横田南嶺(臨済宗円覚寺派管長)
藤田一照(曹洞宗禅僧)


2人の「発心」がどのようなものだったか、「これまでの仏教」を通しての修行、そして「これからの仏教」の展望を伺った2021年の第1回。そしてこの2022年の第2回対談では、「現代における坐禅の意義はどこにあるのか」をテーマに、「釈尊の樹下の打坐、達磨の面壁、道元の只管打坐と連綿と伝わってきた幽邃な坐禅の世界を二人で縦横に語ってみたいと思います。」という藤田一照師の言葉を入り口にして、「坐禅の探求に生涯をささげるのみなのであります。」という横田南嶺老師と、坐禅の本質と今日性についてお2人にお話をいただいた。全6回でお送りする第1回。


第1回    坐禅は言い留められない


■坐禅は幽邃である

藤田    今日の対談は2回目です。2021年10月16日に、やはりここ円覚寺で「これからの修行    これからの仏教」というテーマで対談をして、それは『サンガジャパン+(プラス)』(https://tinyurl.com/4nxduyd5)の創刊号に載っています。その時は禅修行の発心の話をしたので、今日は修行の中心である坐禅の意義について話をしてほしいと編集部から依頼されました。
    僕と老師がこうやって繋がっているのも、ちょっとおこがましいですけど坐禅をしている仲間だからといえますかね。そのような縁で対談させていただいています。さらに、どういうご縁か、僕が円覚寺の雲水さんたちに坐禅の指導をさせていただいています。ここでは仏教界隈に限らず、面白い講師の方が呼ばれて講義をされていますね。

横田    おかげさまでね。

藤田     それは、伝統的な僧堂としては非常に異例なことです。特に女性の先生が、雲水さんたちに教えるのは、あまり見られない光景です。そのへんは何か意味はあるのではないかなと思って、お話をお聞きしてみたいです。

横田    それも、後々お話ししていきたいですね。
    ところで、今回の対談にあたり、お知らせに載せる文章を依頼されました。みなさんも読まれていると思いますが、一照さんはちゃんと書かれています。ところが、私なんかひどいこと書いていて……

藤田    そうですか?

横田    そうなんです。私はね、「自分が好きで坐禅をしているだけで、現代における坐禅の意義なんて考えたことはない、これからも好きで坐禅して死んでいったら本望だ」、といったことを書いています。

【藤田一照先生コメント】
40年前、ふとしたご縁で参加した円覚寺居士林での学生接心が私の人生の転機となりました。その思い出深い円覚寺で、横田南嶺老師と現代における坐禅の意義についてお話し合いができることをありがたく思います。釈尊の樹下の打坐、達磨の面壁、道元の只管打坐と連綿と伝わってきた幽邃な坐禅の世界を二人で縦横に語ってみたいと思います。

【横田南嶺老師コメント】
私は10歳の時に坐禅にめぐりあい、それ以来ただ好きで坐禅をしてきました。残念ながら、「現代における坐禅の意義」というようなことについては考えたことがないのであります。好きで坐禅して、それで死んでいったら本望なのです。今もそうであり、そしてこれからもこの坐禅の探求に生涯をささげるのみなのであります。そんな私のような者が、何かのお役にたつかどうか心もとないのですが、どうぞよろしくお願いいたします。
(講演告知サイトhttps://peatix.com/event/3251601/より)


藤田    いかにも臨済的な、一見そっけないお言葉ですけど……

横田    一照さんは、「原点はお釈迦さまの菩提樹下の悟りから来て、達磨大師の面壁、道元禅師の只管打坐、それに連なる幽邃(ゆうすい)の坐禅の世界」と書かれています。

藤田    はい、「坐禅は幽邃である」という澤木興道【*1】老師の言葉が残っていて、僕はそれを一つの道標(みちしるべ)のような言葉として受け取っています。

横田    幽邃は奥深いという意味ですよね。澤木老師の言葉は「坐禅には言葉では表現できないような奥深さがある」という意味合いでしょうかね。
    ただ、下手すると「坐禅は幽邃である」と聞いて、静かな深い山の中の山荘にこもって、霞が漂っていて筧(かけい)のカチンという音が聞こえてくるなかで静かに坐禅にふけっている、というような現実とは離れた別次元のところで特別な人たちだけがやる高尚な世界というような意味にとられると、これはもう全然違いますね。

藤田    ああ、そうですね。澤木老師は短かくて、「である」と断言されるような言葉が多いですが、この名言も注釈をつけないと誤って受け取られる可能性があります。

横田    そうですよね。

藤田    短い言葉の言い切りっていうのは気をつけないと、単なるスローガンで終わるか、人々を迷わせるような言葉になってしまう。ブッダの言葉もそういった傾向があるので、しかたがないのかもしれないですが。

横田    数奇者のような世界ではないわけですよね。

藤田    はい、違うと思います。

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■坐禅はピン留めできない

横田    まず、幽邃の意味はどう説明なさいますか?

藤田    僕らはどうしても自分で納得したいものですから、「坐禅は〇〇である」というように言い留めたいわけです。
    言い留めるというのは、昆虫を採集して、形を整えて虫ピンで留めるイメージです。今の子どもさんはされないと思いますが、僕の小学生の頃は昆虫標本を作るという宿題がありました。いろんなセミならセミ、トンボならトンボを捕虫網で捕まえて、それを虫ピンで刺してお菓子箱みたいな箱に並べて、表面が見えるようにセロファンで覆って提出します。言い留めるは、そういう標本になった虫のイメージです。でも、本当のトンボは飛んでいるわけですよ。それから食べたり、休んだり、いろんな活動をしていますが、標本になったトンボは死んでいて、ピンで固定して留められています。
    僕らのものの理解の仕方も、そういうところがあります。いろんな活動をしているのがトンボなのに、活動していない、静止したものをトンボだと思ってしまうわけですよ。昆虫図鑑に描かれたトンボや、標本のトンボをトンボと思ったら間違いです。
    「坐禅は幽邃である」という言葉を、生き生きと日常の中で活動している姿における坐禅として理解しないといけないし、それを言葉ではピン留めできないと僕は理解しています。ピン留めしてもいいけど、それは坐禅のほんの氷山の一角というか、万分の1ぐらいしか言えてないということを承知したうえで言わないといけない。
    「坐禅は幽邃である」という澤木老師の言い切りも、幽邃な坐禅の実際のなかにもう1回入れていかないと、僕が言っている幽邃ではないということですよね。「坐禅は〇〇である」というふうに理解してもいいけど、それはその時、その場の自分の力量で見えただけのことで、それで終わりではないというか、終わりがない。だから幽邃なんです。澤木老師はそういう探究を促すような意味で言われたのではないかと思います。坐禅の奥深さ、精妙さを忘れないようにしてどこまでも行を通して掘り下げていきなさいというような励ましとして、そう言ったのだと。
    僕は坐禅とはあまり結びついていないような、いろんなジャンルに首を突っ込んで学んでいますが、それは坐禅の幽邃さをいろんな角度から実感することでもあります。ここからはこう言えるけど、別なところからはこうも言えるというように、坐禅にいろんな角度から光を当てて、いろんな射影を見ているわけです。射影はあくまでも射影で本体ではないけど、いろんな2次元の射影を見て3次元の本体を思い描くという作業を、やり続けているところです。そうすると、こういう本体だと思っていたものが、実はそうじゃなかったということがわかったりするわけです。

横田    ああ、なるほどね。そういう意味では道元禅師が「ただ坐る」と言われた、そのただ坐るの「ただ」にも無限の奥行きがある。そういう感じで見るべきでしょうね。

藤田    はい、そうだと思います。

横田    只管打坐とは本当は究極の究極で、そこに至るまでには様々な階梯があるはずです。でも、今の私達は何の階梯も知らずに、いきなり究極をやるというところがあって、それでは身体的にも精神的にも無理があったり、本当のよさがわからなかったりします。
    ある他宗のお坊さんに「禅っていうのはね、やっぱり究極だ」と言われました。「自分たちはいろいろなことをやりながら、最後に坐って禅定という順番があるけれど、仏教の究極である禅を一番最初にやるのは贅沢だ」ということを言われましたが、それは無理があるということを言いたいように感じ取れたんですね。確かに只管打坐は、ただ坐るというそれだけですが、しかし実に幽邃です。

★脚注
*1澤木興道:1880~1964 明治から昭和を代表する曹洞宗の僧侶。定住する寺を持たなかったことから「宿無し興道」と呼ばれる。昭和24年、京都上京区安泰寺に坐禅道場を開き、後進の指導に当たる。


2022年7月2日、北鎌倉・円覚寺にて対談
構成:森竹ひろこ


第2回    坐禅はステップ・バイ・ステップではない


【最新情報】

2023年7月23日    横田南嶺老師×藤田一照師対談    開催!

見逃し配信付チケット発売中
 ttps://peatix.com/event/3631624/

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