は、経験からそれを涵養するというのは本当に覚悟というか難しさが必要だと思っていますので、簡単なことではありませんが、そちらに向かって行きたいなと思っています。
    そして、このコンパッションを正しく理解し実践することが、昨今のマインドフルネス批判に対する一つの答えになるのではないかなと考えております。

    最後に宣伝ですが、さらにマインドフルネスを深く皆さんにご理解いただけるように、「心理学評論」という雑誌でも特集号の編集を担当させていただいています。
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    ご清聴ありがとうございました。

(了)


構成:川松佳緒里
「マインドフルネスとコンパッション」2021 年12 月26 日(日本マインドフルネス学会第8回大会)より。



伊藤義徳「私の思うマインドフルネスとコンパッション」[1]