インタビュー  木村衞(映画監督)

伝説の禅僧といわれ、一処不住で遊行し、修行に一生をささげた修行僧がいます。村上光照老師。『サンガジャパン』などの仏教雑誌での記事や、NHKの『こころの時代』に数度にわたり出演した以外ほとんどメディアには出ず、伊豆・松崎にある庵「安樂庵」を拠点に、全国、世界をめぐっていた。京都大学大学院で湯川秀樹博士のもとで理論物理学の研究をする研究者から、名僧・澤木興道老師に出会い研究者の道を捨て仏道修行の道を歩んだ。その華々しい青年時代の経歴と、その後の地下に潜るような修行者として歩み。なかなかその全体像をつかめないことから「伝説」と呼ばれたのだろうか。その村上光照老師は今年2023年1月22日、自身の誕生日の翌日に「安樂庵」で86年の生涯を閉じ遷化された。今回は、老師の遺徳を偲び、ゆかりの方たちに老師のエピソードをつづっていただきました。
第4回は、村上老師の最後の7年間を、ヤクザの親分・川口和秀氏との交流を軸に描いたドキュメンタリー映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』を監督した木村衞氏のインタビューです。老師の最後の日々に密着した映画監督は何を見て、何を思ったのか。前後編2回に分けてお届けします。


前編「村上さんはね、昔は神様だったけど、今は人間界にいるんだよ」


■老師と師匠

──そもそも木村監督は、知る人ぞ知る伝説の禅僧と言われる村上光照老師の存在を、どうして知ったのですか?

    僕の師匠である石井秀明さんがきっかけを作ってくれました。石井さんは日本で初めてのサーフィン雑誌『サーフィンワールド』(1976年創刊、オーシャンライフ)を発行したり、日本初のサーフィン映画を作られた方です。僕はずっと映像の仕事とサーフィンをしてきましたが、石井さんはサーフィンの師匠であり、仕事の師匠でもあります。
    僕は映像の仕事はテレビコマーシャルの世界から入りましたが、30歳になる少し前に仕事を全部辞めて八丈島に移住した時期があります。その頃、師匠も八丈島に住んでおられて、それがご縁で知り合い、映像を編集する仕事を手伝うようになりました。
   そのうち一緒にインドネシアに映像を撮りに行ったり、サーフィン雑誌を手伝ったりするようになり、またドキュメンタリーの世界も全部その人から伝授されたました。サーフィンやヨーガなど教わったことが多く、そういう意味で人生の師匠のような方です。
    師匠はサーフィンの世界と禅の世界を、自分の中で突き詰めてきました。仏教や坐禅のことを相当勉強されていましたが、その禅の師匠がもう亡くなりましたが澤木興道老師のお弟子さんでした。つまり村上老師の兄弟弟子だったわけです。ですから僕の師匠は村上老師のことをご存知だったようです。
    それで、ある方が村上老師と石井師匠の「禅とサーフィン」をテーマにした対談を企画されて、僕が撮影でそこに加わりました。その時、初めて村上老師とお会いしました。ですから僕は師匠経由で村上老師とも出会えたので、師匠はもういるわけですから、村上老師は祖師という存在になりますかね。    

_TAR1585.jpg 288.4 KB
村上光照老師と石井秀明氏。2016年の対談時(撮影:植田俊司)
──木村監督の師匠と村上老師が対談をされていたのですね。

    はい。実は石井師匠は女装家なんですよ。もともとは隠れてやっていましたが、還暦のときにカミングアウトして、それ以降はどこへ行くにも女性の格好をしていました。そうすると、普通の人は女装姿で来られるとギョッとするんですよ。でも、全く老師は無反応でした。普通に受け止めていて、面白かったですね。

──初めて村上老師に会ったときに、普通の人とは違うという印象を持たれた。

    はい、それまでに出会ったことのない方でした。言葉でうまく表現できませんが、一番近い言葉ですと「懐かしい」感じがしました。もう一つ、「かわいらしいな」と思いましたね。
    花の微速度撮影がありますよね。あの花がバーッと開いていくような動きで、老師の顔が笑顔になっていく。笑顔というか、何とも言えない愛嬌のあるほほえみ。あのような不思議な表情に出会ったのは、初めてでした。男でもない、女でもない、子どもでもない、赤ちゃんでもない、おじいちゃんでもない、本当に不思議な存在だと思いました。


■何もかもあるがまま、全く何も企てずに撮る

──『DAIJOBU―ダイジョウブー』は禅僧である村上光照老師とヤクザの親分である川口和秀氏を主人公にしたドキュメンタリー映画です。どのような経緯で制作にいたったのでしょうか。

    僕の前作の『Aloha Death アロハ・デス』(2015年)という、サーフィン界のレジェンドたちにインタビューしたドキュメンタリー映画を見た出版関係の人が、こういう人たちがいるけど映画を撮らないかという話を持ってこられたことが、一応のきっかけです。村上老師や、当時はヤクザの親分だった川口和秀さんの他にも、何人かの人を紹介されました。その人たちの本を出す予定だったようです。

──村上老師や川口氏以外にも、撮影をしていた人がいたのですか。

    そうです。他の何人かの方にもお会いして1年ぐらいは通って撮影をしていましたが、不思議と老師との関係、それから川口さんとの関係が濃くなって、そこに僕の意識も向いていきました。
    ドキュメンタリーを撮るにあたり、「何もかもあるがまま、全く何も企てずに撮る」というのが師匠の教えでもあるので、この作品も物事を起こるがままに任せるということをベースに撮影していました。そうすると自然とこのお二人に気持ちが向くようになり、完成まで7年もかかってしまったのかもしれません。

m14.jpg 296.32 KB
インタビューは木村監督の勤める、慈恵院府中本山の本堂で行われた

■サーフィンと禅マスター

──監督の師匠はサーフィンとともに禅を追求されていたそうですが、監督ご自身も禅に関心がありましたか?

    禅に対する関心は、すでに『Aloha Deathアロハ・デス』』を撮影しているころからありましたね。僕はサーフィンを始めた18、19歳の頃からずっと、海から恩恵を得ていました。自己解放してハッピーになる、そういう場として海と接し、波に乗っていました。もちろん怖い目にもあいましたけど、基本的には海は喜びをくれる場所でした。
    それが2011年の東日本大震災で、海が巨大な津波になって何万人もの人の命を呑み込んだ。それまで体験したことのないような強烈なインパクトを受けて、どうしても自分の中で受け止めきれませんでした。
    『Aloha Deathアロハ・デス』』は、そのような葛藤を持ちながら撮った作品です。近代サーフィンの歴史が70年ほどなので、その頃はサーフィンの世界の祖師のような方々が、まだ生きておられました。作品ではその方たちの自然との関わり方とか、死生観をお聞きしましたが、それはイコール自分の中のいわゆる探究心です。自分への答えを見つける旅でもあったわけです。
    大きな波に乗る人たちは、本当に命がけなんですよ。僕もサーフィンをやっていますが、この部屋の天井ぐらいの波でさえ命がけです。ですから、その10倍ぐらいの波に乗る人たちは、例えば海底を石持って歩いたりといった、ものすごいトレーニングをしていて、その一環で座禅を組む人もいました。ですから、いわゆる禅的な精神をベーシックに持ってる人が結構いたんですよ。
    映画に出演されたアメリカ・ハワイの人でサーフィンの祖のようなすごい方が「私の師匠は、京都にいる禅マスターだ」と言われました。オーストラリアのレジェンドも、「京都に禅マスターの師匠がいる」と言われます。
    だから僕のなかで、彼らの言う「禅マスター」という言葉が残っていたんですね。そういう流れで村上老師に出会ったものですから、引き付けられていくのは必然的だったのかもしれません。


■3年かかって受け入れられた

──撮影をはじめてから、どのぐらいの頻度で老師のもとに通いましたか?

    老師のもとに通うと言っても、簡単につかまる方ではないですよね。坐禅指導の旅に出たりとか、秋にはお伊勢さんにも行かれていました。それから、山奥の小猿郷や池代の禅道場に滞在されている時に面会を求めても、「わしはもう人に会わない」と言われることも結構ありました。
    たぶん、最初の頃は僕のことを認めていなかったように感じます。「こういう映画を撮りたいです」とお願いしたときも、返事は「うん、わかった。わしは断らない」とそれだけでした。やるともやらないともなしで、とにかく断ることはしないと言われただけです。ですから、なかなか会えないし、たとえ会えて何か質問しても、全く違うところから答えが返ってくる感じで、それが3年ぐらい続きました。
    それが2019年ごろ、いつもはお世話をする人が一緒にいますが、初めて小猿郷の道場で老師と二人だけでいた時がありました。そのときに、何か変わったんですよ。直接の言葉はありませんでしたが、少し受け入れてくれたなという感じがしました。ですから受け入れていただくまでに、3年間かかりましたね。

──受け入れられたと感じた後は、会話がスムーズにできるようになりましたか?

    100%「あ、うん」でスパスパやるような感じではありませんが、こちらの言うことを聞いてくれている感じがしました。
    実はその前も、何か暗示的なことを言われていたとは思うんですね。例えば、禅のことをお聞きすると、いきなり念仏の話が返ってきたり、親鸞上人の話に飛んだり、戦争の話になったこともありました。
    話は前後しますが、老師と出会ってから、浅はかでありながらも仏教の勉強をしようと思って、結構悪戦苦闘しました。古本屋で仏教書をいろいろ探して、『正法眼蔵』などを読んだり、浄土真宗も結構勉強して講演のテープもよく聞きました。最低限でもそれぐらいしないと、老師のもとに参ずるのが申し訳ないような気がしまして。
    それで、親鸞上人の勉強しているときに老師に接すると、急に親鸞上人の話が出たりとかそういうことが何度もありまして、今にして思うと何かわかっておられたのかもしれません。


■信頼関係を作る

    老師に受け入れられるようになると、面会を求めると割とお会いしてくれるようになりました。でも、カメラを向けてもあまり返ってこない、何も撮れないというような時期もありました。そうなると、映画製作者としてフラストレーションが溜まるはずですが、不思議とそうならないんですね。老師と会ったのに収録ができなくても、イライラする自分を見つめる機会になるんですよ。そうすると、帰り道には結構いい気持ちになっていました。結局、待つということが最大のできることであり、最大の課題でしたね。

──監督の他に、撮影スタッフはいなかったのですか?

    普通は映画でもテレビでも、カメラマンは監督とは別にいて、さらに録音マンがいたりして最低でも4人ぐらいのクルーで撮影するものなんですよ。でも、老師の撮影は何回かカメラマンに来てもらったことはありましたが、ほとんど一人でやりました。1対1だからこそいいという部分もあるんです。

──あえて一人で撮影する利点とは?

    カメラを向けられると、その人はカメラを持った人に対して答えるわけですよね。何よりカメラがあることによって、必ず人は構えます。ですから、なるべくその被写体と自分が親しくなって、ある程度信頼関係を得てからカメラが入ると違うんですよ。この映画では、川口さんに対しても、それから村上老師に対しても、その関係性を作っていくというスタンスを大切にしました。
    前の作品の『Aloha Deathアロハ・デス』は、旅をしながら会える人にパッと会って話を聞きながら撮影をしたので、信頼関係を構築することはできませんでしたが、『DAIJOBU―ダイジョウブ―』は時間を作れたので、そういう撮り方でしか撮れないものが撮れました。何人ものクルーでバアッと行って老師を取り囲んで撮れるものとは、全然違います。

──信頼関係を大事にされたのですね。老師に受け入れられて関係が変化してからは、撮れる映像も違いましたか?

    そうですね。例えば後半の夕日を見ながら老師が童謡を歌うシーンとか、ああいう映像は撮影を始めた頃は考えられませんでしたね。

──撮影してる人に心許してくれないと、撮れないシーンですね。

    そうです、そうです。普通はカメラ持ってる人間がいたら、ああいう行動はしないと思います。夕日を見て歌を口ずさむとか、お月さまを拝むとか、そういうのは人に隠れてやるような行為じゃないですか。だからあの時は、老師の中から僕の存在が消えたのではないかと思います。

ad-2.jpg 148.54 KB
夕日を見て、童謡「里の秋」を口ずさむ老師(映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』より)

■昔は神様だったけど、今は人間界にいるんだよ

──撮影を続けた7年間で、とくに印象に残った老師の言葉は?

    いっぱいありますがほとんど忘れていて、でも全部自分の中に蓄積されていると思うんですけど。記憶に残ってるのは「命より大事なものを見つけるのが人生の目的だ」ですかね。最初の頃に言われた言葉です。
    それから後々響いてきたのが、3年目ぐらいに聞いた「わしは人間界にいない」です。この言葉は、松崎の老師の庵の近所に住んでお世話をされていた坂本治枝さんも聞いていました。その3~4年後になりますが、そのころは老師の認知症がかなり進んできて、デイサービスに行くか行かないかの相談で、福祉のケアマネさんとお医者さんが老師のところへ来たんですよ。その時、坂本さんがその方たちと話すなかで、「村上さんはね、昔は神様だったけど、今は人間界にいるんだよ」と言ったんですよ。それ聞いてね、僕はわーって鳥肌がたちました。老師は以前は人間界にいなかったけど、認知症になられて今は人間界にいるんだということですよね。坂本さんすごいなと思いました。

──映画では、お兄さんの死がきっかけとなって、最晩年の老師が衰弱したと描かれています。実際監督はどのように感じられましたか?

    老師はお父さんを早くに亡くされて、お母さんとお兄さんと3人で寄り添って生きてきたと映画の中でも話されていましたが、老師にとってお兄さんは父親であり、兄であり、本当に特別な存在だったようです。縁の深い方だったのだと思います。よくお兄さんのことを話されていましたし、具合が悪くなったころは千葉県のお住まいに通ってました。
    甥っ子さんから危篤の電話を受けて行かれた時は、ほぼ意識がなくて、自分を見ているのか見ていないのかもわからない状態だったそうです。でも、老師が手を取って「次に生まれてきても、わしの兄貴になってくれよ」と言われると、ぎゅっと握り返してきたそうです。老師がそのような情緒的な話を僕にするのが驚きでした。それまでの老師は、そういうことを口に出すような方ではなかったと思います。
    体が弱っていたところにお兄さんが亡くなられたショックもあって、老師はよれていきました。川口さんも映画の中で「耄碌した」と指摘されますよね。それで、先ほど話に出た夕日のシーンですが、よれながら童謡の「ふるさと」を歌って、家族のことに触れるんですよね。人間界って情の世界で、老師はそこに降りてこられた。

230509_Daijobu_P3_gazo_02.jpg 261.35 KB
木に触れたこの後、丁寧に合掌をされた。老師にとって万物が祈りの対象であるのか(映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』より)

■カメラを置いて老師と会う

──童謡を歌うシーンや、川口氏が老師を背負うシーンなど象徴的な場面以外は、認知症になられてからの姿が映画にはありません。なぜですか?

    ドキュメンタリー作家として失格かもしれませんが、カメラをとっぱらった状態で老師に会いたいという欲求が非常に強くなりました。ある程度撮れたのだから、いつまでも撮り続けるのはやめようと。撮ろうと思えば認知症になった姿も記録して、老師が亡くなるまでの記録も撮れましたが、それはやめました。

──カメラなしに老師と会いたいという欲求というのは?

    撮影していると僕の心の状態が、カメラを持った状態になってしまいます。それよりカメラを持たないで、全く1対1、人間対人間の状況で老師とコミュニケーションを取りたいという気持ちが強くなりました。
    そう決めてからはカメラも持たないで、老師のいる松崎の庵に通いました。その頃の方が撮影していた頃より頻繁に、毎月2回ぐらい行ってましたかね。だいたい1泊2日か2泊3日ですが時間の許す限り行って、老師がデイサービスに行ってるときは海でサーフィンをしたり、温泉に入ったり、老師のお世話をされている坂本さんと話をしたりして、帰ってきたらまた老師と話して……そんなふうに過ごしていました。
トリミング_IMG_20230105_084332.jpg 96.01 KB
遷化される直前、2023年1月5日に坂本治枝さんが撮影した村上光照老師
■人間の営みのなかの老師

    お兄さんが亡くなって弱っていた老師ですが、デイサービスに行くようになると、だいぶ元気になりました。特にお風呂に入れてもらうのが気に入られたようで、「監督、いい温泉が見つかってな」と言われて(笑)。さらに「でっかい風呂があって、そこに行くと金玉の裏まで洗ってくれるぞ。監督も今度一緒に行きましょう」とか言われました(大笑)。
    デイサービスでは、通っているおばあさんたちに頼まれて念仏をあげたり、一緒に般若心経を唱えたりといった交流も楽しまれていたようです。そういう老師を見ていると、坂本さんの「人間界にいる」という言葉が、すごい深いなあと思います。
    デイサービスでは、今までは接することのなかった福祉施設に勤めている若者にお世話をされたり、利用者のおばあさんたちに拝まれたり怒られたりしていました。松崎の庵でも、僕が実家のお土産で持っていった秩父の蕎麦をみんなで食べたり、色々としくじっては坂本さんに散々怒られたり、僕はそれを見て大笑いしたり……楽しかったです。老師は最後はそういった人間の営みのなかにいて、あるがままにそれを堪能されているようでした。

──木村監督は、最後はドキュメンタリー映画の監督としてよりも、一人の人間として老師と接することを選んだ。

    そうです、選んだってことですね。だからそういう意味でドキュメンタリー作家としては失格かもしれませんが、もう撮らなくていいと思いましたね。その分、濃密な時間が老師と過ごせましたので後悔はしていません。やはりカメラを持ってると全然違うんですよ、自分のありようが。
    老師の認知症が進んだころはコロナ渦でもあり、お一人でいることが多かったようですが、幸い老師も坂本さんも僕が東京から訪ねることを受け入れてくださったので、ちゃんと抗原検査とかやって通いました。行っても特に何をするのではなく、ただ老師といるだけですが、本当に何とも言えない時間でした。安らぎというか、安楽でしょうか。そういえば、松崎の庵の名前は、安楽庵でしたね。

(後編に続く)


2023年8月30日
浅間山慈恵院府中本山本堂にて
取材・構成:森竹ひろこ
クレジット写真以外の撮影:編集部、森竹ひろこ
ヘッダー写真:村上光照老師(編集部)、木村衞監督(森竹ひろこ)


後編「仏の世界と、極道の世界」


『DAIJOBU─ダイジョウブ─』

村上光照老師の晩年の7年間を記録した映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』が9月9日(土)より公開されます。村上老師とともに描かれるのは、撮影当時はまだ現役のヤクザの親分で、ヤクザと人権問題をテーマとして話題となった2015年の映画『ヤクザと憲法』に出演した川口和秀氏。二人の出会いとその後が描かれたドキュメンタリーです。

ad-1.jpg 190.39 KB

【公式ホームページ】
http://daijobu-movie.net/
出演:村上光照、川口和秀
プロデューサー:石川和弘
監督・撮影・編集:木村衞
サウンドトラック:笹久保伸
エンディングテーマ曲:細野晴臣「恋は桃色」
ナレーション:窪塚洋介

【劇場情報】
●新宿K'Sシネマ
2023年9月9日(土)~
https://www.ks-cinema.com/

●大阪    第七藝術劇場
2023年10月7日(土)~
http://www.nanagei.com/

●アップリンク吉祥寺
10月20日(金)~
https://joji.uplink.co.jp/

●横浜    シネマ・ジャック&ベティ
2023年10月21日(土)~
https://www.jackandbetty.net/

●名古屋    シネマスコーレ
近日公開
http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/

230509_Daijobu_P3_gazo_03.jpg 399.06 KB
ad-3.jpg 178.07 KB