アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「心を落ち着かせる方法」です。

[Q]

   
問題が起こった時に、自分の心が暴れ出して落ち着かなくなります。そういった瞬間に心を落ち着かせる方法というのはありませんか?
 

[A]


■想定外の事態に心が驚く

    これは難しい質問です。問題が起こった時に心が落ち着かなくなるということには、いろいろと理由があります。まず「そんな問題は起こらないだろう」と自分たちが勝手に思っているということがあります。私たちの心の中ではよくあることです。「私は当分、死なないだろう」と思っていたりするでしょう。もしかしたら今日死ぬかもしれないのに、そんなことはないと思っているのです。ですから、お医者さんが「あなたの命が危ない」と言ったとしたら途端にショックで倒れてしまったりするのです。その場合は予測しなかったことが大きな問題です。このように、想定外のことが起こったから、問題に対応できなくて、興奮して、心が驚いてしまって困るということがよくあります。それは憶えておいてください。

■聖者は何も想定しない

    気休めに言いますが、人間が遭遇する問題というのは、とても簡単に解決できるものばかりです。ただ興奮してしまったから正しい対応ができなかっただけなのです。人間が対応できない問題は起きません。「こうなったら、こうする」という答えがいつでもあるのです。それが「いや、こうなるはずじゃなかった」という予断・妄想が入ってしまうと答えが出てこないのですね。私たちは予測しなかったこと、想定外のことに直面すると心がパニックを起こします。一般の人々は想定外の出来事にうろたえますが、修行を完成した聖者は何一つとして予測せず自由に生きるのです。明日のことを想定せずに生きるということは、瞑想をして人格を育てた人々の能力です。明日のことは何も予測しないで元気に生きること、解決できない問題はひとつも存在しないという境地に至ることは、修行して智慧を開発しなければできません。

■聖者ではない私たちの対処法

    聖者ではない私たちはどうすればよいのでしょうか?    心が興奮して落ち着かなくなったら、「なるほど、私はこんな状態になるとは想定していなかったから、このような心境になってしまったのか」と理解して、「もう仕方ない。問題は起きたんだから解決するぞ」と心を変えればいいのです。現実的に問題があるのですから、想定していなかった私がバカだったということで、「逃げられっこない」と対応すればいいのです。日常的な心構えとしては、「私には毎日問題がある。その問題を解決する能力もある」ということをよく憶えておいて、明日どうなるかとあれこれ想定しないことです。「今日はどんな1日になるのか?」「今日の問題は一体なんだろう?」と生きることです。

■問題には2種類のセクションがある

    もうひとつポイントがあります。問題が目の前にあるその時、万策考えたところで「私にはどうすることもできない」という答えが出る場合もあるのです。しかし問題は起きている。その時に悩んだり・困ったりすることは無意味です。なぜなら、私にはどうすることもできないのですから。
    私たちが毎日遭遇する問題・トラブルには2種類のセクションがあることを憶えておくといいと思います。ひとつは自分に解決できるセクションです。あとひとつは自分にはどうすることもできない、要するに管轄外のセクションです。前者であれば、すぐに答えが出てくるはずなのです。自分が行わなければいけないパート(仕事・役割)が見えてきますからそれをこなすのです。
    例えば、人が病気になったとしましょう。これは大きな問題です。それでどうするのかというと、私にできることはこの人を病院に連れて行くことだけです。それが自分にできるパートなのです。それから、お医者さんにどんな病気かよく教えてもらって、どのように看病すればいいのかと手を尽くすことが自分のパート。病気の人を治療してあげることはお医者さんの仕事であって、自分の仕事ではないのです。

■自分のパートを果たすこと

    人が病気になるというような、大きな問題の場合には、自分のやるべきパートがあって、お医者さんのパートがあって、他の人々にもパートがあって、それぞれ全部のパートを合わせたところでやっと問題を解決することができるのです。もちろん、病気になった本人には自分の病気を治癒するというパートがあります。病気というのは薬だけでは治りません。薬はただ何かを補ってあげるものであって、患者の生命力が病気を治すのです。
    なので、患者本人の生命力が無ければ仕方ありません。例えば、病気になったのが100歳近い老人としましょう。もう生命力はあまりありません。ですから、たとえあなたが自分のパートを果たしたとしても、その老人が亡くなる可能性は高い。別にそれは何の問題もありません。仕方がないのです。人の死は自分にはどうすることもできない問題なのです。死そのものは人の管轄外です。

■管轄外の問題も起こる

    そういうことで、私たちの管轄外の問題も起こるのです。例えば津波が襲ってくる。誰だって困るでしょう。では、あなたはどうしますか?    津波そのものは管轄外ですが、自分のパートはきちんとあるのです。高いところへ逃げることです。逃げて命が助かったとしましょう。しかし津波で街はかなり壊れています。「あぁ、困ったな」と悩まなくてもいいのです。家が流されたとしても、自分にはどうすることもできません。そこで気楽に、明るく、落ち込まずに過ごさなくてはいけないのです。「じゃあ、避難所で生活しましょう」と気持ちを切り替える。それが自分のパートです。「どうしよう、家が流されて…」と暗い気持ちになってはダメです。落ち込むのは愚か者のやり方です。
    問題の中から自分に解決できるセクションを見出して、それに対処するということが最善の方法なのです。それならばできますね。自信を持ってください。自分の義務としてやるべきことは、自分の役割なのです。

■自分のパートをさぼるのは悪行為

    私たちは日常起こる諸々の問題について自分のパートをこなさないで後回しにすることがよくあります。これが大変な問題になってしまうのです。自分の義務を果たさないことは「悪行為」だと理解しましょう。悪行為は必ず不幸という結果をもたらします。例えば、子供が病気になってしまったけれど、治療を受けさせようという努力はしなかった。結果として、子供が亡くなってしまった。その人はその後一生、悩まなくてはいけないのです。社会の非難も受けるでしょう。もしかしたら法律で裁かれることになるかもしれません。悪果はそれに止まらないのです。死後も不幸に陥るのです。ですから、私たちは「大したことではない、面白くない、今は忙しいから他の誰かがやればいい」などの理由で自分のパートや義務を果たさないことを見過ごしてはいけないのです。

■管轄外のことを管理しようとするのも悪行為

    自分のパートや義務をしっかりとこなさない割に、人々は管轄外のことを管理しようと無駄な努力をします。管轄外のことに対して手を加えようとすることも悪行為で悪果になります。そうはいっても、人間は調子に乗ってしまって、管轄外のセクションについつい手を出してしまうものです。例えば子供が病気になったら、神様に「助けてください」と、あちこちに行ってお祈りをしたりするのは親心としてはわかりますが、それは管轄外のことです。それでも子供が死んでしまったら「あれほど祈ったのに」と余計なところにまで怒り憎しみを抱いて、本人が自己破壊する羽目になったりするのです。生死という自分の管轄外にまで手を出したことで、その悪行為の結果を受けてしまうのですね。
    ですから、理性のある人は日々出会う問題を二つに分けてください。ひとつは「私のパート(自分の管轄)」を見つけて対応すること。その他は「自分の管轄外」と理解して、そこには手を出さない、放っておくことです。

■他人に頼むのも自分の仕事

    自分にできるパートであっても、「人に頼む」ということはあります。病気の場合は病院に連れて行ってお医者さんに診てもらうとか、どこの病院が専門か調べるなど、そういうことも自分にできるパートです。また、看病してあげたいけれど仕事にも行かなくてはいけない場合もありますね。そういう時は親しい知人にでも連絡して、患者の面倒を一日看てほしいとお願いするというように、他人に頼むことも自分のパートになるのです。そのように自分のパートを見つけて、その都度対応すればいいのです。

■誰もが問題を乗り越える能力を持っている

    これは必ず憶えておいてください。私たちが行わなくてはいけない義務は「できること」なのです。できないことは生命法則の中で現れません。例えば、体に障害を持って生まれた人々には、自分の障害を乗り越えて生きていく精神力があるのです。私たちが途中で障害を持ってしまったら、もうどうしようもなくなってしまい、その問題に対応できる能力がないので途方に暮れるだけですが、生まれつき障害を持っている人々には、その問題を補える精神力が付いているのです。

■法則を破ってはいけない

    言いたいのは、誰にだって問題があるということ、しかもその問題を乗り越える能力も当然あるのです。そうは言っても、心の底では「でも、問題を解決できない人もいるのでは」と思っているでしょう。確かに、問題を解決できない人もいます。そういう人々は、やはりやり過ぎなのです。自我を張って法則を破っているのです。つまり調子に乗り過ぎなのです。自然法則を破る人々は、目の前で不幸になっていきます。
    例えば、借金をするということは、今の自分には経済能力が無いということでしょう。お金の使い方がわかっていない。それでも臆せず「金を払えばいいだろう」という態度を取る。お金が無いのに、どうやって払えるのでしょうか?    それで借金をして借金地獄に陥ることになるのです。日本ではどこを見てもローンの宣伝ばっかりです。商売や事業を始める資金調達のために金融機関から融資をしてもらうことは常識的なことなので問題ありません。私はそれ以外の借金はダメだと思っています。個人に限らず、時々、企業がとんでもない負債を抱えて、税金を払わないで誤魔化したりして、挙句に倒産したりするでしょう。それはどこかで法則を侵してしまって、調子に乗り過ぎてしまい、自分に問題を解決できない、管轄外のところにまで手を出しているということなのです。その場合は、必ず破綻します。必ず壊れます。

■まとめ

    まとめると、
①理性を持って、「私には毎日問題がある。その問題を解決する能力もある」と憶えておいて、明日のことは思い煩わないこと。明日ではなく、今日1日に集中して生きること。
②問題に突き当たったら、「これは自分のパートだ」「これは管轄外だ」と2つに分けてみること。
    そんな程度のことをしておけば、いつでも落ち着いていられると思います。



■出典      『それならブッダにきいてみよう:こころ編1」

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