【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は瞑想しているときと普段の生活とのギャップについて、スマナサーラ長老が答えます。
[Q]
まだ瞑想実践を習い始めたばかりですが、世の中は汚いことが多いじゃないですか。修行でお寺に来て瞑想している時は落ち着くのですが、実際の生活に戻ったときにギャップで悩むということは無いでしょうか? 世間に戻った時、どのように実践するのかわからないので教えて下さい。
[A]
■世間は汚れているのが当たり前
「世間」というのは、汚れていることが当たり前なのです。ですから、仏教用語では「世間」とは「汚れた世界」という意味なのです。煩悩で生きている世間を見て、「世間が正しい」と認めることは間違いです。
譬えで説明します。魚が歩くことを期待するような感じです。これはちょっと無理な期待でしょう。世間では、わがままで自分のことしか気にしない、自分のためならどんな悪いことでもしてしまう、というのが普通になっています。
そこで私たちは、ほんの少しその環境から離れて、自分を育てようとするのです。最初は誰だって清らかな環境、世間と違った環境を作って、こころを強くしなくてはいけない。それで、こころがどんどん強くなって、清らかになってくると、別に特別な場所(環境)がなくても大丈夫になるのです。
■世間は自分のこころを試す道場
世間の中にいても、世間の流れに流されないように、揺らがないようにと、自分のこころを試すことが、逆に修行になるのです。ですから、ステップは二つあります。世間にいる限りは、どうにもならない。世間の波に流されてしまって、みんなと一緒に泳いでいるだけです。弱肉強食の世界です。そこで我々は一時的に、ちょっと清らかな環境を作って、そこで自分のこころを強くしてみるのです。
それから、いつでも人工的に作った環境にいられるわけではありません。普段、皆様は自分の家で家族と生活していますね。道場に入って、こころがいくらか安定してから、また世間に戻ってみるのです。それでも、修行は続けなくてはいけません。その場合の修行とは、世間の波にこころが揺らがないように気をつけることです。それが自分自身の宿題です。
ですから、いかなる場合でも世間を指さして文句を言ってはいけません。例えば、ある人がものすごく性格が悪くて、他人に迷惑をかけてくるとする。はい、それでも私は落ち着いていなくてはいけません。迷惑な人を非難侮辱したりして、自分のこころまで汚す必要はありません。という具合に、世間・世界を「自分を育てるための道場」にするのです。反面教師のような意味です。それはすぐにできませんから、お寺などの修行道場に足しげく通って、能力向上に励んだほうがいいのではないでしょうか?
■出典 『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編1』