【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「仏教的には、どのように日々の闘病生活を過ごすのがよいのか」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
C型肝炎のインターフェロン治療を受けています。日々熱があり、対処として解熱剤を服用して解消し、切れるとまた熱が出て同じことを繰り返しています。そんな中でしんどい/少しましだという風に感情だけにとらわれ怒りが出たり、焦りの気持ちにとらわれたりしています。実際毎日体がだるく、しんどいので感情的になるのもやむを得ないのかとも思っています。しかし、落ち着いて冷静に生活を送るようにしたいので質問させていただきます。このような状況で仏教的にはどのような視点でとらえて日々生活していくべきかアドバイスを具体的にいただきたいのです。
[A]
■存在への愛着を捨てる「肉体の観察」
このような場合は初期仏教では以下のように観察します。
「この肉体は病の巣であり、苦しみの泉です。
たとえ健康だと思っても、絶えず衰えていくものです。
無常な肉体に執着すればするほど、苦しみが増します。
肉体にとどまらず精神さえも病気になります。
肉体的な苦しみはこらえて我慢することもできますが、それに伴う精神的な苦しみは耐えがたいのです。
苦しみしか作らない、また壊れてしまう、やがて死体として処分される身体に執着しないことにするべきです。
肉体の苦しみを瞬間、瞬間ごとに観察します。
瞬間の苦しみなので、精神的にも参ってしまう価値はありません。
たとえ身体が壊れても、心が堕落しないようにします。
死後、腐る肉体は持って行けるものではないのです。
しかし、汚れた心で死んだら、その精神的な汚れを死後まで持ち運ぶことになります。
だから『身体が病気で倒れても心が病気に陥らないように』と励みます。
常に『一切の現象は無常である』と念じます。
無常なる現象には執着する価値が無いことを認めます。
無常なる現象には期待することも、希望を抱くことも無意味なので、止めるように励みます。
私の肉体の苦しみによって感情的になり、他人も嫌な気持ちにさせたり、他人に迷惑を掛けたりして、新たな悪業を作ることもやめます。
一切を放棄する、棄てる、諦める、無執着になる精神的な力がつくようにします。
私はこの苦しみを、『存在への愛着を棄てるべき』という戒めとして受け取ります。」
以上です。
どうか頑張ってみてください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:こころ編2」