【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「輪廻と親子関係」の違いについて、スマナサーラ長老が開設します。
[Q]
慈悲の瞑想のフルバージョンに登場する言葉について質問があります。
「無始なる輪廻のなかで、私の母でなかった生命はいません。無始なる輪廻のなかで、私の父でなかった生命はいません」
というフレーズにとても感動しました。生きとし生ける生命がかつて自分の親だったと念じる事で幸せな気持ちになれましたし、そういった気持ちのお陰で慈悲の瞑想もはかどったと思います。ただ、長老の著作である『ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる』(サンガ刊)という本において「今の人生で親子として巡り合ったからと言って、必ずしも過去生で親子だったわけではありません」という記述があったのでちょっと戸惑ってしまいました。
[A]
■無始なる輪廻の中では誰もが家族です
私たちは自分の心清らかにするために〝無始なる過去から〟の生命の関係を観察するんですよ。その場合は誰だって親子になっているはずなんですね。しかし実際、私たちが今生きている場合は〝無始なる過去から〟の影響は受けません。例えば一回前の生まれ変わり、二回、三回前とかね、その程度の範囲の影響は受けるんです。だから今、自分の子供が過去生でも自分の子供でいたという事はほとんどありません。絶対に無いとは言えませんが、仏教の経典によれば、五百回ぐらい転生を遡らないと可能性は低いですね。そんなに影響は感じないんです。ある過去生で誰かに凄い恨みを持っていて、その恨みを晴らすためにその人の子供にならないといけない場合は親子になってしまいますよ。そうやってできた親子関係では色々トラブルも起きるでしょう。そこら辺を説明したんですね。
慈悲の瞑想の場合は制限なく、全ての生命を慈しむんです。例え敵であっても慈しむんです。『ノコギリの経典』 (Kakacūpama-sutta)でお釈迦様が比丘たちに「あなた方はね、乱暴な人々が来て、逆さに吊るされて両足をノコギリで切られたとしても、相手に対して嫌な気持ちになってはいけない。そうなったらもうブッダの教えを守っていないことになるのです」と、慈悲の場合はそこまで厳しく言っているんですね。しかし親子の関係の色んな恨みやら、ケンカやら、そういうのはそこら辺の範囲で解決しなくちゃいけない。それだけです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:教育編2』