アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「思考・妄想とは何か」です。
[Q]
思考・妄想に気をつけているのですが、どうしても思考・妄想をしてしまいます。以前、長老から思考・妄想をしなければ安穏でいられるとお聞きしました。思考・妄想が無い時というのは、思考・妄想の核や種となるようなイメージや概念も、全く無いということなのでしょうか? それとも種があったとしても速やかに処理できるということなのでしょうか?
[A]
■気づきが無いのが生命
思考・妄想をやめる方法は教えました。それは実況中継・気づきです。思考・妄想が管理できない、暴走している、依存している状態であるなら、気づきがないのです。どんな人間でも、仏教では「puthujjana(凡夫)」と言いますが、これは一般の生命という意味です。生命の九九.九パーセントが妄想しています。言い方を換えれば、生命は妄想しかしていません。ですから、生命が思考・妄想をやめるということは、そう簡単なことではありません。まず、そこを理解してください。自分の人生は妄想で出来上がっているのです。ですから、皆さんに「妄想をやめなさい」と言うと、どうしても「死になさい」と言ったような感じで受け取るのです。
■俗世間では妄想も使いよう
妄想をやめるためには、妄想より価値のあるものに置き換えるということが必要です。心・意識をより価値のあるものに使っていると、自動的に妄想する時間がなくなります。しかし、たとえば説法するときでも、例え話を考えなくてはいけなかったりします。事前に自分の部屋で、今日はこういう順番でしゃべるぞとか、この例え話や物語を使おうとメモしたりする場合など、思考と妄想が混じっているのです。皆様と一緒にQ&A形式でしゃべっている時も、例え話を出さなくてはいけないことがあります。その時、妄想を使ってストーリーを作ります。ですから、大切な仕事をする時でも、思考と妄想が混じっている、ということです。思考を抑えて妄想だけ現れると、仕事をすることも説法することもできなくなります。ですから、俗世間では妄想も少々使う必要もあると思います。
■妄想と才能
そういうわけで、心も使い方によるのです。妄想も使い方によって結果が違います。小説家や芸術家たちは、妄想を駆使してドラマや作品を創作していますね。ドラマを書いたら、それを俳優が演じます。完璧な妄想の世界です。その場合は、作家や俳優はそれを職業として生計を立てています。結果として、完成したドラマを見て視聴者は楽しくなる。ですから、何かしら世間の人々の役に立っています。
そのような妄想も、人々の成長のために、社会の平和のために、差別を無くすために、誰でも兄弟愛を抱けるように、それを狙って物語を作るのであれば、理性的でカッコイイことだと思います。そのような作品なら、誰もが作品を見て楽しみながら、優れた人間にもなれます。実は、世間では妄想が役に立つ場合もあるのです。
しかし、人類皆がそのような優れた能力を持っているわけではありません。妄想を役立てられるのは限られた人だけです。音楽で言えばベートーベンとかモーツァルトのレベルであれば、俗世間の役に立っていると言えるでしょう。小説などの文学の世界では、素晴らしい哲学を、物語を通じて教えていたりします。
■絶対に妄想はやめたくない
妄想をやめる気がない場合、何としてでも言い訳を探します。そうなると私には助けてあげることができません。妄想をやめた方がものすごく楽です。能力が上がります。欲の感情で妄想していることを考えてみてください。大成功を収めます。仲間もびっくりするほど能力を上げます。仕事のやり方を皆に褒めてもらいます……などなどを妄想すると、結果は、持っている能力も衰退することになります。妄想が減ると、その分、人の能力が上がります。
■妄想の損失
妄想している証拠として一番わかりやすいのは、私たちがよく言う「時間が無い」ということです。どんな人でも、子供まで、「忙しい、時間が無い」と言っています。時間が無いと言っている時点で妄想して時間をムダに使っているという証拠です。いわゆる、結果がゼロという意味です。ポジティブな結果は無し、反対にネガティブな結果は大いに現れています。
時間をムダにしてしまったことだけでも相当な損失です。「時は金なり」という諺もありますからね。金というのは金属のことですが、意味は「価値あるもの」ということになります。私たちには限られた時間しかありません。今はいくらでも時間があると調子に乗っていますが、本当は短い時間しか残っていません。いくらでもないのが時間なのです。時間を増やすことは不可能です。その時間を妄想でムダに使ってしまう愚かさ。
■失ったものは二度と戻らない
若者たちが試験を受ける。試験の制限時間が二時間だとしましょう。二時間で三百問ぐらいの質問がある。質問を作る人も、質問の数と解く時間を計算して作っています。能力が無ければ全ての質問に答えられません。そこで二時間の間にペンをくるくる回してふざけていると、あっという間に一時間ぐらい過ぎてしまう。そこからいくら頑張ってみても、到底全ての問題を解くことはできません。試験官が「あなたはふざけていて時間をムダにしたのだから、あと一時間だけ時間を増やしてあげましょう」ということは決してありません。決まった時間で自分の義務を果たさなくてはいけません。人生は、何でも一回きり(一期一会)ということで流れていくのです。
妄想するということは、何の生産性・成果もありません。妄想して得るものありません。ただ時間と能力を失うだけです。失ったものは、もう二度と戻ってきません。消えたままです。決して取り返すことはできません。絶対的に不可能なのです。
■妄想で能力をダメにする
なぜ人間に時間が無いのか? これは物理学的にも、単に論理学的にも変です。自然法則で考えてみれば、「時間が無い」というフレーズは、とんでもなくおかしな言葉なのです。人間に時間が無いなら、生きている他の動物や昆虫といった生命にも時間が無いということになります。動物たちは「時間がない」ではなく、やるべきことをその時にやっています。やるべきことを後回しにはしません。動物はカッコ良く・美しく年を取って死にます。人間は妄想して時間を浪費してしまう……。
もし、妄想をやめようと努力してみると、やるべきことを今やると、自動的に能力が上がるのです。例えば以前は三時間かかっていたことが、今は一時間もかからずに作業をすることができるとか、本当に能力が上がったのか数値では測れませんが、ただ妄想をやめただけでそういう結果が現れます。学生たちが勉強できないとか、ものを覚えられないと言うのは妄想しているからです。妄想さえやめれば、一時間で教科書を読んで理解することもできるようになります。妄想しながら勉強すると、教科書を読むだけで三日間もかかり、三日目には最初に読んだ部分はとっくに忘れてしまっている状態になる。どれほど損でしょうか? 妄想をやめれば、世界はすぐに幸せになります。
■修行の敵は妄想
瞑想修行では、妄想を敵だとみなしています。修行者は妄想が割り込まないように専念すれば、仏道は完璧に説かれているので、真理の教えに対して疑いは微塵も起こらないでしょう。ブッダが説いた解脱に至る道に対して、ごちゃごちゃと議論することを止めてみてください。仏道は、人間の考え・判断できる範囲を遥かに超えているのです。ブッダが「欠けることなく完璧に道を説きました」と仰っています。ですから、修行においてはブッダの瞑想法を理解し、その通りに実行してみればすぐ結果が現れます。ブッダは他の神様のように、人間から何も期待をしていません。見返りを求めません。ですから、素直に言った通りの方法で瞑想することに意味があります。
■「考える」こととは何か
ブッダは真理を発見して、それを皆の幸福のために教えただけです。私はブッダの言葉を現代的に紹介しているだけです。その中で「思考・妄想をやめてください」と教えています。これは中部経典の第一「根本法門経(Mūlapariyāya-sutta)」で、その内容を教えているのです。もしも理解できるなら、その経典を読んでみてください。全ての物事の基礎は、思考・妄想なのだと説かれています。パーリ語では「maññati(考える)」という単語です。この経典を理解しようとしても骨が折れると思います。当時、お釈迦さまがその説法をした時にでも、皆に理解ができなかったのです。当時でも、今と同じ問題がありました。
■ブッダにしか指摘できない問題
どんな言語であっても、この「maññati」という単語の意味を的確に言い表すことは難しいでしょう。なぜなら世界に悟りの智慧は無いからです。ブッダには「正等覚」という智慧がありました。人類の中で最初に悟ったのはお釈迦さまなのです。その後、他の阿羅漢たちも現れました。「正等覚」というブッダの智慧は、悟る方法を語れる能力なのです。ブッダによって完璧に説かれた方法ですから、その通りに実践してみれば、真理を発見するのにそんな時間がかかることはありません。でも皆さんは妄想したいのですよ。妄想をしたい人に「妄想をやめてください」と言うと、当然苦しく感じます。「妄想はそんなに悪いことなのですか。じゃあ妄想をやめる努力をします」という素直さが無いのです。
本当に妄想をやめてみたら、すぐさま能力を開花することができ、私よりも上手くしゃべれるようになるでしょう。私は少ない日本語の知識でしゃべっているだけですから。ただ妄想をやめてみるだけで、それだけでひとつの偏見ではなく、物事を多次元で見ることができます。しかし、どうしても妄想したいのでしょう? 妄想をやめたからといって、決して思考能力が無くなるわけではありません。そこを勘違いしないでください。
■真理を発見したいならば
そういうことで、修行する人にとっては、妄想こそ悪魔であって敵なのです。仏道では、思考・妄想が悪魔です。しかし、思考・妄想と戦うわけではありません。そもそも思考・妄想をしないように、できないように訓練するのです。訓練では素直でないこと、本気になっていないこと、それが障害となって結果を出すのに時間がかかっているのです。素直に訓練すれば、瞬間で真理を発見することができます。
もしかしたら、もともと備わっていた能力があり、思考・妄想という障害によって、能力が全く発揮されていなかっただけ。障害が無くなることで、もともとあった能力が使えるようになったと感じるかもしれません。とにかく、千五百あるという全ての煩悩は、妄想から現れて来るのです。ただ数学などの論理的な思考には、怒りや嫉妬や憎しみは生まれてきません。しかし、一般的に思考と妄想の区別はつきにくいのです。
■結局 思考・妄想は汚物
修行が苦しくなるのも、やる気が出て来ないことも、瞑想会で修行中でも隠れてスマホを見たりしていることも、「妄想が大好き」という証拠です。妄想とは糞・汚物です。「私は絶対に糞・汚物を離しません」と言っているのと同じことです。
修行は一人ひとりの宿題ですから、自分で思考・妄想をやめる訓練をしなくてはいけません。修行の結果として、後で純粋な思考だけは残ります。修行の結果で消えるのは執着であって、それは感情のことです。能力が開花し、論理的な思考は残ります。頑張ってください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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