アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「気づきの意味」です。

[Q]

   「気づきの瞑想」ということですが、「気づき」には幅広い意味があると思います。「気づき」とはどういう意味なのか、どういうことなのか教えてください。

 
[A]


■気づきの理論を理解する

    「気づき」について、どのようなレベルで説明していいのかわかりません。私も説明する場合は、いろいろとレベル・ランク・範囲というものがあります。ですから、答える幅が広すぎて難しいのです。
    はい、では「気づき」というものがどういうことなのか、理論的なポイントだけ説明してみます。理解できるかどうかわかりません。
    「生きる」ということを私たちは、すぐに忘れてしまいます。どんな現象も、何かと何かがぶつかって現れる結果なのです。それは命であろうが、宇宙であろうが、すべての現象はあるものとあるものが触れて、組み合わさって新たな現象が発生することなのです。そのどちらも永遠ではありません。例えばマッチがあります。マッチ棒があって、それからマッチ箱にザラザラとした側薬という部分があります。マッチ棒の頭薬が側薬に擦れると、炎という現象が発生します。炎は永久的ではなく、マッチ棒がある限り、また空気がある限りで燃えます。燃え尽きると、炎という現象は消えてしまいます。

■現象世界を因果法則として捉える

    では、炎という現象について何が真実なのかというと、マッチ棒でもマッチ箱でもないのです。マッチ箱の側薬も擦る度にすり減っていく、時間が経つと湿気によって機能しなくなってしまう。マッチ棒も同じように、どちらも変化していく。Aがあって、Bがあって、AとBがぶつかって組み合わせると、Cという新たな現象が起こる。いつでも私たちはCという現象世界の中で生きているのです。しかし、Cという現象の世界も絶えず変化していくのです。Aといっていたものも、結局はCなのです。Aは、別なAとBが組み合わさってできたCなのです。Bも同じことです。あるA₁とB₁を組み合わせたCと、別なA₂とB₂を組み合わせたC₂を、それをA₃(=C₁)とB₃(=C₂)として組み合わせ新たなC₃が生まれたというのです。物事の流れを仏教的な因果法則で説明する場合、このような原因と結果の流れがあるのです。これは授業で説明するような内容で、一般的な説法ではあまりこのように説明しません。
    それで「生きる」ということは、AとBがぶつかってCという現象が起こることだと説明しました。具体的には、耳という器官のAがあって、空気の振動というBがある。このAとBが触れると、聴覚というCが生まれるのです。Cという現象もやはり一時的なのです。耳という器官のAが機能していなければ、聴覚Cは起こりません。空気の振動Bがなければ、また聴覚Cは起こりません。このように肉体の中に眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官の窓口があって、そこに色声香味触法という六つのものが触れるということになっています。

■二つのものが触れる時 知覚が生まれる

    眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、それぞれに眼の場合は視覚(眼識)、耳は聴覚(耳識)、鼻は嗅覚(鼻識)、舌は味覚(舌識)、身は触覚(身識)、心である意は意識という六つの現象が生まれるのです。それも炎という現象と同じです。それに気づくことが、本当の気づき(sati)なのです。Cという現象に騙されないことです。耳があって空気の振動があって、互いに触れると聴覚という現象が生まれる。私たちは聴覚が素晴らしい・正しい・事実だと、これこそ真理だと勘違いしてしまうのです。別な言い方だと、聴覚に操られているとも言えます。実際には音(空気の振動)に操られているわけではなく、聴覚に操られているのです。他の視覚・嗅覚・味覚・触覚・意識、それぞれに操られて「これこそ本物だ」「これこそ事実だ」と生きているのです。それはマッチの例えで言うと、炎を見て「炎がある」「実体がある」「これこそ事実」と言っていることと同じです。炎は一時的に燃えているだけで、瞬間ごとに消えていくのですが、そこは見ないのです。
    ですから、その現象というシステムの流れを確認することが、仏教の専門的な意味での「サティ・気づき」なのです。この説明は最終的なバージョンで、これ以上の説明はありません。理解できるかどうかわかりませんが、憶えておいてください。各自で実際に確認してみないといけません。その確認しようという作業が、気づきです。

■感覚や知覚の流れをそのまま観ることが気づき

    いまも空気の振動があって、耳に触れて聴覚が生まれている。現実にいまあなたは私の言葉を聴覚として聞いていて、それが事実だと受け取って生きているのです。そういう理解とは別に、私の発している言葉ではなく、空気の振動が耳に触れて聴覚が生まれる過程・流れを確認する。それが正しい気づきなのです。この気づきには訓練が必要で、わかりやすいように実況中継しましょうと言ったり、観察しましょうと一般的な言葉で説明しているのです。気づき・サティというのは、仏教科学として専門的にみると、認識・感覚という現象の過程・流れを確認することなのです。その過程・流れには、何もないのです。「私」という何か、変わらない実体、物質、魂、永遠、神、神秘など、何ひとつありません。ただ絶えず変化していくだけです。そして執着に値するものは何もないと発見すれば、次の瞬間に解脱に達するのです。理解できましたか?    頑張れそうですか?    一度ご自分で確認してみてください。



■出典        『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編3」

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