アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「五感で感じることは幻なんですか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    「味」とは幻想的な感覚だと聞きました。「おいしい」という味の感覚は、自分の中においしいという概念があって、それに当てはめて作り出している幻想だとわかって衝撃を受けました。自分にある概念によって作り出しているものが「妄想」だとすると、すべてのものは眼耳鼻舌身意から入ってくるデータを自分の偏った概念に当てはめ、幻のように作り出したものに過ぎない、という解釈でよろしいでしょうか?

 
[A]


■把握しきれない想蘊(saññākkhandha)の世界

    そういう理解で結構です。
    もうひとつのポイントは、「概念」と言ってもそれが何なのか自分でも知らないということです。例えば何かを食べて、「これ、おいしい」と言うでしょう。何か概念があって、それに当てはめて0(ゼロ)か1(イチ)かと調べた結果なのです。では、何と比較したのでしょうか?    私たちはそれさえもわかっていません。
    例えば、皆さんは日本人ですから日本の音楽を聞いているでしょうが、いきなりアフリカの音楽でも聞いたら、「へぇ、結構いいな」と思うこともあるでしょう。そういうふうに思うためにも概念が必要なのです。それは何なのか、私たちの意識には出てきません。しかし、あることはある。それは五蘊の中で言えば「想蘊(saññākkhandha)」に当たります。
    「これはユリの花」「これはバラだ」とかいう程度の場合は、頭で意識できています。バラの花ならこんな色・形であるべきだと、薄々知っているからです。でも、そのように全部のことを知っているでしょうか?    特に味の場合、おいしい・まずい、音の場合でも心地良い音とうるさいと感じる音があるのはなぜでしょうか?
    私たちは膨大な概念を持っているのです。すべての概念にしっかりと全部気づくということは無理です。ですから、修行中にはアクティヴ(活動中)になっている概念に気づきを入れなくてはいけないのです。

■潜在煩悩にはお釈迦様以外気づけない

    貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)という煩悩の場合、煩悩は全部で1500ぐらいあります。自分の心に1500のどれが現れるのかはわかりません。どの煩悩も現れる可能性があります。ですから、仏教用語では煩悩を「随眠(anusaya)」と言って、「現れる可能性がある」という意味で使っています。私たちの細胞も生きています。すべての細胞にガンになる可能性があります。しかし、あるのは可能性であって、実際にすべての細胞がガンになるわけではありません。
    概念の場合でも同じようなことがありまして、仏教ではいわゆる煩悩を、煩悩(āsava 漏)と潜在煩悩(anusaya 随眠)と二つに分けています。潜在煩悩はお釈迦様以外は気付くことができません。私たちはいま働いている・アクティヴになっている煩悩(āsava 漏)に気付きを入れるのです。
    性格にも同じことが言えます。自分の性格について、ある程度は把握していますが、条件によってはとんでもないことをしでかす場合もあります。それも、自分に隠れていた性格が現れたということです。何かのきっかけで眠っていた性格がアクティヴになってしまう。ですから、人が速やかに解脱に達するように指導する場合、お釈迦様にだけインアクティヴな潜在煩悩(anusaya 随眠)を読みとることができました。
    例えば遺伝子を読みとれば「この人が持っている、ガンになる遺伝子に少し変化がある」とわかります。だからといって、必ずガンになるという確証はありません。
    仏教に遺伝子は関係ありませんが、お釈迦様の指導レベルでは、あたかも遺伝子を読みとるように弟子を導くことができたのです。このお釈迦様の能力は桁外れのものです。ですから、お釈迦様が指導すれば皆、素早く解脱に達したのです。



■出典    『それならブッダにきいてみよう:こころ編3」

こころ編3.jpg 152.66 KB