【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「傲慢な上司に困っている」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
私の上司は「自分はが正しい」と頑固に思っている人です。上司が傲慢な場合、間違った意見でも従わざるを得ず、理不尽で悩んでいます。
[A]
■どんな人間にも特色がある
あなたは自分の上司を「傲慢だ」と思っている。そしてそれが「正しい」と思っているでしょう? そこが問題です。「私が思う、ゆえに正しい」という理屈なのです。上司も傲慢かもしれませんが、その上司のことを「傲慢だ」と思う自分も傲慢ではないのですか? それには気づかないでしょう。
傲慢なのは当然のことで、どんな人間にもそれぞれの特色があるのです。けれども皆、他人の傲慢は許さずに、自分の傲慢だけは正しいと思っています。
皆そういう生き方をしています。だから、上司が何を言ってもそれはその人の問題で、自分まで苦しむ必要は無いのだと理解しておきましょう。でないと上司は部下を叱ってストレスを発散できますが、上司を怒鳴れない自分は自分の心を痛めつけなくてはならず、自己破壊になってしまいます。
《しかし、上司は誰が見ても馬なのに「牛だ」というような人なんです。》
それでもわかりませんよ。もしかすると本当は牛なのかもしれません。皆が「馬だ」と言っているからといってそれが正しいとは限りません。人々が「この世は幸福に満たされている」と言ってるのに、ブッダ一人が「苦である」とおっしゃったのでしょう。皆と違うことを言っているからというだけで、「本当にバカではないか?」とは言えないでしょう。
上司の傲慢はそう簡単には変えられません。自分がそう思っている限り人生は苦しいのです。その上司の意見に従おうが逆らおうがどちらでも苦しくなる。その苦しみは自分の「我は思う、ゆえに我が正しい」という、あの誤解が生んだのです。
解決方法は、自分が修行して智慧を育てることです。上司を直すことが解決ではありません。「上司の傲慢さを破ってあげよう。私は正しいんだからこのままでいい」と、相手を壊すやり方ではうまくいくはずがないのです。そんな考え方だったら、人類を皆、直さなくてはならないことになってしまいますね。だって皆、傲慢なのだから。皆が傲慢であれば、自分だけ傲慢では無いということはあり得ないでしょう?
とりあえずは落ち着くことです。あれこれと気にせずに、まず上司の言うことをよく聞く。もしかするとあなたは、上司が傲慢だと思い込んで、言うことが耳に入らないのではないですか? 上司の言うことも聞かずにあれこれ言うと、上司が反発するのは当たり前です。それで「こいつはやっぱり傲慢だ」とまた思うのです。
■人間関係はすべて「相互関係」
人間関係は全てそういう相互関係で起こるんです。普段はニコニコしている人でも侮辱されると怒ります。それで「あなたは怒りっぽい」と文句が言えますか? 侮辱した人にも原因があるはずです。その二つがぶつかったところで怒りが出た、別のものがぶつかったところで落ち込んでしまった。そうやって感情があらゆる原因結果によって回転していくんです。
温和に見える人でも、嫌な環境に変わったら人を殺してしまうくらいの憎しみを持ってしまうかもしれません。その場その場で私たちの性格はグルグル変わるんです。部下の態度によって上司は傲慢という仮面をかぶる。こちらの態度が変わるとまた別の仮面をかぶることになる。
相手の性格は自分の態度次第。性格とはそんなものです。自分の奥さんが鬼の仮面をかぶるか、観音様の仮面をかぶるかは、お互いの態度で決まるんです。そういう風に理解すると人間は結構おとなしくなります。かなり安全に生きていけますよ。
上司に傲慢の仮面をかぶせたのは自分だと気づくことです。人は怒りの仮面やら、嫉妬の仮面やら、めちゃくちゃ欲張る仮面やら、無数の仮面を持っています。その場その場に合う仮面をかぶって外に見せるのです。愚か者は「こいつは怒りっぽい性格だ」と決めつけてしまいますが、その人が永久的に怒っているのではなく、その都度その都度、仮面を変えているんです。
上手な人は仮面を変えるのが速いのです。下手な人は別の仮面に入れ替えるまでに、かなりの時間がかかります。
《自分で意識的に上手に仮面をかぶるようにすれば良いのですか?》
まあそうですが、それは普通の人にはできないと思います。
《人を管理する立場の人は、わざと怒るふりをしたり、ニコニコするふりをして、仮面を入れ替えているのではないですか。》
そうやって意識的に仮面をかぶることができるのはかなりの人格者です。「では怒ってやろうか」と考えて怒ることは普通の人にはできません。そういう怒りの場合は、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)の怒りではないんです。
わざと仮面をかぶるということはまずあり得ません。普通は「嫌味を言われると怒る」「誉められたら喜ぶ」ということになるのです。「部下が言うことを聞かないと傲慢になる」というのもそういうパターンの一つです。だって上司が部下に「お願いします」と土下座はできないでしょう?
《個人レベルでは、皆「自分が正しい」と思っていて、人に自分の考えを押しつけられないということはわかりました。しかし、組織には組織の目的があったり、社会には社会常識があったりします。その線から外れた人は「あの人は常識が無い、行儀が悪い」等と非難されることになると思いますが、それもやっぱり「各人が持っている作法とか、目的に対する視点が違うからだ、それぞれが自分が正しいと思っていることをやっているだけだ」と見るようにするべきなのでしょうか?》
そうした方が良いと思います。楽になります。
《自分が志願して組織に入ったなら、するべきことをするのは当然で、そこから外れるのはおかしいと批判することも、厳密に考えれば違うわけですね。》
■理性で心の柔軟性を保つこと
そういうことになりますね。志願して組織に入ってみても抱いていたイメージや計画と違うところだなぁと発見してしまったら、別な行動をしたくなるのも無理はありません。しかし、わがまま好き勝手に生きることは決して成り立ちません。自分が本当に正しければ(真理を悟っているならば)別ですが、そうでない私たち、将来がわからず人生経験が少ない私たちは、知識人や経験者の、自分のことを心配する人の話・アドバイスを聞くべきです。例えば子供は、勉強が好きじゃなくても「人はそれぞれだ」と理解した上で話し合えば、「自分のことを理解してくれている」と、耳を傾けるんです。
とにかく、「私が正しい」という思考がすごくややこしくて、とても性質が悪いのです。「このおにぎりはおいしい」と思うことは自分ではコントロールできません。そこで、他の人が「まずい」と言ったからといって、「どちらが正しいのか、どちらに従うべきか」という考え方は間違っています。私にはおいしく感じるし、あなたにはまずく感じる、それだけの話なのです。それを、「私がおいしいと言うのだから、おいしいのです」と押しつけるのは良くありません。花を見て「きれいだ」と思うのは人間であって、犬にとってはどうでもいいことで、それはしょうがないんです。それぞれの見方があるんです。
とにかく私たちは、その状態を把握しておくべきです。「自分が正しいと思うことは必ずしも正しいとは言えない」とわかっておく。その程度に理性的になるだけでも、かなり柔らかくなって、大事に至らずに済むのです。
「『我は思う、ゆえに我は正しい』ということは成り立たない」というフレーズだけでも覚えておけば、とても役に立つと思います。
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