中村圭志(宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学・上智大学非常勤講師)
ジャンルを問わず多くの人の心に刺さる作品には、普遍的なテーマが横たわっているものです。宗教学者であり、鋭い文化批評でも知られる中村圭志先生は、2023年に公開された是枝裕和監督・坂元裕二脚本の映画『怪物』に着目。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したこの話題作の背後に「宗教学的な構造」を発見し、すっかりハマってしまったそうです。大学の講義で学生たちも驚いた独自の読み解きを、『WEBサンガジャパン』にて連載。全六章(各章5回連載)のうちの、第三章です。
第三章 告白のダイナミックス ── 神と良心と禅問答[5/5]
依里のケース
■依里は告白しない
イラスト:中村圭志
最後に依里の場合について考えてみたいと思います。
湊はとても内省的でした。だから苦悩があり、告白による「生まれ変わり」もあった。一方、依里の特徴は、そのような精神的ドラマの展開を少しも見せないことです。湊と違い、依里に告白の気配はまったくありません。
とはいえ、依里の内面はたいへん複雑です。湊の心が時間的(ドラマ的)であるのに対して、依里の心は空間的です。表と裏、抑圧と爆発が隣り合わせなのです。子供っぽくも大人っぽくも見える子役の柊木陽太は依里の両面性を巧みに演じています。
依里の心がこうなっている理由としては何が考えられるでしょうか?
❶虐待を受けているから。依里は学校ではいじめを受け、家では煙草の火や水責めなどに苦しんでいます。彼としてはこの状況に耐えることで精一杯です。虐待を受けていない湊は、自分の嘘に精神的に苦しむ余裕がありますが、依里にしてみれば嘘をつくのは湊以上に逼迫した「緊急避難」の行為だと考えられます。
依里は虐待を耐えつつ、たまった怒りの感情を、ガールズバーへの放火や猫への虐待で放出している可能性もあります(真相は不明)。しかし観客はそれについてとがめだてる気が起きないでしょう。依里は絶対的被害者の位置にいるわけですから。
❷依里はさらに、解離性同一性障害(いわゆる多重人格)への途上にあるのかもしれません。ただし今の段階では、依里は自分のやっていることに自覚的です。「怪物だーれだ」のカード遊びのときに、ナマケモノ(動物)の描写として、敵に襲われると体中の力を抜いて諦める、感じないようにすると依里は言います。湊が見抜いたように、これは依里自身が学校でいじめられても父親から折檻されても、自分を感情的に切り離して傍観するように努めていることを言ったものです。
❸論理的である。依里には識字障害がある可能性がありますが、言語能力自体は非常に高いようです。また、友達からのいじめに対して「やめてください」とはっきり言いますし、他の生徒へのいじめに乗らない理由もきっぱり告げています。かなり大人っぽい印象です。この論理性が依里をある意味ずる賢く振る舞わせているのかもしれません。
❹少なくとも映画の描き方としては、依里は湊にとって非日常的な輝きのある存在です。そういう意味ではトリックスターめいた謎キャラとして造形されている。もし彼が虐待、解離性障害、論理性という合理的に理解できる因果を超えた独自的パーソナリティなのだとしたら……物語の表現としてはそれもありということになります。
現実世界においても、人間の心の奥底にあるものは本当はよく分からないものなのでしょう。依里は人間そのものの底知れなさの象徴として描かれている可能性もあります。