アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「あるがままを受け容れる生き方」です。
[Q]
長老が書かれた、『バカの理由(わけ)』(サンガ刊)という本の中に「如理作意」という言葉がありまして、「観たものをあるがままに受け入れて認識する心の働き」と書いてありました。
私も「如理作意でいこう」と思いながら暮らしているのですが、この如理作意的な生き方と言いますか、物の見方についてお教えいただければと思います。今日のお話しの中に「あるがままに観る」という言葉もありましたが、よろしくお願いします。
[A]
■ドライに物事を観ること
「如理」というのは、理に適って、理に合わせて思考するっていう言葉ですが、パーリ語では「yathābhūtaṃ」で、まぁ 理論(論理)と同じことですね。
私たちが考えると必ず感情が割り込むんです。そうなると如理作意になりません。物事はドライでいいんです。これだからこうなっていて→こうしたら→こうなるでしょうという思考です。「あぁ! これはダメだ…やっぱり…」と感情的になると「ダメだ」というところが自分の気持ちなんですね。
例えば子供に勉強を教える時、当然勉強なんかしたくないからガチャガチャしていて落ち着かないんですが、私は「どうぞ! 勉強したくなければ そのまま遊んでいてください。その結果は君たちのもので、私には関係無いし、さぼって遊んだらその結果はどうなるか自分で考えて、それでもお好きにどうぞ」と。とても冷たい言葉でしょう。そうするとみんな「うわっ……これはヤバイ!」とまじめに勉強します。ここで「そんなことダメですよ」と言っちゃうと自分の〝気持ち〟になってしまうんですね。
ある日、私の授業で試験をすることになった時、生徒がカンニングの計画を立てていたことが判ったんですね。だからすごくドライに「皆様はカンニングしたいようですね、でももうそんなことはしなくてもいいんです。どうぞノートや本や参考書やらを全部持ち込んでください。私は監督せずにさっさと教室を出て、時間になったら戻ってきます。時間は厳守で」とそれだけ。「自分で判断しなさい」ということです。それも如理作意なんですね。他の生徒がノートなどを参考にしていい点数を取れそうだったら「これはマズイ、自分よりいい成績を取ってしまう」とみんな一斉にノートなどを見ながら回答するでしょう。実は点数にはあまり差は無いんですよ。能力次第ですから。
如理作意というのは自分の気持ちを割り込ませないことなんですね。ドライに物事を観なさいと。だから、家族のことにしても自分の子供のことにしても、すごくドライに考えれば上手く観えるんです。ドライというのは「純粋に理論的に客観的に」ということですね。自分も入れていないし、他人も入れていない。物の見事にうまく進むんですね。
国会議員なんかはいつでもガチャガチャしていて何を言っているのかさっぱりわからない。それは感情を出しっ放しだからでしょう。知識人なのにとんでもないアホなことや余計なことを言ったりするのは、自分の地元にアピールしたいからです。「ウチの先生は頑張っているんだよ」と言われたい。それは国会に対して迷惑でしょうに。国会中継を見ても無駄話ばかりで、だから私はその時にこう考えるんです。この方々は誰もバカではない。きちんと勉強しているし研究会にも参加している。データもちゃんと調べている、むしろエリートだけど、喋るとこんなバカっぽいのは何故なのかと。これでは如理作意ではなく感情で動いているからだと。感情で押し通しても相手を説得できないんですけどね。
如理作意は論理的に客観的に、私の都合でもあなたの都合でも無く、あるべき状況を発見することです。「ドライ」という言葉を使いましたが、あれこそ智慧なのです。智慧には感情がありません。感情が無い場合をドライと言うでしょう? でも、如理作意思考をする人は、そのうえ明るいんです。
感情を割り込ませないということだけ憶えておいてください。一日にして出来るわけではないので、試行錯誤しながら「どうして私の考え方は、皆に拒否されるんだろう?」とじーっと観察すると、「なるほど、自分の感情が入っていたからだ」と観えてきます。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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