中村圭志(宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学・上智大学非常勤講師)

ジャンルを問わず多くの人の心に刺さる作品には、普遍的なテーマが横たわっているものです。宗教学者であり、鋭い文化批評でも知られる中村圭志先生は、2023年に公開された是枝裕和監督・坂本裕二脚本の映画『怪物』に着目。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したこの話題作の背後に「宗教学的な構造」を発見し、すっかりハマってしまったそうです。大学の講義で学生たちも驚いた独自の読み解きを、『WEBサンガジャパン』にて連載でお届けします(全六章・各章5回連載予定)。

第一章 『怪物』が描く複雑な因果[5/5]


■理不尽な世界

    坂元脚本は善悪を世間並みの道徳性や合理性では裁きませんが、それは是枝監督の作品も同様です。たとえば『万引き家族』は社会の底辺に落ち込んだ人々の疑似家族生活を描いていますが、これを「万引きを許すのか」みたいな通常のロジックで批判したりするのは的外れでしょう。
    映画や小説の起源である神話や伝説は、通常の善悪を超越しているものです。旧約聖書のヤコブは兄のエサウを策略で騙して長子権と父からの祝福を奪います。とんでもない世界です。ヤマトタケルは子供時代、朝の食事に現れない兄を殺して便所に棄てています。そんなキャラを英雄としたり宗教的模範としたりしているのが、古代の宗教でした。
    もちろんそれは今の時代に許されることではありません。しかし物語世界の想像力はこうした古代神話の遺伝子というかミームを受け継いでおり、悪党を面白おかしく描いたり、殺人事件を完全に知的推理のゲームのネタにしたりしています。
    坂元氏や是枝氏はもちろん近代社会の倫理を前提として物語を構築していますが、人間の動機とか運命とかを語るレベルにおいては、道徳的判断を超越した視点もまた必要であるという理解を、多くのクリエーターと共有しているのです。
    世界の因果が複雑であることと、それゆえ世界が根本的に矛盾の上に成り立っていることは、次のような宗教界の歴史的有名人の認識でもあります。

    イエス「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタイによる福音書、25章29)
    親鸞「善人が往生できるというくらいだから、悪人が往生できて当然だ」(歎異抄)

    貧者や病者や罪人の友であったとされるイエスはここでそうした弱者の困窮の必然性を説き、他方、阿弥陀信仰を説く親鸞は悪人の救済の必然性を説いています。言っていることの方向性は真逆に聞こえます。しかし趣旨は同じです。因果のトラップが苦境を再生産し続けるのであり、だからこそ宗教的救済が求められるのですから。