アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「能力が無いことは悪ですか?」です。

[Q]

  能力が有る・能力が無いと言いますが、「能力が無いということは悪である」と聞きました。どういうことか教えてください。

 
[A]


■能力とは「巧み」な生き方のこと

    俗世間的な「能力」という意味で理解するとわからなくなると思います。俗世間が褒めたたえる能力というのは欲の世界ですから、私は別な単語を使って能力を説明します。「巧み」という単語です。私たちはいつでも何かしらの行為をやらなくてはいけないのですね。寝ている時以外は、身口意によって何か行為をしています。それには終わりがありません。
    その何か行為をする時に失敗無くしっかりやる。それが能力が有る・無いということになるのです。能力と言っても決して大胆なことではありません。水を飲もうと思ったのにこぼしてしまったとしましょう。水がこぼれたことによって、新たに何かしなくてはいけなくなりました。濡れたところを拭くということです。拭く時は、嫌な気持ちにならずキレイに拭くのです。それが行為において「巧み」(能力がある)ということになります。これが、私が言いたかった能力の意味です。後味が悪くない、問題が起きていないということですね。濡れたところを面倒くさいから後で拭くとなると、染みになってしまったりして、拭いても汚れが取れなくなってしまいます。それで洗剤を使わないといけなくなる。洗剤を使うと、もしかしたら床やカーペットが傷む可能性もあります。そうすると結果が悪くなります。
    絨毯などに何かこぼしたりしたら、すぐに拭けばキレイにできますが、放っておくと専門の清掃業者にお願いする羽目になったりします。そういうことになると、能力が無いということになります。例えば絨毯に醤油がこぼれたとしても、その瞬間に拭くなどして処置すればキレイにできます。その場合は能力が有るということになります。要するに結果が良いということです。醤油をこぼしたとしても後味が決して悪くない。「あぁ、良かった」と思えるわけですから。

■巧みな行為は智慧につながる

    瞬間、瞬間でそういう生き方をして欲しいのです。それは仏教用語で「巧み/クサラ(kusala)」と言います。その巧みな行為が智慧に繋がるのです。ですから、能力といっても世間で言っている意味ではありません。瞬間、瞬間の具体的なことなのです。その都度、その都度の行為のことなのです。人生をそんな大げさに見ないでください。「水が少しこぼれた。では次にどうすればいいのか」というような程度で見てください。難しくないでしょう?    
    例えば、人に紅茶を出そうと思って運んでいる時に、皿に紅茶がこぼれたとしても別に大したことではないでしょう。ちょっとカップをどかして皿を拭けば、前よりキレイになったりします。能力というのはそんな程度のことなのです。「前より良い結果になった」ということ。これは、とても大事な人生哲学です。瞬間、瞬間のことについて巧みにやる。後味が悪いような行為はしないと決めておく。それがクサラの生き方なのです。クサラには完成があります。クサラの完成は悟りです。善行為でも功徳の完成はできません。悪行為にも完成はありません。今の話で理解してみてください。能力といっても難しいことはありません。簡単ですね。誰にだってすぐに巧みに生きることが可能です。
    自分を否定するように「あぁ、またやっちゃった。いつも私は失敗ばっかり」と落ち込んだりするなら、まるっきり能力が無いという証拠になります。下手な生き方です。失敗なんか気にしないで「じゃあ、こう対処すればいい」と巧みに生きてみましょう。以上です。



■出典        『それならブッダにきいてみよう:こころ編3」

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