中島岳志(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)
第3回 利他が成立する瞬間とは
先ごろ『思いがけず利他』(ミシマ社)を上梓された、政治学者で仏教にも造詣の深い中島岳志氏に、利他の本質とは何か、お話を伺った。全4回に分けて配信する第3回。
■慈悲の瞑想と利他
──意志的な計らいという点で質問です。パーリ経典の「メッタスッタ(慈経)」の教えに基づいた慈悲の瞑想では、まず自分の幸せを願い、それを他者へと広げて行きます。そうやって意識して幸せを願うことで、自分のなかに慈悲の心を育てていく実践なのですが、ここまでのお話から、どう利他と結びつくのかをお伺いしたくなりました。
仏教における利他は、やはり自己の幸福と地続きのものだと思います。大乗仏教では利他が働くのは自分のはからいでなくて、菩提心が宿ったときだとされます。もちろん、その入り口では菩提心の宿る器になっていこうと意識するとは思います。でも、そのうちに慈悲が慈悲をし始めるんですよ。
陶芸のろくろを回している職人は、美しい壺を作ろうとすると良いものができないそうです。けれども、ずっと仕事を続けて手慣れてくると、仕事が仕事をし始める。職人のはからいがなくなり、勝手にろくろが回り始めて、勝手に手が動いていき、そして作品ができる。手先が主体を超えて、ものを作り始めるのが職人の世界です。
染色家で人間国宝の志村ふくみさんは、繰り返し「色をいただく」という言い方をします。こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせても思った色が出ない。そうではなくて、草木にまかせて私が色の宿る器になったときに色が出始めると言われます。
このように、計らいを超えたところが重要です。けれども、そこに至るまでには、最初はこういう作業をしようと思わないとできないですよね。でも、それをやっているうちに、はからいを超えたところに行くというのが、たぶん瞑想だと思います。だから瞑想の入り口の手段としては意識しないといけないですよね。でも、やがて瞑想が瞑想をし始めます。
とはいえ、最後の本当の慈悲は仏様しか持てないのではないでしょうか。僕たちには慈悲を持つことすらできないと思わないと、「慈悲的な俺は偉い」という利己になってしまいます。