【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「生きる権利」です。
[Q]
法話で「生きる権利は無い」と聞いたのですが、そこがちょっとわかりません。生きるということが、因果法則で一時的に成り立っているもので、流れていくもので、実体の無いものだから権利が無いというように考えるのでしょうか?
[A]
■命という現象も因果法則、環境という条件が揃って成り立つ
基本的にはその通りです。例えで説明します。海があります。海には波があります。しかし、海に波を作る何か権利があるでしょうか。下らないことです。ただ法則があって波が起こるのです。空気が流れて、強風だったり、台風だったり、竜巻になったりします。しかし、それは空気に何か権利があって起こる現象でしょうか?変な例えかもしれませんが、そんな言葉自体成り立ちません。ただ法則があるだけなのです。いくつかの条件が揃ったなら、波が起こり台風という現象が起きるのです。
人間で考えてみましょう。この地球上には人間も他の生命もいる。俗世間的に言えば、誰にでも地球で生きる権利がある。ですから、他人の権利を奪って生きることはいけないことです。人間以外のほとんどの生命体には、自分を守るため必要な力・武器(能力)がついています。角があったり、牙があったり、爪が鋭かったり、鳥たちは自分が食べられる餌を取れるよう嘴があるのです。人間には何がありますか? ただ因果法則によって各生命に必要な力が備わっているのです。
■生きる権利とは存在欲のこと
それで皆が誤解するのは、生きる権利ではなく存在欲のことなのです。「生きたい」「死にたくない」という欲望がある。しかし、その欲望イコール権利ではありません。例えばバスに乗るとします。ICカードで運賃を払う。そうするとバスに乗る権利は成り立っています。そこで「オレはこの広い座席に一人で座りたい」と希望が現れる。そして「隣に座っている奴は立っていろ」と思う。しかし、自分の欲望や希望は権利とは違います。バスに乗る人がたくさんいて座席には先に人が座っているなら、自分はもう立っているしかありません。そこで自分の欲望・希望を固持し、権利に入れ替えることは成り立ちません。皆様は日常の出来事などで、そういうように理解してみてください。私はすごく難しい理論を語っていますが、それは日常生活を通じて理解することができます。運賃を支払ったらバスに乗る権利はあるのですが、座席に座る権利まではないのです。
■存在欲である期待・願望を権利と勘違いしてはいけない
そこで自分の欲望・希望・願望と権利という二種類があると理解してください。ですから、生存欲である「生きたい」「死にたくない」ということは欲望・願望です。欲望は権利ではありません。権利がある場合、トラブルは起こりません。例えば自分がバスに乗っていて、次のバス停で自分の大嫌いな人が乗ってきたとしましょう。その大嫌いな相手を見て、「なぜバスに乗ってきたのか、早く降りなさい」と言うことができますか? 言えません。そんな権利はありません。それは自分の欲望ということです。もしその相手が自分の隣に座ったとしたらどうしますか? それでも相手に何も言う権利はありません。
■他人の命の邪魔をしてはならない
権利とは、自分の欲望・希望・願望ではないのです。権利は自然とあるもので、誰もその権利を邪魔してはいけません。相手の権利を邪魔する・奪うことは、相当に間違った・おかしな行為なのです。私はとても悪いことを表現する場合、権利を破っている、犯していると表現します。想像を絶する悪いことをしているという意味で言っているのです。しかし、そういうことを誰も気にすらしていません。
■無数の生命が生きているという事実がある
私が法話で「生きる権利がない」と言ったのは、存在欲のことなのです。存在欲(欲望)は根絶するべきもので、肯定してサポートするべきものではありません。俗世間的に私たちには生きる権利があるというのは、それはすごく軽い話です。なぜ生きる権利という言葉が成り立つのかというと、すべての生命に存在欲があるからなのです。どんな生命であろうとも「生きたい」「死にたくない」と思っているのです。だったら答えは「〔他の生命は〕放っておけ」でしょう。生かしてあげる必要はありません。ただ迷惑をかけないだけ。慈悲というのは、そのことなのです。
ヘビに生きる権利があるのだから、ヘビを捕まえて口を開けてカエルを無理やり口に押し込む必要があるでしょうか。そんな必要はありません。放っておけばいいのです。ヘビがネズミやカエルを見つけることができなくて飢えていたとしても、それは私にとって管轄外のことです。しかし、私が畑に殺虫剤や除草剤をたくさん撒くことで、昆虫や動物が片っ端から死んでしまったとしたら、私は想像を絶するほどの恐ろしい悪行為をしていることになるのです。なぜなら、その土地で無数の生命が生きている。皆に生きる権利があるにもかかわらず、私が故意に他の生命の命を奪ったことになるからです。そのように理解した方が良いと思います。
■生老病死という流れ・因果法則
とにかく、真理の立場から観れば「生きる権利」という単語はおかしな言葉ではありますが、俗世間的に使っても構いません。一般論として「生きる権利」という言葉を使ったとしても問題ありません。海が津波を作るのですが、海に津波を作る権利はないということだけ理解しておいてください。自分に生きる権利がないということではなく、存在欲(欲望)を発見しなさいという意味です。存在欲は、一般的に考えたとしても変なのです。生まれたものは死ななくてはいけないのです。これはどうにもなりません。なぜそこに「生きたい」「死にたくない」というおかしな希望を持つのですか?それは法則ではありません。どうあがいても、必ず死ぬのです。
■存在欲は智慧が現れると同時に消える
存在欲は煩悩であって、根絶するべきものです。根絶するべきものは非論理的に成り立っています。ですから、智慧が現れると同時に煩悩がなくなるのです。おかしな希望・期待が消えるのです。智慧があれば、非論理的な希望は作りません。生命は存在の仕組みを知らない(無知)ので、ただ無闇やたらに「生きたい」「死にたくない」と喚くのです。
ということで、智慧を開発しなければ煩悩は消えません、苦しみはなくなりません。
■生きる権利があるのではなく因果法則があるだけ
生きるということも条件が揃って成り立っているだけで、特別に美しいわけではありません。人がガンになったら、「なぜ私がガンになったのか」と嘆くでしょう。それは愚かです。ガンになっても「ああ、そうですか」と終わらなければおかしいのです。もし本当に私に生きる権利があるならば、ガンになってはダメでしょう。生きる権利があるならば、とんでもない話です。生きる権利があるのに、なぜ心臓発作が起こるのですか。けしからんことです。ですから、「生きる権利がある」という俗世間的な言葉に引っかからないように気をつけてください。
■出典 それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編3 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon