【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「慈悲の心を育てるプロセス」です。
[Q]
慈悲の瞑想を毎日唱えているのですが、慈悲の心が育っていない感じがします。慈悲の心を育てるために他に方法がありますか?
[A]
■仏道は苦しみをなくす道、悩みは自作自演
いくつかポイントを言いますので、憶えておいてください。仏道は人を苦しませるためにあるものではありません。リラックスして、楽に、穏やかに生きるための道です。これは大事なことです。しかし、私たちは常に様々なことに悩んで生きています。そして、私たちは自分の悩み事が本物だと思い込んでいるのです。これは更に大きな問題です。人の悩み事というのは、たいしたことではありません。ほとんどが幻覚なのです。理解できないかもしれませんが、理屈として言葉だけでも憶えておいてください。その幻覚は自分で作った悩み事なのです。外の世界が私を悩ませているわけではありません。私自身があらゆる妄想をして、その妄想に悩んでいるのです。これはかなり性質が悪く、人それぞれ質や量のパターンが違います。
世の中には、健常で精神に何も問題は無いと言い張っている人が沢山いますが、しかし、皆精神的に病気なのです。例えば精神科医がこの人は病気でこの人は病気じゃないと診断しますが、それは個人差を言っているだけです。ちょっと難しいですか? 人には一人ひとり違う悩みのパッケージがあるのです。誰ひとりとして「私には何一つも悩みは無い」「私は何の不満も無い」とは言えないのです。
繰り返しますが、一人ひとり自分の悩みパッケージを持っています。これは自分のある特定の悩み・苦しみを作り出すためのプログラムです。そして、すべての人(生命)にあります。皆あれこれと偉そうに言っている「私」「私の生き方」「私の価値観」などというのは、自ら悩み・苦しみを作るプログラムのことなのです。
■こころの反応が「自己いじめプログラム」
言葉を変えて説明してみましょう。一人ひとりが「自己いじめプログラム(self-mortification program)」を持っていて、自分で自分をいじめているのです。自分で自分をぶん殴って、痛い痛いと叫んでいるような感じです。そこで自分のアイデンティティ、自己紹介、私はどんな人かというと、皆この自己いじめ、悩み・苦しみを作るプログラムを披露するのですね。自己いじめプログラム(見解・邪見)を自分自身だと思っているのです。
さらに違う見方・視点で説明します。あなたは誰ですか? とたずねると、「私は○○です」と、名前・年齢・趣味(それぞれの好み・価値観・考え)などと答えるでしょう。しかし、実際には「私はこんなプログラムで悩み苦しんでいます」という紹介・説明でもあるのです。どんな会社で働いているのかとか、家族が何人いるとか……どんな答え方をしても同じことです。面白いのは、プログラムは一人ひとり違うということです。なぜ一人ひとり違うのかというと、自分で作ったプログラムだからですね。これが自己いじめのプログラムなのです。
仏教では決して自分の不幸を、神様に恨まれたとか、怨霊に呪われたとか、そういうことは言いません。政府のせいとか、社会や仲間のせいだとは言いません。私が学校で勉強ができなかったのは、先生の性格や教え方が悪かったからとか、そういう言い訳はすべて嘘です。仏教では一切認めません。
■外の世界から受ける攻撃には解決方法がある
しかし、社会や世界(外)から自分が攻撃・いじめを受けることはあります。それはたいしたことではありません。また解決する方法があります。例えばある先生が生徒を叩いたり、何かにつけその子に責任を押し付けたりする。その場合、問題は明らかなので解決できます。その先生に文句を言って、他の先生または学校・社会に訴えかければそれで終わりです。
あるいは、その学校ではなく別な学校に行くということもできます。外の世界から自分がいじめられる、悩ませられる、ということは、それほど重大な問題ではありません。強いて問題というならば、例えば結婚した相手にいじめられる、虐待や暴力(DV)を受けている場合です。この場合はどちらが犯人かわからないことがあります。結婚した夫婦は、お互い様ということが多いのです。しかし、解決策はあります。離婚するとか、他にも方法はあります。外の世界からいじめられることは取るに足らないことなのです。
■自らの行為の結果からは逃れられない
それに対して、自分で自分をいじめるということ、これはどうしようもないことです。それ自体が自分のアイデンティティ(存在意義)になっているーーこれが一番怖いことなのです。この事実は仏教でしか発見していません。専門的な言葉で表現すると、「生命は業(自らの行為)で作られ、業を相続し、業によって生まれ、業を親族とし、業に依存し生きている」と説かれています。これはすべて自分の行為の結果という意味です。ですから、出家として生きる者にとっては、他人に指をさして生きる権利はゼロです。他人のせいにすることはできません。常にその現実を念じ・唱えて生きるのです。自分が受ける幸不幸を他人のせいにしない、言い訳にしない、これが真理の世界なのです。厳しいでしょうか? この現実はすぐに忘れてしまうから、常に観察するべきなのです。この教えはブッダ以外、世の中の誰も説いていません。
例えば心理カウンセラーに相談したら、何か原因を探してしまうのです。幼少期に何か問題があったとか、環境に問題があったとか、親に問題があったとか、そういう下らない理由を探すのです。これは非科学的です。例え父親が厳格で厳しかった、父親の態度が高圧的だったから、子供が精神的な病気になったというなら、地球上にいるすべての子供が精神的な病気になるはずです。なぜなら、父親というのは厳しい態度を取る生き物だからです。ということで、自分の不幸の原因を外の世界に探すことは科学的ではありません。科学的というならば、2+2=4というように答えが明確でなければいけません。心理学などの答えは当てにならないのです。
■悩み苦しみが自作自演だと誰も気づかない
自分の悩み苦しみは、自分自身が作っているのです。自作自演です。その悩み苦しみを作り出すプログラムが、私自身であるというアイデンティティ(存在意義)になっているので、どうすることもできない状態なのです。これを解決させることは相当難しい。質問の答えになっていないと思うかもしれませんが、全体的・総合的に答えようとしています。
次に、自分自身に問題があるとわかったとしても、かなり直しにくいのです。日本でも「わかっちゃいるけどやめられない」というフレーズがあります。自分の感情や性格・行為について悪いとわかっていて、いろんな人からアドバイスを受けたりするのですが、結局やめられないままです。それは問題自体が自分のアイデンティティになっているからなのです。
何度も繰り返しますが、フレーズだけでも憶えておいてください。どんな人も自己いじめプログラムで生きている。その自己いじめプログラムがアイデンティティにまでなっている。理性のある人から「あなたは性格が悪い」「そんなことはやめなさい」「そんな考えはやめなさい」とアドバイスを受けたとしても、そう簡単には直しません。
■自らの頑固さを自覚するべき
もし本当に幸福になりたいと思うのなら、この部分を理解してください。どうしても理解する必要があるのです。自分というのは、そう簡単に変わるものではないということです。いくら言い聞かせても頑固であると自覚してください。皆すぐに「いいえ、そんなことありません」「違います。そうではありません」と言い訳をしてしまうのですが、自分をよく見てください。誰であってもものすごく頑固です。自分の性格を日々の経験を通じて学びながら、毎日変えていくことをしないのです。
私たち人間は可哀想です。様々な性格を持って生まれてきます。その性格は、一番頼りにしている両親でさえ正しく直せない。親は子供の気持ち(性格)に合わせてしまう。善い性格だけ持っているならそれでいいのです。しかし、必ずそうだ、ということもありません。
ですから、自分の性格を直すのは大変なことです。真面目に性格を直したいと思ったとしても、かなり厄介です。何度もくどいようですが、まずそこを理解してください。誰でも自己いじめプログラムを持っている。そのプログラムで生涯を生きようとする。プログラムを他人が指摘すると、腹を立てて聞く耳を持たない。自分が頑固だから他人の指摘を認めることができないのです。
例えば会社で上司が部下(私)を貶すとする。貶された部下(私)が上司を正そうとするのです。どちらが精神的に病気かというと、どちらも病気です。人を貶す上司、それも自己いじめプログラムです。そういう上司は、会社だけではなく家族にも、自分以外の他人や周囲に対しても、同じような態度(プログラム)で反応してしまう。そういう態度だと当然、家族や同僚にも嫌がられ、どこに行っても他人から嫌がられて、惨めに生活することになるのです。そうなると本人は、更に自分の性格(自己いじめプログラム)を強化するようになってしまう……。恐ろしい悪循環になります。
貶された部下にしても、上司を直す必要はありません。例え貶されたとしても「勝手にしてください」と思えばそれで話は終わりです。簡単です。上司に向かっていく必要は無くなります。しかし、そのような単純なことができないのです。上司に貶されたと腹を立てるか、あるいは落ち込んで問題にしてしまう。落ち込んでしまうこともダメです。これも自己いじめプログラムです。自分が持っている性格、自己いじめプログラムを直した方がいいのです。
■あらゆるものと自分を比較し自己嫌悪に陥る
次に、なぜ慈悲の心が育たないのか? その答えは心が頑固で獣のような存在だからです。頑固とは、自己いじめプログラムが起動していることです。私たちは、世間を見て、他人を見て、そのデータを参考にして、よりよい自分を築こうと努力します。もしうまく行けば、誰でもよりよい人間に成長しているはずですが現実は違います。私たちは、自分のことを他人と比較して落ち込むのです。腹を立てるのです。無気力になるのです。または、他人を見下したくなるのです。他人の良いところを無理にでも否定して、大したことないという結論に達したがるのです。要するに、自分と他人を比較することで人格向上しようと思っても、逆効果になって、更に自分をいじめることになるのです。
このような失敗が起こるのは、自分のこころが自己いじめプログラムで動いているからです。どんなデータが入っても、それを無意識的に自己いじめに変えてしまう。人の良いところを観察して学ぶことは、お釈迦様の推薦している素晴らしい方法です。しかし、やってみたら逆効果になるのです。他人と自分を比較するならば、冷静に、客観的・理性的に自分と他人を比較しなくてはいけません。そのために、自分が本来持っている自己いじめプログラムを何だかの方法で停止させなくてはいけないのです。
自己いじめプログラムを停止しないで、自分と他人を比較して他人の性格から学ぼうとしても、更に落ち込む結果になります。自己いじめプログラムを更に悪く機能するようにアップデートするのです。あの人は善い人間だ、人格者だ、あの人は悪人だ、あの人は裏切り者だ、あの人は聖者だ、などなどの判断は行いますが、それらの結論はほとんど当てになりません。なぜならば、自分の自己いじめプログラムを起動して、達した判断だからです。
■過ちを認める勇気が必要
自己いじめプログラムが直し難い原因のもうひとつは、自分の過ちを認めないということです。素直ではないということです。例えば、私が試しに「あなたは相当頑固です」と言ったとします。その言葉を聞いた途端、怒りがこみあげてくると思います。「そんなことはありません」と、心の中で反対する気持ちが生じます。これは、自己いじめプログラムの一つの特色です。分かりやすく言うと、「私は正しい」という前提を基礎にして、自己いじめプログラムが出来ているのです。
人はよく弁解します。言い訳を組み立てるのです。他人の批判を受けると、一貫して「そんなことはありません」と言うのです。それはネガティブ批判の場合です。「あなたは怠け者だ」「不真面目だ」「能力が無いのだ」「何を言っても理解しないのだ」などの批判に対して、心は一貫して「そんなことはありません」と反論しているはずです。しかし、「あなたは真面目な人だ」「賢い人間だ」「正直な人だ」「信頼できる人間だ」と言われると気分が良いのです。例え褒めた相手が勘違いしていると分かっても、自分はその称賛に合わせた真似をしようとするのです。人の性格がこのようになっているのは、自分自身の認識するプログラムが「私が正しい」という前提を基礎にしているからです。
自己いじめプログラムを改良して、幸福に生きられるプログラムに入れ替える方法は、仏道です。しかし、仏教からアドバイスを受けると、機嫌が悪くなったり、腹を立てたり、反論したり、または言うとおりに実行しなかったりします。そこで、仏道を学ぶ人は自分の幸福のためにいくらか我慢しなくてはいけません。耳が痛いと感じても、耳を傾けなくてはいけないのです。
■こころの成長は過ちの懺悔から始まる
これから、心の自己いじめプログラムを幸福になるプログラムに入れ替える方法を順番に説明します。スタートは「謝る・懺悔」からです。「私は何も悪いことはしていない」と思ったら大間違いです。人は不完全なので、何をやってもどこかで過ちを犯しています。意図的に起こす過ち、仕方がなく起こる過ち、知っていても避けることができなかった過ち、気づかずに犯す過ち、生きる上で決して避けることができない過ち……などなど結構あります。過ちを犯さない人間になるのは無理です。「だから、しょうがないでしょう」と思うことは、自我を張ることで重大な過ちです。ですから、素直に、謙虚に、懺悔をする習慣を身につけるのです。朝も昼も晩も、いつでも懺悔しまくることです。私たち出家のあいだでは、目上のお坊さんに会ったら、まず懺悔します。初めて会った人でもです。「私は初めて会った人に何も悪いことはしていないから懺悔しません」ということは出家の世界では成り立たないのです。在家の人々にも仏法僧に懺悔することを教えています。日本人でも理解できるように日本語訳の懺悔文もあります。
この懺悔するというプログラムで、自分の持っている頑固さを直すのです。「私は過ちを犯す人間である」という事実を心に刻むのです。懺悔というプログラムが起動すると、自己いじめプログラムが直しやすくなるのですね。他人から過ちを指摘されたら、「あぁ、そうですね。すみません」と素直に受け取れるようになります。それで人格が柔軟になっていくのです。「誰が悟れるのか?」という質問にお釈迦様は、「柔軟性のある素直な人間なら悟れます」と言われました。「頑固者は絶対に悟れない」とも言われました。素直であるなら時間もかからない。朝教えたら昼には悟れると言っているほどです。では、なぜ私たちは時間がかかるのか? 頑固だからです。頑固というのは、「私は正しい」というスタンス(態度)です。私が正しいのであれば、他人のアドバイスを聞き入れる必要はありませんから。
■慈悲の瞑想で生命に対する差別をなくし、平等にみる能力を育てる
そして次に、慈悲の瞑想で苦しみの世界を抜け出して欲しいのです。なぜ慈悲の瞑想をしなくてはいけないのでしょうか? いろんな理由で様々な説法ができます。自分も他の一切の生命もただの生命であること、自分が特別では無いこと、そのことが理解できれば精神病はすべて消えるはずです。男や女、子供や大人、若者や年寄り、人間や動物という、そのような差異・差別ではなく、生命として平等に観ることができる能力を育てる。そのために、「生きとし生けるものが」という気持ちで瞑想するのです。
これから具体的なアドバイスをします。慈悲の瞑想をするのは自分を直すためです。私たちがただフレーズを唱えればいいと思ってやっている慈悲の瞑想は、上辺だけの代物です。しかし、自己改良を目指す人は、上辺だけでも構わないのでフレーズを繰り返し唱えることから始めるのです。心配する必要はありません。慣れてきたら「慈悲の瞑想のフレーズにあるような人間にならなくてはいけない」という戒めを入れてください。例えば「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱えたなら、生きとし生けるものが幸せでありますようにと思える人間になるよう頑張るのです。「私の嫌いな生命が幸せでありますように」と念じて、そのように思える人間になるようにと自覚してください。そうすれば自己いじめプログラムが徐々に直っていきます。
■慈悲の瞑想は自分自身の修行と知る
慈悲の瞑想をする人は、他人のことをごちゃごちゃ考える必要はありません。慈悲の瞑想は、他の生命に対する大きなお世話ではありません。自分自身の心を成長させるための修行なのです。「『生きとし生けるものが幸せでありますように』と念じたら、本当に他人が幸せになるのか?」と疑問を抱く人は自我の塊です。自分自身の心が他人の幸せを素直に念じられる、何の汚れも無い柔軟な心になることを目指さなくてはいけないのです。要するに、慈悲の瞑想は自分自身の成長を目指して実践するものです。神様の気分になって、「皆のものよ、汝らは幸せになれ」という恐ろしい態度ではありません。この社会で生きていくということは、つねに尊厳を他人に傷つけられるということです。教師が子供に「なんで宿題をやらなかったのか」と訊く時も、子供の尊厳は傷つけられています。社会人として仕事をする時でも、夫婦喧嘩の時でも、それぞれの尊厳が傷ついてしまいます。これは決して避けられない出来事です。一般社会では解決策はありません。
そこで、お釈迦様が推薦するのが慈悲の瞑想です。慈悲の瞑想で心が拡大して柔軟になったならば、その人の尊厳は誰にも傷つけることはできません。他人に「バカ」と言われても、自分の心の中で「あなたが幸せでありますように」という気持ちが起きているからです。言葉を変えると、バカと自分を怒鳴る人のことも可愛く感じてしまうのです。そこまで成長したならば、慈悲の瞑想を実践した人は自分の心にあった自己いじめプログラムを幸福になるプログラムに入れ替え完了ということです。幸福を感じるすべを知っている人は、わざわざ不幸になるプログラムの罠に嵌められません。ブッダの心の改革プログラムを実行すると、苦しみを作る病が完治するのです。再発しないのです。
■慈悲の瞑想の進め方
次に、瞑想の進め方を説明します。まずは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じ続けて、心の中でその言葉が勝手に回転してしまうところまで実践します。それから、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じながら、「そのような人間になります」という気持ちも抱きます。例えば、「私の嫌いな生命が幸せでありますように」と念じることで「嫌いな生命に対しても幸福を念じられる人間になる」と自戒します。慈悲の気持ちを強く感じるために瞑想の言葉を変えても構いませんが、必ず変えなさい、ということでもないのです。「嫌いな人々も幸せでありますように、と思えるような人間にならなくては」と思うだけでも充分です。
一日で大成功を収めなくても構いません。成長とは、植物と同じくマイペースで徐々に起こることですから焦らなくても大丈夫です。失敗しても、たまに腹が立ってしまっても、困る必要はありません。もともと不完全な性格なので、ゆっくり成長すればよいのです。他人にだけではなく、自分にも優しく「一歩ずつ頑張る」という気持ちで取り組んでみてください。
■瞑想が終わっても慈悲の実践は続く
もうひとつあります。瞑想するときは独りでしょうが、終わったら世間で生きなくてはいけません。どうしても他の生命と関わらざるを得ません。自分の目に入る生命がどんな生命であろうとも、自分に関係ある生命なのです。例えば電車に乗ったら他にたくさんの人々も乗っている。窓の外を見たら鳥たちなど他の生命も見える。そのように生命を見た瞬間に「幸せでありますように」「幸福であって欲しい」「元気でいてください」と思ってみてください。この気持ちを応用し差別を捨てるのです。生命は平等であるとみるのです。突然、目の前に虫が出てきたとしても、「ギャー、嫌だ」とは思わない。「嫌だ」と思うのも自己いじめプログラムが反応しているからです。そのように自分の目に入るいかなる生命に対しても「幸せになって欲しい」と思うと、自己いじめプログラムが徐々に書き換えられて、幸福プログラムでいつでも楽しく、笑って生きていられる状態になれます。
■瞑想は偉くなるため・特別になるためするのではない
注意点・落とし穴として、「瞑想して偉くなりたい」と思うことには気をつけてください。これは間違いです。瞑想は偉くなるためにするわけではありません。瞑想は極限に謙虚になる、自我を捨てるために教えているのです。「偉くなりたい」「特別になりたい」と失敗する人が結構います。自我を肯定する環境で育ってきたので仕方ありません。すぐに自分が偉くなったと勘違いしてしまうのです。そういうことも憶えておきましょう。
■幸福は誰かが与えてくれるものではない
最後に、自分は自分で充分です。他人を見て「同じようになりたい、同じ能力を得たい」と思う必要はありません。他人と自分は違うのです。他人と同一になることはできません。しかし、自分自身で自己いじめプログラムを直さなくてはいけません。なぜなら、いかなる生命・人間も幸福になりたいのだから、すべての生命が幸福になるべきなのです。幸福になりたい、という気持ちはすべての生命に一貫しています。自分は自分で幸せにならないといけないのです。他人が勝手に自分を幸せにしてくれることは不可能です。心に慈悲が溢れるようになってください。日頃から慈悲の気持ちで他の生命を見る訓練をしてみてください。そんなに難しいことではありません。心の大きな人間になります。頑張ってみてください。
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