〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
井上広法(栃木県光琳寺)
大河内大博(大阪府願生寺)



慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第4回は、浄土宗の井上広法さん(栃木県光琳寺)と大河内大博さん(大阪府願生寺)をお迎えしてお送りします。


(5)絶対他力


■自力と他力

大河内    法然上人が出てくる以前は、亡くなる直前に心を定めて、雑念が消えて、後悔なども全部無くなったら阿弥陀さんが迎えに来てくれるという発想でした。当時のお坊さんは結婚しませんでしたので、今の言葉でいう「おひとりさま」でした。ですからお互いに看取り合いましょう、病気になったら介護をし合いましょうという集団が生まれて、下の世話をするときは仏様との間に屏風を立てて、仏様に下が見えないようにしたり、あるいは亡くなっていく方と仏様を五色の糸で結んで死の恐怖を取り除いていったりしていました。
    臨終の際には「いま何が見えていますか? 仏さんが見えていますか?」とお尋ねして、「仏様が見えてきた」という証言が取れたなら、「あ、ちゃんと心が定まってこの人は確実にお浄土へ行かれるだろう」とほっとする、そのような発想だったのです。
    しかし法然さんはこれに対して「いや違う。自分で心を整えるなんてことはできない。だから阿弥陀さんという絶対的な力が必要なのだ。私たちが七転八倒しているところに阿弥陀さんが来て、そして初めて心が定まって阿弥陀さんが救ってくれるのだ」と仰いました。
    法然さん以前は「自力で心を定めたら阿弥陀さんが迎えに来てくれる」だったのが、法然さん以後は「阿弥陀さんが来てくれるから心が定まる」というふうに完全にパラダイムシフトしたのです。

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大河内大博さん
    私たちはいつどこでどんなふうに不運な格好で死ぬかわかりません。「後ろから突然刺されることもあるかもしれない。排便の途中に死ぬことだってあるかもしれない。だからこそ常日頃からの信仰が大事なのだ。そうすればいつ死んでも阿弥陀さんが迎えに来てくれるのだから安心しなさい」と法然上人は仰った。
    そういうふうにシフトしていったところが絶対他力といわれる法然上人以降の大きな仏教のパラダイムシフトだと私は思っています。

前野    他の宗派を全否定してしまうと、宗派間で争いが起こりそうですが、その後現代に至るまでそういった争いはなかったのでしょうか?
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前野隆司先生(撮影=横関一浩)
大河内    他者からの糾弾は浄土宗に限らず日蓮さんもそうでした。新しいものが出てくれば糾弾されますし、今でも宗教論争、教学論争をすれば相入れないこともたくさんあります。
    しかし「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」という言葉があるように、法然上人は弟子たちに対して「自分の考えが正しいと思って相手を論破するな」、そうではなく「その者のためにあなたがしっかりとお念仏を唱えなさい」と仰いました。「我々は輪廻するのだから今ここで完結する必要はない」と考えられていたのもあって、「自分が正しい。だからお前は邪教だ」と言うのではなく、大切にすべきは「自分の器がどうであるか」であると。相手の器がどうかではなくて自分の器がどうであるかですね。だから無駄な争いはしないで、あなたはしっかりお念仏をお唱えしなさいと一人ひとりに呼びかけるというのが法然上人の布教スタイルでした。
    ですから浄土宗の僧侶は今もどちらかというとおおらかですし、あまり論争を好まない傾向があります。
    もちろん法然上人も自分の教えを主張してはいましたが、決して相手を論破しようとする意図ではなくて、純粋に自分の救いとしての表現をしたのではないかと思います。

井上    法然上人は、「私が救われていく方法はなんだろう」と幅広く仏教全体の中から探したときに、天台止観や密教、あるいは奈良の仏教などいろいろなやりかたを実践なさいました。しかしどれも上手くいかず、唯一最後に残されていた方法がお念仏だったのではないかと思います。
    どれが良いとかどれが悪いとかではなく、時代とその人によって向き不向きがある。じゃなかったら未だにこんなにたくさん宗派が残っているはずはないでしょう。法然上人の場合はそれがお念仏だったのだと思います。


■念仏至上主義

──法然上人はパラダイムシフトを起こされた、すなわち浄土宗はこれまでの宗派とはまったく違うものという解釈でよろしいのでしょうか。

大河内    通仏教(つうぶっきょう)という言い方をしますが、仏教全般に共通する教理、これはしっかりと浄土宗にも残っています。たとえば写経をする、写仏をする、座禅をする、あるいは悪を改めて良い行いをする、それらがすべて浄土宗の中にも残っています。
    ただ、それらはあくまでもお念仏の助けになるものという位置付けです。写経をしたら最後にお念仏を唱えましょう、座禅をしたら最後にお念仏を唱えましょうというようにお念仏を中心にしながら、これまでの仏教も大切にする。なぜならば残念ながら私たちは自力で悟りを開けるまではいけないからです。
    法然上人は決してこれまでの仏教を批判したり否定したり、一切いらないと言ったわけではなく、念仏をその当時の人たちに受け止めてもらえるように、このような方法を用いた人だったのではないかと思います。

井上    簡単に言えば念仏至上主義ですね。いかに念仏を唱えやすい環境を作れるかが大事なので、たとえば一人で唱えられないのであれば結婚して夫婦となって一緒に唱えればいい。逆に人と一緒にいると唱えられないのであれば一人になって唱えればいい。夏暑くてお念仏を唱えられないのだったらクーラーをつければいいし、眠くてお念仏が唱えられないのだったら、一回寝て目が覚めてからお念仏を唱えてもいい。写経をしたほうがお念仏が捗るのであれば写経をしたほうがいいし、僕みたいにマインドフルネス瞑想をしたほうがお念仏が捗るのであればマインドフルネス瞑想をすればいい。木魚を使ったほうがよければ使えばいいし、木魚がなくてもよければ使わなくていい。とにかくお念仏を唱えるためにどういうふうに自分自身環境を作るかなのです。
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お念仏を唱える井上広法さん(写真提供=井上広法)
(つづく)

2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年7月26日    オンラインで開催
構成:中田亜希


(4)法然上人の革命
(6)破戒と無戒