井上ウィマラ(仏教瞑想研究者、マインドフルライフ研究所オフィス・らくだ主宰、マインドフルネス・カレッジ学長)


第1回    死を意識して今を生きる「死念」


■死念について

    死念は、死について具体的に思いを巡らすことによって今ここの生を充実させてゆくための実践であり、四無量心と並んで、マインドフルネス実践が私たちを導いてくれる究極的な到達点の一つである。
    死念が具体的に説かれているのは増一部(Anguttara Nikāya)第六集の「憶念すべきものの章(Sārāṇīya Vagga)」に収録された2経と、『清浄道論(Visuddhi-magga)』における死念についての解説である。       
    増一部の第1経(AN.III.303-306.)では、ブッダが「多くの効果をもたらし不死に到達するもの」として死念を実践するように推奨すると、比丘たちが「実践します」と答える。そこでブッダが「どのように死念を実践しますか?」と具体的に質問してゆくと、比丘たちは「あと一昼夜命があるとしら、その間にブッダの教えを実践します」、「あと半日命があるとしたら、……」、「あと一回食事をするあいだ命があるとしたら、……」、「あと一口食べるあいだ命があるとしたら、……」、「あと一呼吸するあいだ命があるとしたら、その間にブッダの教えを実践します」と答えてゆく。それを聞いたブッダは、まだまだ彼らの死念に厳しさが足りないことを指摘して、「『一口食べるあいだしか命が残っていない』、『一呼吸するあいだしか命が残っていない』と、そのようにいつ死んでもおかしくはないことを忘れないようにして、寸暇を惜しんで修行することが不放逸に生活することであり、漏れ出る煩悩を根絶するために死念を厳しく修行することである」と確認して激励する。

■今ここを生きるために

    この経典における死念の実践は、修行者たちが各自で取り組んでいるブッダの教えを、より緊迫感をもって実践するための動機づけのような形で教えられている。「あと1日あるから……」とか、「あと一回食事をする時間が残っているから……」と思って後回しにしてしまうことなく、この一口を食べる間に、このひと呼吸をする間に、「今ここ」で実践することが大切なのだ。そのためには、この一口を食べる行為に心を込めてマインドフルに食べ、味わい、飲み込みながら観察することが必要になる。
    こうして一口の食物を食べる行為の全プロセスを、ひと呼吸の全プロセスを深く感じ取りながら見つめる集中力が十分に高まったとき、そこに「私」という観念の生まれる余地はなく、誰のものでもない命そのものとしての呼吸を生きることができる。ブッダはそのことを指して『念処経』の中で「身体(呼吸)だけがある」という表現をしており、これが原始経典における無我や空を理解するための入口になっている。
    死念の修行は、このような形ですべての瞑想修行の中に、無我や空を理解して解脱を体験する際の瞑想対象の見え方として埋め込まれている。この点に関しては、後で解脱との関係の中でより具体的に論じてみたい。

■人生と瞑想

    その一方で、「あと1日だけ命があるとしたら……」と考えてみることは、スピリチュアル・ケアの実践やアドバンス・ケア・プランニングにおける人生会議の話し合いを具体的に進めるための手段としては極めて有効であることも忘れてはならない。「あと3カ月の命だったら、誰と何がしたいか?」などについて具体的に考えることは、残された人生を周囲の人たちとよりよく過ごすために、すなわちQOL(生活の質)を高めるために極めて有効な実践である。
    筆者は、スピリチュアル・ケアのトレーニングの一つとして「最期の5分間の呼吸」というエクササイズを創って、「人生最期の5分間の呼吸を、誰と(あるいは一人で)どのような状況のなかで、どのように息をしてゆきたいか」について考え、二人一組で具体的にロールプレイしてもらうことにしている。人生が「あと3ヶ月だったら、1ヶ月だったら…1日だったら、(誰と)何をしたいですか?」と考えていったその先の、最期の瞬間に備えたトレーニングである。
    よりよい人生の最期を迎えるための準備活動における「私」を主語にした時間感覚と、解脱を目指す瞑想修行における言語的な「私」が成立する以前の今ここの時間感覚には、上記のブッダの説法におけるような相違がある。しかし、死という最期の瞬間を想起することによって、誰もが避けることの出来ない最期の時によりよく備えるという点では共通点があることも忘れてはならない。

■三明の解像度と不死を生きること

    この時間感覚の差は、解脱する際の宿住隨念智(pubbenivāsānussati-ñāṇa)、死生智(cutūpapāta-ñāṇa)、漏尽智(āsavakkhaya-ñāṇa)という3つの洞察智(三明)の解像度の差と重なり合っている。宿住隨念智と死生智では、「私」を主語にしたナラティブ(言語的な物語)のレベルで過去の存在を思い出したり、死と再生のつながりを観察したりする。これに対して漏尽智では、その「私」が縁起の視点から仮想現実として解体されることによって、輪廻を含む世界の見え方が一変して、「私」が消えた静けさと安らぎの中に幸せを見出すことができるようになる。これは、無常・苦・無我への洞察(vipassanā:観智)によって、五蘊を「私」だと思い込むことによる苦しみ(五取蘊苦:pañcupādānakkhanda dukkha)から解放される変容体験である。
『スッタ・ニパータ』(『ブッダのことば』p.11-14.)の冒頭では、こうした変容を指して「この世とあの世をともに捨てる(jahāti orapāraṁ)」という表現がなされているが、言語の分節化作用による分断の上に成り立つ「私」という主体観念を超越することによって今ここで「あの世とこの世を共に生き切る」とも言うことも可能であり、そのことを指してブッダは「不死(amata)」という言葉を涅槃の同意語として用いている。
    死を念ずる修行によって不死に導かれる。「私」が取捨選択して無意識下に抑圧してしまっていたものをありのままに受けとめなおして、命の全体性に触れて生かされて生き抜く。後の仏教思想において現れてくる「生死則涅槃」とか「煩悩則菩提」という2極化を超えようとする表現の工夫は、死と不死にまつわる中道的実践を土台にして展開していった無我・空・縁起洞察の発展的な表現系であり、「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」という視線と同じ修行道中の景色を映したものである。

■いつ死ぬかわからないこと

    第2経(AN.III.306-308)では、ブッダは自ら具体的に死念の実践法を次のように説明している。

    私たちは日夜を過ごす中で毒蛇に噛まれたり、転んで頭を打ったり、食中毒を起こしたり、突然の体調不良に襲われたりして、いつ死の危険に襲われるかわからない。その時、「私の中には手放すべき不善の法がないか?」を振り返ってみるべきである。そしてもし不善の法があれば、大きな意欲と努力と不退転のマインドフルネス(気づき・注意深さ)と正しく見極める智慧をもって、その不善の法を手離すべきである。それはあたかも、自分の衣服や髪の毛に火がついたら(ādittacelo vā ādittasīso vā)即座に必死で消し止めなければならないようなものである。そうして手離すことができた時には、その喜びをもって、残された時間をさらに良き法を身につけるように努力してゆくべきである。
(筆者要約)


    死念は、「頭燃(ずねん)を払うがごとく修行すべし」という祖師の教えの源となったブッダの教えであった。そしてまた、吉本伊信(1916~1988)が整備した現代的な内観の原点となった浄土真宗系の一派に伝わっていた「身調べ」における、「今死んだら、後生はどこになるか?」を問い詰めてゆく実践にも受け継がれていた。そしてもちろん、キリスト教のメメント・モリにも通じるものであり、死を思うことを契機として今ここの生を充実させ、究極の幸せである涅槃を目指して生き切るための教えである。

■あらゆる死の可能性を想起してみること

  『南伝大蔵経63清浄道論2』(p.1-24.)における死念の解説では、寿命を全うした大往生のような死に方から、突然の非業な死に至るまで、あらゆる死の可能性を具体的に思い描くことが説かれている。そこでは、受精した瞬間から私たちの人生は死に向かって進んでいることが説かれており、胎児のうちに死ぬこと、出産における死、成長過程での事故死、病死を含めて出来るだけ具体的に思い描いてみるように教えられている。そしてブッダを含めたどんなに偉大な人でも死を免れることはできないこと、何時何処で死ぬかは誰にもわからないこと、さらにこの身心は地球の生態系に根を張り、その命は微妙なバランスで平衡状態を保ちつつも、いつどの瞬間にそのバランスが崩れて死を迎えてもおかしくはないことを考察すべきであると説かれている。
    ブッダの教えに触発された多くの瞑想修行者たちが、当時のあらゆる先端的知見を総動員しながら、切迫感をもって死を身近に感じられるように、生と死の深くつながり合った在り様を詳細に思い描いていった様子が伝わってくる。

■現代的な創意工夫

    筆者はスピリチュアル・ケア教育の中で、こうした死念実践の一環として、①どのように死んでゆきたいか?    ②できれば避けたい死に方、③死ぬ前に会ってみたい人、その人と交わしたい会話とやり取り、④自分の命を支えてくれている他の動植物の死、などについて考えるためのエクササイズを創意工夫してきた。
    どのように死んでいきたいかを具体的に言葉にしておくことは、看取りにあたる家族や周囲の人たちへのよきメッセージとなり、最期の時間を共に歩み出したときのガイドラインとなる人生会議のキックオフである。
    できれば避けたい死に方、一番いやな死に方は、それを言葉にしてしまうとそうなってしまいそうな怖さもあるのだが、自分の中に、それを嫌がるどんな理由があるのかを考えてみるためのよき機会となる。そして、たとえそうなってしまっても大丈夫なように、自分を強く整えてゆくことも役に立つであろう。筆者の場合には、過去生のどこかで、そんな嫌な死に方を誰かに強いてしまった報いかもしれないという、深い懺悔の念が浮かんできたのが収穫であった。
    死ぬ前に会ってみたい人と、その人と交わしたいやり取りでは、筆者は「ブッダに会って、『会いたかったです……』と言葉で伝えたいという思いが浮かび、とめどなく涙が流れてきた。自分がどれほどブッダを頼りとして生きてきたかを自覚しなおし、不在が人生の強い動機になるという縁の在り方(natthi-paccaya)について学びが深められた。
    私たちの命は、多くの他の動植物たちの死によって支えられている。食物をはじめとして、自動車を走らすガソリンや電気のエネルギー源も、過去の動植物たちの死骸の集積に頼っているのだ。さらに、私たちの体の中では、生命現象の平衡状態を維持するためにアポトーシスと呼ばれる積極的な細胞死が命を支えてくれている。そして、こうした微妙なバランスが崩れると、集合体としての人間もあっという間に死んでしまうし、それがいつどんなタイミングで起こってもおかしくはないのである。

【参考文献】
水野弘元[訳]『南伝大蔵経63清浄道論2』大蔵出版、2004
片山一良[訳]『中部根本五十経篇I』大蔵出版、1997
中村元[訳]『ブッダのことば』岩波新書、1984



第2回    腐敗していく死体を観察する「不浄観」から呼吸を観察するマインドフルネスへの移行



井上ウィマラ先生が学長を務める「マインドフルネス・カレッジ」