池埜聡(関西学院大学)
マインドフルネスは、仏教の中にあった瞑想の要素を取り出し、西洋の文化に乗せることで一般化したといえる。マインドフルネスが社会に浸透し多様な場面で実践、応用されていく中で、問題が起きているという。そして、その中心的な要因として本来仏教が持っていた倫理的要素が抜け落ちてしまったことによるのではないか。日本でマインドフルネス研究の前線を切り拓いてきた各氏による、マインドフルネスと倫理をめぐる問題をテーマとするシンポジウムを載録する。パネリストと全体の構成は、米国で社会福祉の側面からマインドフルネスを研究してきた池埜聡氏による話題提供、日米の瞑想をめぐる状況に詳しい元曹洞宗国際センター長の藤田一照師、そして心理臨床の角度からマインドフルネスを研究する砂田安秀氏、教育現場でのマインドフルネス実践の可能性を研究する内田範子氏の各氏の発表と、日本でいち早くマインドフルネスの源流である仏教のヴィパッサナー瞑想に取り組み、仏教瞑想、アビダンマ、そしてマインドフルネスに精通する井上ウィマラ氏の指定討論と各氏の回答で進行する。2021年12月にオンラインで行われたシンポジウムを全5回に分けて配信する。
■はじめに
司会、そして企画を務めます関西学院大学の池埜です。これから100分のお時間を頂戴し、シンポジウムを行ってまいりますのでよろしくお願いいたします。
タイトルは「マインドフルネスにおける倫理の必要性」です。倫理という言葉は非常に大きく、かつ深遠な概念で、多元的な見方ができるかと思います。
たとえば、マインドフルネスの実践における倫理、すなわち有害事象も含め、指導者の能力や参加者への配慮という意味での倫理もありますし、マインドフルネスの適用範囲をめぐる倫理もあります。マインドフルネスが軍隊の射撃スキル向上のために使われていいのか、といった問題などが適用範囲の問題としてよく取り上げられるものです。
また、そもそも仏教的な文脈からいうと、マインドフルネスは倫理に向かうものといえます。仏教の文脈から見たとき、マインドフルネスにはどのような倫理が備わっているのかという側面への検討も可能ですし、今、必要になってきていると思います。マインドフルネスそのものに潜在している倫理という見方もあるでしょう。
さらに、効果の側面から倫理を捉えてみると、心理的あるいは医学的な文脈でマインドフルネスの効果を上げるために、実は倫理的要素が影響を及ぼしているのではないか、という研究も示されるようになっています。
このシンポジウムのねらいですが、4人の各登壇者・パネリストから「社会政治的文脈」、「仏教瞑想」、「実践」、そして「実証研究」という4つの複眼的な視点を投げかけていただき、マインドフルネスの倫理をめぐるオープンな議論をさせていただきたいと思っています。もちろんこの場で、倫理とはこうあるべき、という結論を出すことはできません。今回の議論が、今後マインドフルネスをめぐる倫理のあり方を検討していく、倫理をめぐる課題を抽出していくためのキックオフになれば、という思いで企画させていただきました。
登壇の流れですが、まずは私から「社会政治的文脈からとらえたマインドフルネスの倫理」をお話しさせていただきます。そして、藤田一照先生からは仏教瞑想あるいは仏教の文脈から、内田範子先生からは実践のお立場から、砂田先生には心理学そして臨床研究というお立場から、それぞれマインドフルネスにおける倫理がどのように議論されているのかについて紐解いていただきたいと思います。これらのパネリストの議論を受けて、井上ウィマラ先生から指定討論ということで、いろいろな質問を投げかけていていただきたいと思っています。
■「社会政治的文脈からとらえたマインドフルネスの倫理」
最初に私から、社会政治的文脈という俯瞰的な視点から今のマインドフルネスはどのように発展してきたのか、また倫理はどのようにとらえられているのかといったところを紐解いてみたいと思います。
●正科目にもなっているマインドフルネス
アメリカのCDC(疾病対策予防センター:Centers for Disease Control and Prevention)が出している2017年のかなり大規模な調査データによると、「過去1年間でマインドフルネスを含む何らかの瞑想を経験したことがありますか?」という質問に対して、「Yes」と答えた方が成人では約14.2%、人口換算すると少なくとも約3,000万人以上にのぼっていることがわかりました。4歳から17歳の未成年者では、5.4%の子ども達が過去1年間にマインドフルネスを含む瞑想を体験しているというデータが出てきています。これは300万人以上となり、今はもっと増えていると予想されます。人数の多さの理由は、学校ですでにマインドフルネスが取り入れられ、正科目として実践している学校も少なくないことを物語っています。
今ご紹介したのはアメリカの実態ですが、日本でも多くの人々にマインドフルネスが浸透してきていることが推測されます。ただし、社会政治的な文脈からここ最近のマインドフルネスの勢いをとらえてみると、一つ言えることはマインドフルネスを享受している人々に偏りがあるという問題は直視すべきかと思います。具体的に言うと、アメリカでは白人系、富裕層、女性、そして大学卒といった高学歴の人が多い。この傾向は2012年から17年にかけて変わっていないということがわかっています。
●消費される世俗のマインドフルネス
マインドフルネスをめぐる一つの問題として「商品化」をあげることができます。McMindfulness(マクマインドフルネス:マインドフルネスのマクドナルド化)という言葉も生まれていて、一部ではあるものの、手軽な健康増進のためのマインドフルネスの商品化が進んできています。マインドフルネスが苦悩を癒す「簡易なテクニック」として社会に受容されているのではないかということへの懸念です。
この「クイックな癒しのメソッド」というふれこみ自体が問題というよりも、「これがマインドフルネス」という形で広く一般社会に受け入れられてしまうと、マインドフルネスが苦悩を生み出す源を不可視化することに加担してしまうリスクが生まれるてしまいかねないという点が危惧されます。「マインドフルネスは苦悩の源泉を省みず、商業主義に加担しているにすぎない」。これはロナルド・パーサーやデビッド・ロイたちの批判ポイントです。一言で言うと、「スピリチュアル・キャピタリズム」という表現でこのマインドフルネスの商品化が語られ、批判されるようになっています。この商品化をめぐる倫理のあり方に対して、私たちはどのように考えればいいのか?この問いから今回の議論をスタートできるのではないかと思います。
もう一つ、「道具化」という言葉もブーム化したマインドフルネスへの懸念を表す言葉として使われるようになりました。特に、学校教育で使われているマインドフルネスに対してよく使われる言葉です。セルマンとブッタラッチは「教育界で沸騰するマインドフルネスは、まるで新自由主義からの謝罪のようだ」というやや辛辣な言葉で教育界に広まるマインドフルネスに警鐘を鳴らしています。すなわち、一部エリートによって独占された資源の奪い合いから生じる果てしない競争にうまく対処するための方法として、マインドフルネスを子どもに教えているのではないか、という危惧ですね。
要は現行の学校のシステムはそのままで、それに適応できるように集中力を高めたり、情動調整したりできるようなメソッドとしてマインドフルネスが語られてしまっているのではないか、ということです。マインドフルネスがストレス対処に有効な手段としてもてはやされるにつれ、学校における問題のベースにあるもの、例えば「いじめ」であったり、差別であったり、家庭の逆境的環境といった社会政治的な文脈への視点がフェードアウトしてしまうのではないか、という問題提起かと思います。
マインドフルネスが道具化されてしまうことによって本質的な問題を回避してしまう、直視せずに問題を迂回化してしまう、この側面は「スピリチュアル・バイパッシング」という言葉で表されたりします。このあたりの倫理的な問題はどうなのだろう―プラユキ・ナラテボー先生のお言葉をお借りすると「コンパッションのないマインドフルネス」というものが社会に浸透してしまっていないかという倫理的な問題として表すことができるかと思います。
以上、社会政治的な文脈からマインドフルネス・ブームを眺めてみると、「世俗化」の功罪からとらえる倫理のあり方、という議論のポイントが見えてくるかと思います。今のマインドフルネスは初期仏教から発展してきた瞑想法を世俗化して生まれたものです。言い換えると、マインドフルネスは、基本的には仏教瞑想を欧米の白人系の文化あるいは価値体系に順応するように世俗化したものが今、社会に浸透していると言えます。それは、個人の苦悩からの解放であったり、現世利益であったり、あるいは自己啓発、自己探求、自己実現といった価値観に合うようにマインドフルネスが創られてきたとことを意味します。つまり、マインドフルネスは価値中立的な介入メソッドなりつつあるといえるでしょう。ストレスケアあるいは心理ケアの一つの方法論、あるいは処方箋として社会に受けとめられようとしているのです。
一方で、コロナ禍、アメリカでのBlack Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター:BLM)やMee Too運動の興隆、相対的な貧困、構造的な差別、いじめ、格差、難民問題といった社会的な問題が錯綜する中、私たちはポスト・コロナの社会を模索しているところです。大きな岐路に立たされている私たち社会において、マインドフルネスはこれからどうなっていくのだろう、どうあるべきなのだろうと考えてしまいます。
今こそ、倫理からマインドフルネス・ブームに対する振り返りが必要ではないかと感じます。基調講演でもお話されたアメリカで活躍されるサイコロジストの大谷彰先生のおっしゃるマインドフルネスの第1世代、第2世代、第3世代というような大きな節目を迎える中で、倫理をマインドフルネスの領域でどのように位置づけていけばいいのか、倫理についてどのように検討していけばいいのか、ここが今、問われているのではないかと思います。
さらに、本大会のメイン・テーマである「コンパッション(慈悲)」、マインドフルネスとコンパッションの関係。倫理に立ち返ってみると、マインドフルネスとコンパッションの関係は重要な関係性を発展させるのでではないかとも思っています。
●そもそものマインドフルネス、念(サティ)に立ち返ると
そもそもマインドフルネスは「念」、仏典におけるサティ(sati)の翻訳だと言われています。その原点に立ち返って、サティがどのようにとらえられてきたのかを、少し例を挙げて考えてみたいと思います。
サティは「三学(戒・定・慧)」、「五力(信・精進・念・定・慧)」、「七覚支(念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支)」、あるいは「八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)」などに登場し、それぞれの文脈において深い意味があり、またそれぞれにおいてサティの意味するプラクティスや役割を果たすプロセスがあると思います。そのことを前提に、やや乱暴ながらこれらの教えの中心にあるのは、苦しみを滅していく智慧、あるいは慈悲の悟り、それらを実践していく聖なる道、ではないかと思います。
サティの位置づけはどうでしょうか。例えば「五力」を見ますと、ちょうど真ん中にサティ(念)が位置づけられています。「七覚支」に関してはスターターとしてサティが位置づけられ、さらに「八正道」の中には後半にモニターとして自分を見守っていくというサティの役割が示されています。一つ言えることは、どの聖なる道を見ても「念・サティ」というものが独立して存在しているわけではありません。サティは「正知(sampajañña)」と共にあり、倫理、コンパッション、智慧の創出につながっていくもの。もちろん、単独で臨床的に使うということは決して悪いことではないと思います。しかし、仏教の源流に辿ってみると、サティはいろいろなものと統合されながら智慧の創出、コンパッションの涵養につながっていくものという教えがあるのではないかと思います。
さらに「念・サティ」には、関係性の概念が含まれています。これは念処経(Satipatthana Sutta)のコンテクストで、井上ウィマラ先生が私たちに繰り返しおっしゃって下さっている点です。「単に自分の呼吸に気づくだけではなくて、相手の呼吸、そして自他の呼吸に気づいていく」。自分、他者、自他への気づきを深めるプラクティスの方法が念処経には示されています。すなわち、サティには、自他と「共に在る」というコンパッションあるいはケアに通じる倫理が備わっているのではないでしょうか。東京大学の蓑輪顕量先生は「コンパッションというのは、やっぱり実践していくことに非常に意味がある」とおっしゃっています。自分の中だけで処理するだけではなく、行動に移していくことによって生まれる関係性からサティの本質と捉えていく必要があるのではないかと思います。
もう一つ、マインドフルネスはよく「今、この瞬間の気づき」と訳されますが、「今この瞬間というのは幅がある」と比丘Analayo(アナーラヨー)は述べています。これもよく言われていることですが、サティとは、「今この瞬間への気づき」を忘れないでいる、つまり記憶を司る部分も含まれている概念だと言われています。この後ご登壇いただく藤田一照先生は、サティとは「今を忘れないでいる。あるいは今を思い出すという形で、明らかに記憶を通して過去がかかわっている」とおっしゃっています。サティは、過去を見ないとか振り返らないという意味ではないということです。
「心にとどめて忘れない、思い出す」という記憶的な側面には一切触れずに、現在の瞬間のことだけを重視するマインドフルネスはサティと隔たりがあるのではないでしょうか。何を心にとどめて忘れないようにするのか、何を思い出すのか。今この瞬間をAnalayoの言う「幅」のメタファーから捉えるとき、忘れず心にとどめるものに倫理性が備わるスペースが表出するのではないでしょうか。また、サティに包含される関係性への眼差しは、コンパッションに通じていくダイナミックな倫理性に向けられているのではないでしょうか。
以上、社会政治的文脈から今のマインドフルネスの動向を捉え、サティの意味にふれることでキックオフとさせていただき、藤田一照先生にバトンタッチをしたいと思います。藤田先生には、ぜひ仏教瞑想の文脈からマインドフルネスの倫理について紐解いていただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
構成:川松佳緒里
2021 年12 月26 日(日)「日本マインドフルネス学会第8回大会」より
企画・司会:池埜聡(関西学院大学)
話題提供:池埜聡(関西学院大学)
藤田一照(曹洞宗僧侶)
砂田安秀(広島国際大学)
内田範子(群馬県教育委員会スクールソーシャルワーカー)
指定討論:井上ウィマラ(マインドフルライフ研究所オフィス・らくだ)