アルボムッレ・スマナサーラ


「日日是好日」という言葉をテーマにした「バッデーカラッタ・ガーター(Bhaddekaratta gāthā)」について詳しく解説した経典が、中部経典に4編収録されています。「日日是好日」偈の真髄を理解できるよう、スマナサーラ長老にこれらの解説を多面的に読み解いていただきます。


第6回    「日日是好日」偈    お釈迦様の解説    ③今に執着するなかれ‐2


■現在の悩みは、自我から

    過去のことで悩んだり、将来のことで悩んだりすることは、すでに説明しました。では、現在に関してはどうなのか、というお話の続きです。現に我々は、現在も悩んでいるでしょう?    会社に行っては悩む、買い物に行ったときも悩む、友達としゃべっているときも悩む、会社のカンファレンスに参加しては悩む。すべて自我です。現在についての悩みは自我という錯覚から生まれるのです。たとえば「もう寒くて寒くて、その上、暖房も故障したんだ」という状態になったら厳しいでしょう。寒いです。しかし、別にそれは悩みにはなりません。なんとかできるからです。ぐちゃぐちゃした悩みというのは自我が割り込んでくるから生じるのです。
    先日、私は料理で大失敗しました。スリランカではポピュラーな簡単料理、レンズ豆をちょっと茹でて食べようかと思ったのです。しかし、それだけでは栄養やミネラル分が足りないので、スリランカでやはりよく使う葉っぱの粉を実験的に入れてみました。豆料理も葉っぱの粉も、普通はおいしく食べられるものですが、私は抜群に腕がいいから、料理ができあがってみたら、まずくて喉を通りません。冗談抜きに食べられないのです。しかし、食べ物は他に何もありません。そこで自我を出してみたのです。「余計なことをしないで、豆をシンプルに茹でて、そこで終わりにすればおいしく食べられたのに、なんてアホか」と。そう考えると苦しみが出てきます。そこで、自我は措いておくことにして、「まあ、いつだってこんなものだ。これだって行為による結果だ。次に作る場合は、これとこれに気をつければいいだろう」と考え直しました。そうすると気持ちがいいのです。
    問題は、何か食べなくてはいけないけれど、作ったものがまずくて食べられないということでした。でも、そこで「何か食べなくてはいけないのだから、とにかく歯で噛んで無理やり飲み込めばいいのではないか」「どうせおなかに行ったら味がわかりませんから」と考え、作ったのは一食分ですけど、半分だけ何とか胃に放り込みました。そこは私の実験でした。自我を入れると、ひどく悩みが出てくる。自我がなくて、「いつだってアホだから」という感じにしておけば、何のことはなくなってしまうのだ、と。