【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「声聞(しょうもん)ブッダの「ブッダ」は、ブッダとは違うの?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
「ブッダ」にはいくつか種類があるようですが、お釈迦様という「ブッダ」と、声聞ブッダという場合の「ブッダ」とは、格が違うのですか?
[A]
仏教は大乗仏教として変化していった過程でブッダという言葉にもランク付けをするようになったのです。大乗仏教という宗教はブッダのオリジナルの教えから変化したものだとみな知っています。オリジナルの教えを変えたときはどのように影響を受けたのかということも考えたほうがよいのです。お釈迦様の時代でも、インド人の文化はバラモン教の教えを基にしていたのです。ジャイナ教と仏教はバラモン教の伝統的な文化に対抗した教えなのです。歴史の古い伝統的な文化に対立した教えは、伝統を重んじる社会環境では生存するのは難しいのです。しかしお釈迦様の影響は甚大だったので、なにも問題は起きませんでした。しかし涅槃に入られるとお釈迦様の影響は薄くなったので、それまで抑えられていたバラモンの伝統的な文化がまた顔を出し、仏教は異端的な扱いになっていきます。
一部の仏教徒たちは、インド社会で生きのびるために仏教を保守的に守るのではなく、改良したほうがよいのではないかと思ったでしょう。しかし、はじめから完全に語られた教えを改良するということは成り立ちません。それでも一般人の好みに合わせて改良した結果、その努力は大乗仏教として知られるようになったのです。
このグループは新しい経典を書き始めました。新しい教理学を作ったのです。正統派だと言われているバラモン文化に適合できるように努力したのです。要するに大乗仏教のひな型はバラモン教なのです。バラモン教は唯一の神を信仰すると同時に多神教でもありました。ですから当然神々の階級社会が現れます。
大乗仏教では、ブッダという概念をバラモン教の神々の階級社会制度に合わせて改革したのです。如来という絶対的な唯一のブッダがいて、四方八方を支配するブッダたちも作ったのです。
初期仏教ではブッダは正覚者、独覚ブッダ、阿羅漢という三つですが、階級制度ではなかったのです。大乗仏教になると、正覚者は完全に悟りに達しているが、ほかのブッダたちの悟りは不完全だと言い始めたのです。このような悟りの格付けはバラモン教のひな型に合わせたことの結果です。大乗仏教はバラモン教の支配下で実践する宗教になったのです。一部の仏教者たちが自ら望んでバラモン教の植民地になったのです。それが大乗仏教です。
初期仏教では悟りには格付けはないのです。完全たる悟りに達したらみな平等です。お釈迦様は自分も阿羅漢であると説かれるのです。伝道活動を推薦するときも「この世に61人の阿羅漢たちが現れた。人類を哀れんで一人ひとりが幸福に達する道を教えてあげるのだ」と説かれたのです。お釈迦様が、阿羅漢になった弟子たちよりランクが上だとは、説かれていません。
しかし俗世間的に見ると、なにかの差があるはずです。それは明確です。お釈迦様が師匠で、ほかの覚者の方々は弟子なのです。お釈迦様が完全たる悟りの発見者で、弟子たちはお釈迦様が語られた方法を実践してその悟りに達したのです。これは俗世間的な差だけです。悟りの境地の差ではありません。
たとえで説明します。ある人はとても美味しい食事を作ってくれる店を発見します。それから友人たちにその店の場所を教えます。友人たちも案内どおりに行って、店を発見してご馳走を食べます。では、最初に店を発見した人が食べた料理がより美味しく完璧で、あとで案内された人々が食べた料理はそれほど美味しくない不完全なものでしょうか? それはあり得ないのです。案内に従って行って、ご馳走を食べて喜んだ人々は、
案内した友人に「すばらしい店を紹介してくれてありがとう」と感謝するでしょう。仏教の立場もこのようなものです。誰にも発見することができなかった解脱の境地をお釈迦様が発見したのです。解脱の境地に達する道をお釈迦様は明確に弟子たちに教えたのです。弟子たちもその道を歩んで解脱に達したのです。それで弟子たちは師匠たるお釈迦様に感謝の意を表します。けっしてあなたと私は同じだとは言わないのです。バラモン教をひな型に仏教を「改悪」するとき、このポイントを意図的に変えたのです。バラモン教では聖なる目的としている境地に格付けがあるから、仏教の聖なる境地にも格付けをしたのです。間違いでも誤解でもなく、よく考えた上で行なった「改悪」なのです。
初期仏教を実践する人々は悟りに達しても、お釈迦様が師匠であることは忘れません。お釈迦様に対する感謝を忘れないのです。それは言葉で表現しなくてはいけないのです。ですからブッダという単語をお釈迦様にだけ使うことにしたのです。自分たちのことは阿羅漢という言葉で表現したのです(しかしお釈迦様も阿羅漢の一人です)。阿羅漢たちはお釈迦様の教えを聞いて実践して悟りに達したので、「声聞ブッダ」なのです。それは専門用語ですがあまり使いません。
ブッダと声聞ブッダの間で、悟りについての格差はありません。俗世間的には師弟関係という格差があるのです。
■出典 『ブッダの質問箱』